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豆腐屋と荻生徂徠の仲も戻ったことで一段落ついたわけでございますが、一段落すると今度はホスト、何をしたらいいのかわからない。
赤穂浪士の切腹は二月のことでございますが、これは旧暦。現在の暦なら三月二十日になりますから、『徂徠豆腐』のサゲは三月の終わり頃となりましょう。
三月も終わるとなると暖かくなる頃合いでございます。そろそろ桜が咲き出す。当地でも花見は庶民の娯楽でございますから、行楽シーズンの開幕と言ってもいいでしょう。
ただ、遊ぶにも金がいる。
金が必要なら働けばいいのだが、落語国にはこのホストに務まる仕事がない。
ホストクラブでもあれば、そこで働きたいとも考えたが、当然そんなものはございません。
何か仕事が見つかるまで、しばらくはブラブラとするかとホストは考えていた。
(とりあえず名所巡りでもすっか)
ホストの頃から、落語に出てくる場所を巡ってはみたい、いわゆる聖地をこの目で見てみたいと考えることはあったが、真夜中に働き昼間は寝る生活でございました。
さらにはナンバーワン、毎日のように同伴出勤にアフターだ。
それに加えて睡眠時間を削り寄席へ通っていた。
当然、名所巡りなどする時間もなかった。
しかし今はナンバーワンホストじゃない。転移した今は何をするわけでもなく働くこともない。落語の中に出てくるまま見ることも出来る。
ならば名所巡りをするのは当然の成り行きでございましょう。
軽い気持ちでホストが向かったのは日本橋。
現在でも日本橋はございますが、上を首都高が走っているせいで景観が悪いとかなんとか話題になったこともございます。
当時から江戸の中心地でございますから、往来を行く人は多く両脇には大店が並ぶ。大変に活気のある場所でございます。
ただ活気はあるが何があるってわけでもない。浮世絵で見たことがあるような気がする日本橋を見るくらい。
昔ですから、橋っていうのは大雨が降れば流されてしまうものでした。流されるんだったら最初から橋をかけてもしょうがない、そんな川も珍しくない。
有名な六郷の渡しに橋がかかっていたことはございましたが、あまりにも簡単に何度も橋が流されるというので諦めてしまった場所の一つでございます。
橋の少ない時代ならば、日本橋も物珍しさもあるでしょうが、ホストにとって橋など珍しくもない。
早々に飽きてしまい、日本橋からさらに足を進めることにした。
顔を上げると五重塔が見える。落語には浅草寺もよく登場しますので、ホストも承知している。今度は浅草を目指すことにした。
浅草寺の歴史は大変に深く、江戸幕府が開かられるずっとずっと前からございます。浅草寺の観音様が開眼なされたのは、なんでも飛鳥時代になるという。
当然、都内に現存する神社仏閣として最古でございます。
江戸の頃になると、境内に仲見世と呼ばれる商店街のようなものが設けられた。また、大道芸などが行われ庶民が集まり大変に賑わったそうでございます。
日本橋を離れると一旦人は少なくなるが、浅草へ近づくについれ再び人手がある。
ホストに比べると、周りを行く人々は大変歩く足が速い。籠や馬はございますが、庶民の移動は自分の足が頼りだから歩き慣れている。
ゆっくり歩くほど暇もないし、そもそも江戸っ子の性分じゃない。
当然、ホストは周りから浮いている。
「ちんたら歩いてる奴がいるかと思えば、熊公じゃねえか。しばらく見ねえと思ったら、変な格好してやがるな。どうしたんだよそれ。ぼんやりしてるから騙されちまったか」
声をかけてきたのは紺色の小袖を着た男。背は高くないがしっかりとした体躯。職人だろうか。
悪い奴ではなさそうだが、当然ホストはこの男のことなど知りもしない。もちろん、熊公が誰なのかも。
「八の野郎も最近見てねえけど、元気なんだろ」
「ハチ?」
「なんだよお前。ついに八のことも忘れちまったのかよ。八って言ったら八五郎だよ。まだ同じ長屋に住んでるんだろ」
「ってことは、クマコウって熊五郎のこと?俺が?」
「おいおい、大丈夫かよ。頭でも打ったのか?拾い食いでもしておかしくなっちまったか。自分の名前まで忘れちまうとは驚いたね。そうだよ、お前熊五郎だよ」
ホストが、「クマコウ」から「熊五郎」の名前を推察出来たのには理由がございます。熊五郎と八五郎、落語でよく登場する人物なのでございます。
「能天熊にガラッ八」などと申して、熊五郎は能天、つまり後先も考えない能天気。さらには大酒飲みで世話好きな人物として登場することが多い。
八五郎の方はガラガラ、ガラガラといいますのは江戸っ子らしが軽々しい、というような意味合いだそうでございます。
つまり熊五郎と八五郎、様々な落語に同じ名前でよく出てくるだけじゃなく、似たような性格として描かれるのでございます。
アニメでいいますと、ヒロインの髪を赤か青かで性格を描き分けする、それに近いでしょうか。
「せっかくこうして会ったんだしよ、少しやろうぜ」
町人風の男がクッと動かしたあごの先は、看板代わりに茹でダコをぶら下げた煮売り居酒屋だ。
「それがオレ、ちょっとコレがないんすよ」
これはチャンスだと踏んだ。ホスト時代にも得意としていた甘えるような困り顔で、さらには目を潤ませて男を見つめる。
「しょぼくれた顔しやがって、そんな事くらい俺は知ってて誘ってるんだ。俺が出してやるからよ。ほら行くぞ」
ホストが狙った言葉を引き出した。
ホストでございますから酒は毎日飲んでいた。酒好きというわけではなく、仕事だからと飲んでいた酒だが、毎日浴びるほど飲んでいたせいか、こうして飲めなくなると寂しいもの。
それが久しぶりに酒が飲めるとなれば、しかも御馳になるならと、尻尾をフリフリする犬みたいになって着いてった。
現代でも古い蕎麦屋にあるような、使い込まれた正方形の小さい机を囲んで飲み始めると、熊公本人は随分と人望があるのでございましょう、「久し振りじゃねえか」と声をかけてくるものがどんどんと現れる。
その度に一杯御馳になる。
仕事として飲む時とは違い、今は気兼ねなく酔っぱらえる。それでもホストの仕草は体に染み付いているもので、黙って飲んでいるわけがない。
コールはする、歌っては踊る、どんちゃん騒ぎだ。
二升は飲んだでございましょうか、久し振りの酒に前後不覚のヘベレケになっていた。
気がつけば外は真っ暗。油やロウソクは高級品でございます。当然街灯なぞあるはずもない。月明かりを頼りに歩き出したところまでは記憶がある。
気がつけば朝だ。しかも、どこか屋内にいる。ここがどこなのか、どうしてここへ辿り着いたのか、まるで記憶がない。
熊五郎の知り合いに連れてこられたのだろうか、でも他に人はいない。ホストただ一人。
ほどなくドンドンと強く戸を叩く音が聞こえた。