異端のお宝
ルビウスの明かりを頼りに、慎重に廊下を進む。途中、建物全体が大きく揺れ、いよいよ沈没かと肝を冷やした時間もあったが、無事に目的の場所まで到達した。
そこは一階奥の部屋だった。部屋は水に浸かっており、板片がそこかしこに浮いている。壁際にベッドが並んでいて、その寝台は辛うじて水の上にあった。
「アザレア様はここに遊びに来た時には、決まってこの部屋を訪れました。一番時間を過ごした場所とのことで、強い思い入れがあったのだと思います」
それから、ジュリアはカルミルに頼み、ベッドの方へと連れて行ってもらった。
「第伍でもそうですが、孤児院ではベッドの数が足りていません。そこで、病人を優先的に寝かせ、残りのベッドを巡って競争が起きるのです。もっとも、基本的には年長の者たちが独占し、友達や年少の子たちと一緒に眠るのですが」
ジュリアは手前のベッドに乗った。それから、三つ目のベッドへと移動する。
「アザレア様もそうだったと言っていました。彼女はご友人とベッドを独占していたのだそうです。ここに名前が……」
彼女はベッドの側面を指す。ルビウスはジュリアを乗せたままベッドを持ち上げると、明かりで照らした。
『シルヴィアとアザレアのベッド。勝手に寝たら殺す』
刻まれた文字は上からいくつもの傷で消されていた。他にもたくさんの名前が刻まれていたが、新たなこのベッドの王たちによって消されていた。
「このシルヴィアという方と仲が良く、いつも一緒にいたのだと嬉しそうに語っていました」
アザレアがこの第捌にいたのは事実であると証明された。貴族が孤児院の出であることは、この聖地ではそれほど珍しくない。修道院に入り、大聖堂に家柄を用意してもらうのだ。恐らくはアザレアは私聖児だったのだろう。シルヴィアという人物には心当たりはないが、まあどこかのギルドにいるか、とっくに死んでいるかだろう。
それにしても、こんな小さなベッドに二人も寝られるのか。小さな子供ならまだしも、少し成長した者なら寝返りも打てないだろうに。抱き合って眠っていたのだろうか? 床で寝るよりはマシということか。
「それで? アザレアは聖典をどこに隠した?」
ジュリアは床へと目をやった。
「先ほども言ったように、孤児院では修繕の際、外の力は借りません。全部自分たちの力で行うのです。あの時もそうでした」
「床下――?」
その場の全員が、同時に床を見た。
「この部屋の下には根が張っています。当時、その内の一つが破損していました」
僕は水面から手を伸ばし、床に触れる。根か。
聖地の住宅は根子建築と呼ばれる特殊な造りをしている。下部が膨らみ、根と呼ばれる部分が地面を貫通し、水中にまで伸びているのだ。これには浮島の移動に耐えられるようにという目的もあるが、外から水を取り込み飲料水とするろ過装置や、逆に、外へと送る下水処理機能もある。孤児院は都市の他の建造物とは違い木造ではあるが、例に漏れず根子が生えているらしい。下部が膨らんでいないため、知らなかった。そもそも、そんなこと気にしたこともなかった。
「あの日……午後にアザレア様がここにやって来ました。ダリアちゃんも一緒です。みんなで遊んだ後、お昼寝の時間になり、私は年長のお姉さんに連れられてこの部屋に来ました。アザレア様もダリアちゃんを連れてやって来て、本の読み聞かせをしてくださいました。例の本だったと思います。とても面白かったことは覚えていますが……内容は……今では思い出せません。
その時、床から水が噴き出しました。修理したはずの根子がまた破損したのです。事情を知ったアザレア様は、自分が直すとおっしゃってくださいました。彼女も孤児だったので、大工仕事はよく行っていたそうなのです。私たちが止めるのも聞かずに、彼女は床下へと潜りました。そして道具を運び込み、一人で修理を始めてしまったのです」
「その話とお宝と何の関係がある?」
「それ以降、アザレア様の本を見た覚えがないのです。私の記憶が確かなら、アザレア様は地下に潜る際、あの本を持って行ってしまいました。思うに……彼女は根にあの本を残したのではないでしょうか」
「なるほどな」
僕はブーツを脱ぐと、そのまま床を踏み破った。ジュリアの言う通り、床下には根子が通っていた。僕たちは水に浸かり、次々に床板を引きはがす。根子は完全に露出している。上区画では地面に埋まっているので、下区画仕様ということなのだろう。
僕は仮面を脱ぎ、ジュリアに手渡す。
「確認して来る」
そう言い残すと、水に潜った。
ルビウスが煌々と光を発しているため、水中でも視界に問題はなかった。上から見て分かっていたことだが、修理の跡は一つではなかった。無数にあるその痕跡が、孤児院の歴史とその生活の程度を思わせる。根子の素材も、上区画の物とは違っていた。ただの硬い管のようだ。修理というのも、ギルドで教わったのだろう、パルテンを使ったものらしい。離れ島に生えている木の実の一種で、これをよく練り、乾燥させると硬くなる性質を持つ。パルテンを塗り込み、その上から布で覆っている。
聖典はこの根子の内側にあるのだろうか。だとしたら水に流され、どこかに詰まっている可能性がある。孤児院中の根子を探さなければならないのだろうか。もちろんそんな時間はない。
僕は浮上すると、頭を振る。「どこか、場所に心当たりはないか? 上から見て何か分かったことは?」
一人一人に訊ねるが、カルミルもルビウスも首を横に振るだけだった。「お前は?」、ジュリアを見ると、彼女はすっとある一点を指さした。
「……そこです」
彼女の指の先には、確かに布でぐるぐると覆われている箇所があった。僕は根子の上を歩いてその地点に向かう。すぐに潜って布を引きはがした。穴をパルテンで塞いだ形跡が見て取れた。だが、それだけでは十分じゃなかったのだろう。その上からさらに袋に入った板らしきもので押さえつけ、布を巻いていた。
僕は修理跡を殴って破壊すると、根子の中へと手を入れた。胸の内では、もはや祈っていた。頼むからここにあってくれ――。だが、僕の手が何かを掴むことはなかった。その事実を確認すると、僕は浮上した。
「ダメだ、ここにはない。固定されていなかったんだ」
「そうか……」
僕を床の上に引き上げてくれたカルミルの声には、明らかな落胆が混じっていた。当然だ。これで孤児院中の根子の捜索が決定した。いつ沈むかも分からない廃墟だ、悠長にはしていられない。もちろん既に湖に排出されてしまっている可能性もある。やれやれ。僕が次の行動に移ろうとした、その時。
「その手に持っている物は?」と、ルビウスが訊ねた。
僕は自分の手を見る。修理部分を固定していた何か。路傍に寝転がる野良犬の毛にも似た汚い襤褸の袋に入っている。もしも誰かをうんざりさせるプレゼントを贈りたいなら、それを包むのはこれ以外にないだろう。一応、中を確認してみる。
「ただの板だ。これで穴を塞いでいた――」
布を解いて現れたのは、一冊の本だった。
へ?
僕は硬直し、吸い込まれるようにその本を見つめた。あまりにも予想外のことが起きると、人間という奴は頭が真っ白になり、思考を放棄する。だが、何も考えていないわけではない。少なくとも僕の場合は逆だった。一斉に考えが脳内を駆け巡り、一つの思考に集中することができなかった。もっとも考えと言っても、何種類もの「何で?」でしかないわけだが。
「聖典を……根子の修理に使ったのか……?」と、ようやく声を絞り出す。
「アハハハッ!」、腹を抱え、ルビウスが笑った。「なるほど、考えたものだ! 確かに聖絶技法なら腐食もしないし破損することもない! うってつけだ! もっとも普通は考えてもやらないがな!! アザレア・バーガンディ! 何と素晴らしい人だろうか!!」
装丁は意外なほどに質素だった。お宝と呼ばれていたものだから、つい種々の魔石で飾られた美しい本なのだろうと思っていた。しかし、赤い装丁のその表紙には余計な物はなく、ただ『シュアン』と書かれているだけだった。
僕はゴクリと喉を鳴らす。
「それが――」
カルミルが息をのんだ。「ついに……見つけたんだね」
「ああ……そうだ」
そっと表紙に手を触れる。「これが異端のお宝だ」




