鐘の音
その荘厳な音は、何も持たない私たちを精一杯に歓迎しているかのようで。
大気に漂う汚れとか、人が抱いた負の感情なんかをまとめて浄化してくれるかのような。愛情に、問答無用で抱擁されている感じ。
「美しい音色ですね」と、ディオニカが言った。「心なしか、胸に染み入るようです」
私もそう思った。
音はやがて小さくなっていき、不確かな名残までが消えてしまうと、そこに残ったのは寂寥だけだ。
だからこそ、つまらない気分にもなって――。
「気のせいでしょ、馬鹿みたい」
「失礼しました」
すぐにディオニカは謝ってくれる。
まただ。どうして私は……。
少し気まずくなっていると、
「うわあ、見て見てすっごい!」
左の馬上でジャンヌ=マリアが感嘆を上げた。「本当に湖の上に都市があるんだね! 話には聞いてたけど、ここまで凄いとは思わなかったな!」
盆地の底には視界いっぱいに湖が広がっていた。
湖に浮かぶ石造りの建物群はあまりにも異質で、さながら別世界に足を踏み入れたかのようだった。
これが聖地シュアン。
湖上に浮かぶ、魔法都市。
聖地は浮島という人工の島の集合体で、長い提道状の橋により、湖岸の三方と繋がっていた。何かの折には橋を取り外して湖上の要塞とするのだろう。
都市の内部に目を向けてみる。
秩序正しく並んだ家々は、整然としているからこそかえって特異性を際立たせていた。どこか病的でさえあるその緻密さを前にすると、自然と背筋が伸びてしまう。湖には他にもいくつかの島があり、小さな町があるものもあった。
「ごらんください、殿下」
右の馬上からルシエルが眼下を指す。
都市の中心にある巨大な建物だった。
「あれこそが我々の旅の目的地、聖ゲブラー大聖堂です」
大聖堂は都市とは独立した島の上に建っているらしく、少し高い場所にあった。都市の建物よりもひときわ大きく、遠く離れた丘の上からでもその威容は十分に察せられた。
今よりはるか昔、聖人ゲブラーは難民たちをこの地に導いた。その時分、まだシュアンはとても人の住める場所ではなかったそうだ。ゲブラーは民たちとともに湖の干拓を行うところから始め、一からこの美麗な都市を作り上げた。強大な力によって秩序を成して来た彼にとって、それは初めての創造だったという。奪った命の償いをするかのように、ゲブラーはこの地で働き、そして没した。彼の名を冠する大聖堂は今では聖人教の聖地の一つとされている。
「あ、見て!」
ジャンヌの喚声に、私たちは彼女の指の先を見る。都市外側の区画の一部が動いていた。ルシエルの話では、浮島は魔法で動かすことができるのだそうだ。そのため、シュアンは頻繁に街並みが変わるらしい。
都市が区画ごとに切り取られていく。いや、違う。もっと細かく、家単位で分かれていた。小さな小さな浮島たちがワッと湖に散らばっていく。その光景は、水面に浮かぶ桜の花びらを思わせた。
やがて、家たちは一つの光る浮島を中心に集まり始めた。すると、通りや水路が形成され、橋で繋がっていった。新たな区画が生まれているのだ。みるみる内に、都市が形を変えてしまった。
「なるほど、動く都市とはよく言ったものです。なんと素晴らしい魔法でしょう!」
長い髪をかき上げ、興奮を隠さずにルシエルは言う。王都の子女なら見惚れてしまう仕草だろうが、私はそんなに甘くはないぞ。
「やっぱり世界は広いね! 王都にいただけじゃ、想像もできないものが見れるんだから。あーあ、もうちょっと色々見てみたいなあ。ここで終わらずにさ、カルム中の聖地全部巡ろうよ! ハルマテナまで行った方が楽しいって!」
ジャンヌは冗談なのか本気なのか判別のつかない、にやけた顔でそう言った。
「ここには聖誕祭までいるんだっけ?」、不穏な話題を断ち切るため、私は振り返ってディオニカを見た。
「ええ。聖週間の儀式に参加し、シュアンの民たちと祝祭を共にします」と、ディオニカは答えた。「そして王都に戻るのです。苦難を乗り越え、一回りたくましくなられた殿下を見れば、誰もが目を見張ることでしょう」
「ふん!」
私は否定的に鼻を鳴らした。
この巡礼の旅で、自分が成長できたとは少しも思えなかった。
そもそも王都とこのシュアンはそれほど距離があるわけではない。とことこ歩くお馬さんに乗って十五日かかったけれど、それは私がいたからで、ディオニカたちならもっと早く到着することもできただろう。野宿などすることもなく安眠し、提供された料理を豚のように貪り、王都にいた時と同じで不自由など少しも感じなかった。それもそのはず、全ては大人たちが綿密に計算した旅なのだから。巡礼路の各地点に警備をする兵士の姿があった。あれで隠しているつもりなのだろうか? 私は常に見守られていた。危険の芽を丁寧に摘み取られた道の上を、いかにも過酷な振りをして歩いていただけだ。いや、歩いてすらない。
それでも稀にあった辛いことは、全てディオニカが肩代わりしてくれた。一回り成長したのはむしろ彼の方では、と思う。顔はひげでびっしりと覆われ、ただでさえ怖い顔が一段と恐ろしくなっている。高い背丈に身にまとう筋肉の鎧も相まって、騎士というよりは山賊の頭と紹介すれば誰もがすんなりと受け入れてくれるのではないだろうか? いっそのこと転職すれば、意外と天職かも……?
と、そんな酷いことを考えていると、背中に感じる彼の体が震えていることに気がついた。ギョッとして振り返ってみると、ディオニカは涙を流していた。
「私はとても嬉しいのです。失礼ながら……シュアンに着くことはできないだろうと思っていました。すぐに王都に引き返すことになるだろう、と……。ですが、我々はたどり着くことができた。あなたは巡礼を成し遂げたのです。自覚はなくとも大きく成長していますよ」
「ディオニカ……」
山賊の目にも涙……。私の胸の中を温かいものが満たすのを感じた。いけない、このままでは溢れてしまう――。
「アッハッハッハ!」
その時、馬鹿みたいな笑い声が場の雰囲気をぶち壊した。
「な、な、泣いてる! このオッサン、泣いてるよ!」
ディオニカの顔を覗き見て、ジャンヌはお腹を抱えて笑った。あまりにも大きくのけぞる者だから、馬上から落ちはしないかとひやひやした。「やめてよもー、ぽんぽん痛ーい。ひーひー……」
私の胸はすっかり空っぽになっていた。
「お前には心ってものがないのか?」、不躾な妹弟子をいつものようにルシエルがたしなめてくれる。「今が馬鹿笑いする時だと思うか? どうして師の意を汲んでやれない。それでも人間のつもりか?」
「ハッ。アンタがそれ言う?」、指で涙を拭いつつ、ジャンヌはルシエルを睨みつけた。「アンタに比べりゃアタシの方がよぉっぽど人間だっての」
「ほほーう、言うじゃないか……」
自分を挟んで睨み合う弟子たちになどまるでお構いなしに、ディオニカは指で鼻の頭を摘まみ、空を見上げていた。
「申し訳ございません。涙もろいもんで……」
「知ってる」
私はこの人に言うべきなのだろう。ありがとう、と。ここまで来ることができたのはあなたがいてくれたおかげだよ、と。また泣いちゃうな。
私は後ろに倒れ、ディオニカに背中を預ける。
「あの……ディオニカ……」
「何でしょう」
「その、えっと……」
コホンと、咳払いが勝手に出た。
「いつまでこんなところにいるつもりなの? ゴールは目の前に見えているのに! 早く行きましょう」
「かしこまりました」
ディオニカは指で涙を拭うと、手綱を引いて馬を歩かせた。
どうしてこうなっちゃうんだろう?




