朝の異変
屋敷は昨夜の晩餐会の片づけで大忙しだった。
今、聖地にはこの国の王女様が滞在している。ルチル殿下は三人のお供を連れ、昨日このシュアンへとやって来た。
巡礼の旅を終えた彼女を、私たち市民は総出で迎えた。水路の脇に並び、舟が通り過ぎるのを今か今かと待ち構えた。実際にその瞬間が来た時、周囲で落雷のような歓声が上がり、少し怖くなったのを覚えている。
殿下は赤い髪をした女の子だった。
いやに痩せているな、というのが一目見て思ったことだ。旅のせいで肉が削げ落ちてしまったのだろうか、頬がこけ、腕は棒のように細い。
笑顔で私たちの声に応えてくださっていたのだが、その表情にはどこか不純物が混じっているように見えた。柔らかな笑みの中には、氷のような冷たい顔が隠れているようで……なんだかこちらまで冷めてしまった。彼女は私たちの歓待を喜んではいないのだ。それなのに理性を無くして騒ぐなんて馬鹿みたい――。私は拍手をやめ、舟が通り過ぎてしまうのを待つことにした。
そして、私は水の中にいた。
いくら私が鈍くさくとも、立っているだけで水路に落ちたりはしない。誰かに背中を押されない限りは。一体誰が……私に恥をかかせ、罰を与えようとした誰か……心当たりが多すぎるので特定することはできないけれど。
必死にもがいていると、すぐに誰かの手が伸びてきて、舟の上へと担ぎ上げられた。顔を上げると、殿下の冷たい目がそこにあった。
「まったく、なにをしているの。濡れちゃったじゃない」
と、叱責される。顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。また水に浸かって冷やさなきゃ……。
舟にはコーデリア様も乗っていた。鋭い眼光に射抜かれ、私は恐怖のあまり震えることしかできなかった。
しかしさすがは殿下、すぐに私の手を取り、
「まあ、何て優しい子なの。水に飛び込んでまで私を歓迎してくれるのね」
と、言ってくださった。人々は笑い、コーデリア様も渋々としか言いようのない笑みを浮かべた。
私は舟に乗せられたまま、しばし同行させていただくことになった。
場違いは明らかだった。
人々の歓声を全身に浴び、私はもう恥ずかしいやら気まずいやらでうつむいていた。
でも、それも最初だけ。
人々の明るい声は次第に心地の良さへと変わって行った。腕を振って応えて上げたいくらいだった。胸の中で芽生えた小さな想いが、急速に大きくなっていく。私もいつか、こんな風にみんなに喜ばれるような人間になりたい――。
今では愚かに浅薄とため息の一つも吐きたくなるが、その時私は心の底からそう思っていた。
大聖堂の手前で、私は舟を下ろされた。船着き場を通りかかった時、コーデリア様は素早く私を殿下から引きはがすと、背中を押して下船させた。最後に殿下に深々と頭を下げたが、彼女は大聖堂に夢中になっているようで、私がいなくなったことにも気づいていないようだった。
代わりにコーデリア様の熱烈な視線が私を捉えた。背筋が凍えるほどの怖い顔をしていたが、殿下の手前、手を出せないようだった。やーいと舌を出しておどけられるほど愉快な人間ではない私は、逃げるようにその場を離れた。
その晩、屋敷では殿下の巡礼の達成を祝して盛大な晩餐会が催された。聖地の貴族たちが一堂に会する、それはもう豪華の粋を極めたような立派な祝宴だった。私でさえおめかしさせていただいたほどだ。お腹の膨れた者たちがひしめき合い、貧困の気配は埃とともに消え去っていた。
こんな時に失敗を演じてしまえばただでは済まない。
追い出されるのが屋敷ならまだいいが、悪ければこの国から、もっと悪ければこの世からということもありえる。それはもちろん御免こうむりたい所存であるから、私は細心の注意を払って料理を運んでいた。頭の中であらゆる可能性を並列思考、いかなる事態にも即応する万全の体制を整えたおかげで、一つのミスもしないで済んだ。私はやればできる子なのだ。初めこそ私の挙動に目を光らせていたマダムも、途中からは他の人に目を向けていた。全てが完璧のはずだった。しかし気づけば私は床に膝をついていた。
陶器の割れるすさまじい音が広間に響いた。料理は無惨に床に散らばり、周囲の目が私に集中する。
どうしてこうなってしまうんだろう。
また私は何もないところでつまずいた。
本当は誰かに足を引っかけられた。でもそれを証明できない。
顔を上げると、コーデリア様が奥歯を噛みしめ、眉間に渓谷のように深い皺を刻んで私を見ていた。その瞬間、私は自分の命の儚さを悟り、運命を呪った。今宵にこそ激しい折檻の末にこの短すぎる生涯を終えるのだ。私は一体何のために生まれてきたのだろう? その疑問に満足に答える猶予さえなく……。
絶望の淵で佇んでいる私の耳に、「ごめんごめん、大丈夫だった?」と、対照的な明るい女性の声が入って来た。
何をもって大丈夫だと言うのか。この状況が大丈夫に見えるのならあなたはとても素晴らしい日常を送っているのでしょうね、とやけっぱちの皮肉が自分でも驚くほど高速に頭の中を駆け抜けて行った。声の女性は席から立ち上がると、私の方へとやって来た。そのまま私の膝の間に手を伸ばすと、何かを摘まむ。腕を上げ、その何かをみんなに見せた。
「ごめんねぇ、フォークがすっぽ抜けちゃって。私のせいで驚かせちゃったねぇ」
と、彼女は言った。
途端、周囲から笑い声が漏れる。お皿と一緒に私が壊してしまった場の空気は、瞬く間に修復された。
「お嬢ちゃん、代わりのフォーク持ってきてくれるかな?」
と、彼女は言った。
「はい、喜んで!」
本心だった。
いくらだってお届けします。
だって、私の目が確かなら、フォークは彼女の袖の中から現れたから。
その方はジャンヌ様といい、王国騎士シューレイヒム卿の従騎士なのだそうだ。とても美しい方だけれど、いざ戦えば王都でも指折りの強い人なのだという。彼女の機転のおかげで私は折檻を免れることができた。フォークを届け、何度も何度も頭を下げると、ジャンヌ様はカラカラと笑って頭を撫でてくださった。
辺境に位置するこの聖地にも王国騎士の勇名は轟いている。中でもシューレイヒム卿といえば特に人気のある方で、なんでも王都の子女が初めて恋を覚えるのは彼に対してなのだという。私も恋を知ることができるのかしらんと、内心楽しみにしていた。きっと見たことのないような素敵な方に違いない……。
そして現れたひげもじゃの大男。
そんなはずがない。
そんなわけがないのだ。
しかし現実とは非情なもの、彼こそが紛うことなくシューレイヒム卿だった。騎士というよりは山賊の頭と紹介された方が納得できそうで、転職すれば天職に違いないと酷いことを思ってしまった。
彼のもう一人の弟子はとても整った顔立ちをしており、私はこの人こそがシューレイヒム卿に違いない、そうじゃなければ嘘だ、もうそれでいいじゃないと思ったほどだ。使用人の子たちはみな彼に見惚れてしまっていた。その方はルシエル様というらしい。晩餐会に出席した貴婦人たちは全員ルシエル様のもとに集結し、見ているこちらが頭を抱えたくなるほど色目を使っていた。ルシエル様は柔和な笑みを浮かべて対応していたが、どこか困っているようにも見えた。社交の場にあまり慣れていないのかもしれない。
殿下もシューレイヒム卿もルシエル様も人に囲まれ、料理を食べることすらできずにいた。ジャンヌ様だけがごちそうを食べるのに夢中で、誰の相手もせず、また誰からも相手にされずにいた。だから、私が独占することができた。料理を届けるたび、ジャンヌ様は私の頭を撫でてくださった。従騎士ほどの方なのに、少しも飾らない人だ。初めて会ったのに、私はもう大好きになった。
コーデリア様は食事をすることもなく、終始殿下にべったりと張り付いていた。思い出してもつい笑ってしまう。殿下の顔色をうかがっては、忙しなく使用人に指示を出す。おもてなしをしている以上当然のことなのは分かっているが、その姿はひどく滑稽に見えた。絶対だと思っていた権力者が私と同じくらいの歳の少女にへりくだっていた。顔色一つ変えずにコーデリア様に応える殿下の姿は、実際よりも何倍も大きく見えた。
人間の価値は平等ではない。
殿下は生まれながらにこの国の誰よりも価値があるが、私にはない。
殿下はコーデリア様をペコペコさせることができるが、私はボコボコにされる。
同じ人間なのに、どうしてこうも違うのだろう。
私はどうしてこんな風に生まれたのだろう?
私と殿下の対比なんて、本当に意味のないものだ。使用人の寝室と母屋のお部屋以上の差があるのだから。
でも、考えないではいられない。
私だって本当は、あの場に客としていられたはずなのだ。
料理をこぼした使用人に、手を差し伸べて上げることができたはずなのだ。
でも、そうじゃない。
母は湖の底に沈んでいった。花冠は枯れ、私は一人。口の中に血の味が広がり、体中が痛かった。惨めだ。哀れだ。どうして私はまだ生きているのだろう。未来なんてありはしないのに。湖の下で、母は楽しく暮らしているのだろうか?
「ダリア!」
ハッとして顔を上げる。
振り返ると、背後に男の人が立っていた。使用人の一人で、いつも私を無視するつまらない奴だ。
「どうしたんだい、ぼーっとしちゃって。疲れてるのか?」
彼はいやに優しい口調でそう言うと、私の肩に手を置いた。
「え?」
「ほら、箒貸せ。俺が手伝ってやるよ」
頭でも打ったのだろうか? 新手の嫌がらせかと思ったが、本当に掃除を始めた。彼に続いて、ぞろぞろと他の男たちもやって来る。
「ダリア、大変だろう。俺に任せろ」
「一人でこの棟全部は無理だろう、マダムはたまに無茶言うからな」
「ここは僕たちがやるからさ、ダリアは休んでなよ」
何故だろう。男の人たちが今日はやけに優しい。私の仕事を代わってくれたり、慰労してくれたり、パンを持ってきてくれたりとまるで王女様のように至れり尽くせり。女の子たちに知られたら酷い目に遭うのは分かりきっているのでやめてほしいのだけれど……。
そんなことを思っていると、本当に女の子たちがやって来た。
また集団で私を虐めようというのだろう。一人では何にもできない弱虫のくせに。彼女たちはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていたが、男の人たちに気づくとハッとして立ち止まった。遠くから私のことを睨んでいたが、やがて、「ちょっと、ダリア!」と叫んだ。
「アンタ、ちゃんと掃除してるの? ほら、よく見なさいよ。埃まみれじゃない」
「マダムに言いつけてやるから」
「本当グズなんだから」
そして、男の人たちに視線を送る。私も彼女たちも、男の人たちは同調すると思っていた。
「やめろよ」
予想に反して、男の人の一人が厳しく言った。女の子たちは面食らったようだった。
「毎日毎日恥ずかしくないのかよ。いつまでも子供みたいな真似してさ」
あなたもしていたような。
「俺たちは同じ屋敷で働いてるんだ、もう家族みたいなもんじゃないか。どうしてダリアにだけ冷たくするんだよ」
あなたもしていたような。
「ダリアに酷いことするのは僕が許さないぞ」
あなたもしていたような。
「な、何よ……」
「アンタたち、おかしいんじゃないの?」
女の子たちは戸惑いを隠さず、互いに顔を見合わせている。
「おかしいのはお前たちだろ」
いや、あなたたちだ。
「馬鹿みたい!」
ヒステリックな捨て台詞のようなものを残し、女の子たちは去って行った。
勝った……。
しかしこれは喜んでいいのだろうか? 彼らはどうして私に味方してくれるのだろう。まさか全員がグルで、後になって私を馬鹿にするつもりだろうか? それはちょっと酷すぎる気がするが、まあそれならそれで構わない。演技でもなんでも、彼らは本当に働いている。私の役に立っているのは紛れもない事実なのだから。
その後も、男の人たちは熱心に働き、時折私に喋りかけてくる。
目的を探るために彼らの様子をうかがっていると、私の顔を熱心に眺めて来ることに気がついた。毎日見ている顔だろうに、何をそんなに見つめることがあるのだろう? 今日だけ特別美人の顔が引っ付いているわけでもなかろうに……。隠していた私の魅力に今さらながらに気がついたとでもいうのだろうか?
訳は分からないし、居心地は悪いし、心底気持ち悪かったが、それでも彼らの助力のおかげもあって私は昼までに仕事を終えることができた。




