モモの最悪の一日
「え……何……?」と、力なくロッソが呟いた。
口にこそ出さなかったが、僕も同じ気分だった。想像に反することが起きると、審問官も普通の人間のようになってしまうのだなと妙に感心してしまった。僕らでさえそうなのだから、他の区画では今頃、市民たちが大パニックになっていることだろう。
最初に動いたのは教戒師たちだった。一斉に、爆撃を開始する。しかし、巨人相手では蚊が刺す程度のものでしかなかった。ワーミーたちも各々が魔法を繰り出すが、大して変わらなかった。
集中砲火に晒されても、巨大クーバートは一言も発することはなかった。それどころか、身動き一つしない。ただ、ヘラヘラと不快な笑みを浮かべながら僕たちを見下ろしているだけだ。
「騙されるな、幻影だ! こんな巨体を維持するには魔石がいくつあっても足りない!」
と、ロッソが叫んだ。「奴は紫色使いと既に確認されている! あれは幻影だ!」
まあ、そうだろうな。いくら何でもあれほどの攻撃を受けても全く動じないわけはないだろうし、そもそもこちらになんの干渉もして来ないのはおかしい。何をしに来たんだという話になる。
「本体がどこかにいるはずだ! 本体を探せ――」
周囲を睨みながら叫んでいたロッソは、突然沈黙した。仮面の男の一人を睨みつける。他の者たちもそいつへと目を向けた。今気づいたが、そいつが被っている仮面だけは醜いの方向性が違った。子供の落書きのような、不細工な仮面。こんな奴いたか?
「誰だ、お前は」と、ロッソは言った。
仮面男はきょろきょろと他の仮面たちを見回し、すっと隣の男の影に隠れた。
「今さら遅ぇ。お前は何者だ?」
「ただの通りすがりです」と、男は答えた。
「仮面をとれ」
「嫌です」
「とれ!」
ロッソは男の足元を爆破する。
「ひい、おっかないおっかない。分かった、とりますよ。とりゃいいんでしょ」
男は観念したのか、仮面に手をかける。それから少しずつ仮面を脱いでいく。まるで僕らを焦らすように。あわやロッソが仮面ごと男の顔面を爆破しようとしたその時、ついに仮面は外れ、男の素顔が露わになった。現れたのは、上の巨人と全く同じ丸い眼鏡と不快な笑み。クーバートだった。仮面を脱ぐのに時間をかけ過ぎたせいか、誰も驚く者はいなかった。
「何しに出てきやがった。まさかこいつらを取り返しに来たなんてくだらねえ冗談を言いに来たわけじゃないだろうな」
ワーミーたちへと目を向けながら、ロッソが言った。
「そうだなぁ」
クーバートは相変わらずの軽薄な笑みを浮かべながら、無残な姿となった仲間たちを見る。それから神妙な顔でうつむくと、肩を震わせた。まさか……泣いているのか?
「くっくっく……はっはっはっはっは!」
額に手を置くと、のけ反って笑い始めた。
「アハハ、お前ら何やってんだよ! シーカーがカルム人に捕まって、こき使われてるだなんてさ……おとぎ話でしか聞いたことないぜそんなの! あっはっはっは!」
よほど面白いことなのか、腹を抱え、ゲラゲラと笑う。
「何だこいつは……」
ロッソの呟きは、この場にいた全員が頭の中で思ったことだった。
「あー、笑った笑った。こりゃ一生のネタを手に入れちゃったな。教えてやった時の反応が楽しみだ。いや本当に」
一しきり笑うと、「じゃあそういうことで」と、クーバートはその場から立ち去ろうとした。
ロッソはその前に立ち塞がり、「本当に何しに来やがったんだ、お前。こいつら取り返しに来たんじゃないのか」と訊ねた。
「いやぁ、取り返すも何も洗礼とやらを受けてるんだったら今はどうしようもないし。面白いもの間近で見れたから満足したよ。だから帰る。明日頑張るよ」
「まあ待てよ。お前も仲間たちの輪にいれてやるから」
「アハハ、参ったなぁ。こんな怖い仮面被ってる人たちとはちょっと距離取らせてほしいね」
クーバートは怯えた振りをし、手を挙げて降参を示した。
「ずいぶんと余裕だな。こいつらの力は仲間のお前が一番知っているはずじゃないのか?」
「ああ、よく知ってる。みんな強いよ。俺が集めた仲間だからね。強いし、気の良い奴らばっかりさ。そりゃもうよーく知ってる。でも逆に言うとさ、みんなだってよく知ってるわけだ」
「何を?」
「この俺の力」
クーバートが不敵に笑った。瞬間、ぞわりと背筋を冷たいものが駆け抜けた。周囲の空気が変わったような気がした。それは経験から来る警戒心なのか、それとも生まれ持った動物的直感なのかは分からない。しかし、僕は思った。こいつは危険だ――。ロッソもそう感じたのだろう。咄嗟に背後に飛んだ。
「殺せ!」
そう言うや、掌をクーバートに向ける。
「まあ待って待って!」、クーバートは慌てたように手を前に突き出す。それから、巨人を指した。「とりあえずさ、みんなであれを見よう。面白いから! きっと多分絶対に!」
ハッとして、全員が巨人を見る。すると、巨人の顔に発疹が現れた。それはどんどん増えていく。いや、違う。あれは人の顔だ。眼鏡をかけ、人を苛立たせる不快な笑みを浮かべている。そう、クーバートの顔――。そう気づいた途端、巨人は無数のクーバートに分裂した。
クーバートたちが空から降り注ぐ。教戒師たちやワーミーたちは一斉に魔法を放った。しかし相手は幻影だ。実体のない影はあらゆる攻撃をすり抜ける。クーバートたちは都市に降り立ち、うじゃうじゃとひしめき合う。何だこれは。悪夢か。
「こんなこともやっちゃったりして」
クーバートのどれかが言った。
パチンと指を鳴らす音が聞こえたと思うと、一部のクーバートが教戒師に変化した。そして、異形の男たちへも。僕たちの姿もあった。もはやどれが誰だか分からない。めちゃくちゃだ。
だが、千載一遇のチャンスには違いない。思ったのとは違ったが、絶望的な力がやって来ることにはやって来た。ルシエルは僕と二代目を抱え上げると、走った。クーバートたちの体を通り抜けながら、屋根の端へと向かって進む。
しかし。
背後からの爆破魔法が、目の前のクーバートの頭を通過した。振り返ると、ひしめくクーバートの向こうにロッソが見えた。こちらに掌を向けている。やはりみすみす逃がしてくれるほど、ロッソは甘くはない。動きや影を見れば実体があるかどうかは判別できる。手に負えないクーバートたちは諦めて、僕らの確保を優先している。ワーミーたちも周囲にいるのが分かった。
「逃げられない……!」
「ここまでだな」
ルシエルはふうっと息を吐いた。
「何?」
すると、ルシエルは顔を近づけて来た。
「ルシエル・ラティルス=ハイドランジア」
僕の耳元で、確かにそう言った。
「え?」
「俺を見つけ出し、その名前を呼んでくれ」
その直後――。
大聖堂の鐘が鳴った。
都市の家々を超え、人々を超え、その響きは僕たちの耳へと確かに届いた。
「待ってるからな――」
そう言うや、ルシエルは僕と二代目を放り投げた。
クーバートの群れから飛び出した僕たちをめがけ、ロッソや教戒師たちが爆破魔法を放った。咄嗟のことだったから、自分でもどうしてそうしたのかは分からない。しかし、僕は二代目を庇った。こんな奴、盾にすればよかったものを……あろうことか抱き締めてしまった。その結果、肩を、腕を足を、背中を撃たれた。痛いどころの話じゃない。まだ意識があるのが不思議なくらいだ。
ああ、今日はなんという日だ。
朝から審問に戦闘、殴られ切られ頭痛に火傷。おまけに爆撃か。これまでの人生で最悪の一日なのは間違いない。
もう疲れた。このまま鐘の音に身を任せ、大聖堂の道具に戻りたい。昨日までがそうだったように。コーデリア様に命令されるがままに、腕を振るっていられたらどれだけ楽なことだろう。そうさ、僕は人形なんだから――。
頭から水の中に突っ込んだ。そのまま、なすすべもなく沈んでいく。よく水に沈む日だな。
水面は、さながらあの世と現世を分けている膜か何かのようだった。どんどん遠くなっていく。水の中に響くのは、重い呻き声のような音。さながら、亡者が僕らを取り込もうとしているかのようで……。
水の壁に阻まれた鐘の音は、もう美しくは聞こえなかった。




