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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第四章 モモの審問
114/148

僕の為すべき最後の仕事

             ○

  

 第四幕が終わった。


 劇場から出てくる観客たちは、そのまま大通りに流れる人々の波と合流し、さらに大きな流れとなった。彼らが向かう先には、巨大な大聖堂が建っている。異端でも、無信仰者でも、生まれて間もない赤子であろうと否が応でも崇高を意識してしまうその建造物は、夜の中では「怪物」を思わせる迫力があった。


 信徒たちは灯石を入れた小聖匣マキルナを首から下げているため、淡い光の集合体が大聖堂へと続くその光景は、まるで星の川のような美しさがあった。僕に心があれば、きっと感動の一つくらいはしてあげられるのだろう。だが、いくら光が瞳を透過しても、僕の内まで照らしてはくれなかった。


 遠い日の光を想った。

 彼女が僕を連れ出してくれたあの日。

 土砂降りの雨のように頭から被ったあの光の洪水。


 屈託なく笑う彼女の笑顔も。

 体がぽかぽかと温まるあの感覚も。

 目も開けられないその眩しさも。

 全てが嬉しかった。


 でも、あの人はもう笑わない。

 あの日のように僕と触れ合ってはくれない。

 聖地のために身を削り、心をすり減らしてしまったから。

 害悪どもがその隙間に入り込み、あの人を変えてしまった。

 闇が彼女を染め上げている。


 だからこそ。

 今度は僕が彼女を連れ出してあげなければ。

 あの光の下へ。


 都市の上空には無数の目が浮かんでいる。

 要塞化した都市は、遠目にも異様な姿をしていた。

 だが、市民たちは気にしない。

 聖地が崩壊するその時でさえ、彼らは何も気がつかないのだろう。


 だからこそ、僕がいる。


 聖地の転覆を阻止して、あの人を取り返す。

 それが僕の為すべき最後の仕事だと理解する。


               〇


 暗い通路を歩く。地下へと続く、審問官の隠し通路だ。

 この通路は、さながら審問官という人間の歩みを現しているようだとふと思った。

 光がない。進めば進むほど、闇は深まっていくばかり。そして引き返すことは許されない。命が尽きるまで、聖地の影を進むのだ。


 目的は、魔法陣の作成工房。これは鐘楼の地下に当たる部分にある。

 大聖堂の地下は蟻の巣のように入り組んでおり、僕が入り浸る審問部屋のある場所も一画に過ぎない。細かな通路で縦横無尽に繋がっていて、全ての道を把握している者はいないのではないかとさえ思う。もちろん僕も知らないし、この道を通るのも今日が初めてだ。魔法陣を作る部屋になんて行く理由がなかった。


 だが、今回の異端の計画に際しては、ここが最も重要な場所だ。ヴェルメリオ派どもが量産した潜在的異端信仰者たち。彼らを一斉に目覚めさせるのが鐘の音だとしたら、その鐘を鳴らす魔法陣にこそ奴らの手が伸びているはずだからだ。


 やがて、前方がほんのりと明るくなった。下から光が漏れ出ているのだ。光の中をうかがうと、ちょうど工房の真上だった。壁際に製陣台が並び、職人たちが陣を描いていた。全員が赤い布で顔を覆っている。地下に住む者たちは、不思議と顔を隠している者が多い。

 彼らそれぞれが異なる陣を描いているのだと思っていたが、どうやら一つの陣を作成しているらしい。部分ごとに描き、最後に合わせるという手段がとられている。壁に大きな報板が据えられていて、細かな指示が送られていた。製陣の指示を送っているのは管理塔だ。


 僕は音もなく部屋の中に降りる。誰も注意を払う者はいない。地下の者たちは他人を気にしない。というよりも、自分の世界の中に没頭し、そこから出て来られなくなっている者ばかりだ。たとえ僕が今からこの中の一人を殴り殺したところで、彼らが手を止めることはないだろう。

 彼らの前を堂々と通過し、報板に目を通す。細々とした文字や記号が書かれていたが、あまりに専門的過ぎて僕には分からなかった。部屋を見回し、責任者らしき男を見つける。なぜ分かったのかといえば、そいつだけ何も描いておらず、報石とにらめっこしていたからだ。


 男の顔の覆いを半分ほど上げ、呼吸器を口に当てる。覆いの下から現れた口元は皺だらけだった。


「今作成している陣にはどういう効果がある?」


「点鐘は聖人ゲブラーの福音なり。その意義。一つ、地上の迷える子らが祝福を受けんがための導しるべなり。一つ、聖人の地上における栄光を伝える報せなり。一つ、大聖堂の不滅、聖人・信徒らの絶対的な勝利を宣言するものなり。一つ――」


「もういい黙れ。たとえば、そうだな……眠っている記憶を呼び起こすような作用はあるか?」


「聖なる調べはこの世のあらゆるよこしまからか弱き子らを護るもの。心は洗い流され、邪も無垢に生まれ変わる」


 つまり、心に影響を与えると。


「今から陣を描き直せ。洗脳魔法を削除しろ」


 しかし、男は静かに首を振った。


「鐘の音に変化は許されない」


「なぜだ?」


「ここにいる誰にも、そのような権限はないからです」


 ハッとして振り返る。いつの間にか、部屋の中に女が立っていた。顔の右半分を長い前髪で覆っている女で、鋭い赤い目で僕を見据えていた。ルシエルの妹弟子の従騎士だ。大聖堂付き聖騎士であることを示す、真っ赤な騎士装束に身を包んでいた。


「ネズミが一匹とは伺っていましたが、まさか審問官とは」


 僕の審問官特権は剥奪されている。だから、こいつには僕のことが見える。あの騎士の末路を考えると、恐らくこいつも……。


「ルシエルは元気にしているか」


「ルシエル?」

 従騎士は怪訝な顔をした。


 やはり。こいつも洗脳されている。既に別の人間になっているのだ。ルシエルも同様の処理をされているのだろう。


 この従騎士の女が大聖堂の手駒なら、ルシエルのように手を組むことも交渉することもできない。倒すか逃げるかのどちらかしかない。今ここで魔法陣をどうにかしなければ異端どもの計画を阻止することができない以上、僕の選ぶべき道は決まっている。


「無駄な抵抗はおやめください」


 僕の挙動から考えを読み取ったのだろう、従騎士は釘を刺した。

 僕は身構えながら、製陣台を盾にするように移動する。女はゆっくりと台を迂回し、接近して来る。


 従騎士相手に一体どれだけ立ち回ることができるだろう。ルシエルの戦うところは見たが、実力を測ることはできなかった。奴は明らかにまだ余力を残していたからだ。この女はルシエルよりも強いのか? 無防備で近づいてくる様は隙だらけにしか見えないが……。従騎士とは騎士一歩手前という印象だが、その実力もピンキリではないのか。

 製陣職人の影に入り、ほんの一瞬視線から従騎士が消えた。そして。次の瞬間、僕の目の前に立っていた。


「え」


 何が起こった――?


「しっかり見ていなくては」


 女は一言そう呟くと、僕を蹴り上げる。そのまま天井まで吹き飛ばされてしまう。

 落下の合間、僕は女から目を離さなかった。まだ同じ位置にいる。床に落ちたら、瞬時に地を蹴ってできるだけ遠くに逃げる。でなければやられる――。

 しかし、僕が床に落ちる寸前に女の姿が消えた。すると、空中に女の影のようなものが一瞬見えた気がした。はっきりと見ることができなかったのは、その直後に僕は強い衝撃を受け、またも吹き飛ばされたからだ。気がつけば背中から壁にぶつかっていた。そして床に落ちることさえ許されず、首を掴まれてしまった。顔を壁に押し付けられる。


「かはっ……く……」


 手も足も出ない。

 何だこいつは。ルシエルの比ではない。審問官のこの僕が抵抗さえさせてもらえない。強すぎる。


「もう終わりということでよろしいですか?」


 首を絞める手に力が籠もる。

 ダメだ、堕ちる――。


 僕は咄嗟にポーチに手を伸ばして布を取り出すと、女の胸に付けた。女は素早く僕から手を離すと、布を剥ぎ取った。


「これは……」

 布を検分し、女は言った。「転移魔法陣? どうしてあなたが……」


 どのみちこの聖域では発動できなかっただろうが……それでも隙は生まれた。一枚拝借しておいてよかった。僕はそのまま脱兎のごとく部屋を駆け、天井裏へと逃れた。今は撤退するしかない。あの女はレベルが違う。


「逃がすと思いますか」


 背後から声がした。振り返って確認しても、闇の中に人の姿は見えない。だが、怖気に襲われる。闇が体にまとわりつき、首を絞められたかのようだ。息が苦しい。こんなことは初めてだった。


 奴は追ってきている。この狭い隠し通路では小柄な僕の方が有利なのは確かだ。それに、この複雑に入り組んだ構造を奴が把握しているはずがない。逃げ切るのはたやすいはずだが……どうしてだろう。声はしない、足音さえも聞こえない。とっくに振り切ったと思っても、悪寒が消えてくれなかった。ずっと奴に睨まれているような――これ以上、闇の中にはいられない。眼前に淡い光が見えた。咄嗟に、僕は室内へと潜り込んだ。


 誰かが机の向こうから、こちらを睨みつけていた。コーデリア様だった。僕は巫女の間に下りてしまったのだ。


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