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白いスーツを着た男が目を覚ましたのは往来の真ん中だった。アスファルトではない、踏み固められた土の往来。
寄席の椅子も固いがそれ以上に固い。その固い地面に倒れ込んでいた。
のっそりと動く重そうな大八車、天秤棒をかついだ行商人、覗き込む顔は皆浅黒い。その誰もが洋服ではなく着物だ。
「おい、生きてんじゃねえかよ」
活きのいい口調は新宿では聞くことのないものだった。いや、新宿でも寄席の中だけでは聞くことが出来た口調。
薄っすらと潮の匂いがする。
ホストにとって、もう十年は感じたことがないものだが、一瞬でそれが潮の匂いだとわかるものでございます。
「ここ、どこよ」
心当たりがないものだから、思わず出た本音だ。
「どこって、ここは芝だよ。お前さん、そんな事もわからないって何も覚えてないのかい。しょうがないねえ。飲みすぎたのか知らないけど、まあ生きていてよかったよ」
死んでいないとわかったせいか、男を囲んでいた町人はぞろぞろとそれぞれの仕事に戻っていった。
上半身を起こし上げて改めて周りを見ると、どう見たってここは新宿じゃない。
ここは芝だと言った。芝と言えば東京タワーのあたりだが、当然赤いあの塔はまったく見えない。周りの建物は平屋か2階建てばかりだというのにだ。
寄席で『死神』を聞いていた白スーツのホスト、翔が目を覚ますとそこは別世界。
コンクリートに籠もる熱気と排気ガスの匂いから一変して、潮の匂い、土の匂い、体臭。生きている匂いをありありと感じる。
ようやく気がついた、やけに寒いことに。
乾燥した空気は新宿でも同じくあったが、寒さは一段冷える。変わったのは場所だけでない、季節も変わっている。
間違いない、別世界にいる。
呆然とするが周りはそれを許さない。足早に歩みをすすめる人々にその気はないのだろうが、蹴られるように何度も足がぶつかる。
行き倒れじゃないんだ、いつまでも往来に座っているわけにもいかない。ホストはとりあえず立ち上がった。
立ち上がったが、力が入らず足元がおぼつかない。右へ左へフラフラよろめくと、歩く人にぶつかりまた尻を付いてしまった。
(腹が減った)
そう思った瞬間に耳に入ってきたのは行商人の掛け声。
「と~ぉふぅ~」
豆腐の行商は昭和の中頃まではあったそうでございますが、その頃は声ではなくチャルメラと呼ばれる笛のような楽器を鳴らしたが、ここではそれがないのか大きな声を出して歩いていく。
往来の真ん中で腰を下ろしたホスト、空腹から思わず目を見開いてじっと見つめると、豆腐屋もその視線を見逃さない。
「へい、ありがとうごぜいやす。奴でございましょうか御御御付けでございましょうか」
どうやって豆腐を食べるのかを聞いているのでございますが、御御御付け、味噌汁でございますが、味噌汁だと答えれば賽の目に切るまでが豆腐屋の仕事となっている。
これは買ったらすぐに食べるもの、という前提がございます。つまり、冷蔵庫などはない世界。
「テイクアウトっていうか、ここで食べたいんすけどイイっすか?」
そう言うと両手を合わせて皿のようにしてみせた。
「へい、ありがとうごぜいやす」
売れればいいのか、豆腐屋は文句も言わずにホストの両手に豆腐を一丁載せてやると、空腹のホストはまるで掬った水を飲むように一息で豆腐を喰ってしまう。
「四文になりやす」