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「四文?」
やはり別世界、通貨の単位が違う。
一文無し、早起きは三文の得、の文でございます。一両の4千分の一が一文、つまり豆腐1000丁で一両。
「へい、四文になりやす」
スーツのポケットに財布はあるが、その中身は全て円だ。四文なんて単位の金は当然持っていない。
「あのぉ、大きいのもないんすけど、小さいのもないんすよね、オレ」
恐る恐るそう言うと、意外にも豆腐屋は怒る様子も見せない。
「そんなところだと思ってたぜ。でも豆腐一丁でいい顔しやがるじゃねえか、嬉しいねぇ。どういうわけで腹空かせて、こんなところで座り込んでるのか知らねえけどよ、そんなに体がでかけりゃ豆腐一丁じゃ足りねえだろう。おからでよければ食べてくんねえ」
「マジで!頂いちゃっていいんすか?」
「いいよいいよ。食ってくれる人がいればおからも嬉しいってもんよ」
豆腐売りが住む長屋へ行けば余っているおからをもらえるっていうんで、二人してその長屋へ向かうことになった。
「前はおから先生がいたから、おからの貰い手もいたんだけどよ。少し前にフッといなくなっちまってな。余ってるんだよ」
「おから先生?」
(おぉ?落語にあるよな、おから先生が出てくる奴。ってぇことは、ここただの江戸時代じゃないんじゃね。まぁ江戸時代のことなんて、全然知らないんだけど)
「ああ、金がないってんでな。俺が豆腐売ってたらガリガリの体で豆腐一丁買ってくれて醤油を少し垂らしたと思ったら、あっという間に平らげたんだよ。さっきのお前さんみたいによ。奴を箸で切らずに一口でな、気持ちいいくらいにペロッとだ。それで今は細かいのがないから四文のお代はまた今度にって。じゃあ次に頂戴しますって言ったんだけどよ、次もぺろっと平らげて細かいのが無いって言う。その次もぺろっと平らげて、細かいのも無いが大きいのも無いと、こうだ。俺だって商売人だ、一目見ればわかるよ。銭が無いことくらい最初からわかってた。だけど、あんまりにもガリガリだしよ。豆腐のお代は出世払いでいいからって、毎日豆腐持って来るから食べてくれって言ったらよ、それは出来ないって言う。売り物をただで貰うわけにはいかないと。ボロを着て金はないし当然食うものだってないくせに、無銭飲食は出来ないって言う。今にも死にそうだっていうのによ、信念があるんだよあの先生は。それじゃあっておからを出した。おからは余ってるからって言ったらよ、貰ってくれるようになってな、それからはおからばっかり食べてたんだ。それで、おから先生ってわけよ」
その内容にホストは心当たりがあった。心当たりどころじゃない、好きな噺の一つだ。すぐに気がつく。
「そ、それって、もしかして増上寺の近くで勉強ばっかりしてる荻生徂徠」
「おぉそうなんだよ、『お灸が辛い』って言ってたっけな。でもそんなこと、よく知ってるな。じゃあ何か、もしかしてお前さん先生の門弟かなにかか」
「いやいや、門弟とかダチとかじゃなくて。知ってるっつうか、聞いたことがある?みたいな程度っすけどね」
この男、ホストクラブの仕事が始まるまで、毎日のように足繁く新宿にある寄席へ通っていたものだから、見た目はチャラいが荻生徂徠の名前はちゃんと知っている。荻生徂徠について少し調べたこともある。
「知り合いでもねえのに聞いたことがあるってんなら、大したもんだ。やっぱり高名な先生だったんだな」
「でも、消えたっていうことは。もしかして豆腐屋さんが寝込んでた時とか?」
「いやそうなんだけどよ。お前さん、なんだか気持ち悪いな。そんな事まで知ってるのかい」
「サーセン。ちょとそんな感じかなってビビッとひらめいちゃって。そういう話をよく聞いてたんで。それで先生、まだ現れないんすか」
ホストが聞いたことがあるというのは、ホストクラブの客からじゃない。寄席で聞いた落語のことだ。
「そうなんだよ。あれから俺も火事をもらっちまってな。ほら、討ち入りがあっただろ、赤穂藩士の奴だよ。あの翌日だ。先生もどこかで行き倒れてなきゃいいんだけどよ」
(豆腐のお代が払えなくておから食べてた先生って、これ徂徠豆腐じゃね?間違いないよな。ってことは、俺がいるのって江戸じゃなくて落語の中なんじゃね?でもでも、荻生徂徠先生が消えたままってどういうことよ。火事で焼けた豆腐屋を建て直さなきゃ徂徠豆腐は終わらないわけで、ってことは徂徠豆腐の話の途中に迷い込んできた、ってこと?それって、高座の途中に入っちゃったくさい?俺入ってきちゃったけど大丈夫?)