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今度は目が覚めるよりも先に戸を叩く音がした。
その大きな音でホストは目を覚まし、上半身を起こす。隙間から射す光は既に昼。いや、昼を少し過ぎているか。
やはり返事を待つこともなくガラガラッと力強く戸が開く。
「いたな、熊。ちょっとこっち来い」
朝よりも大きな声をあげて入ってきたのは八五郎。汗ばむような季節ではないというのに、額には汗がびっしょりだ。
それに随分と慌てている。
「ちょ、どうしたんすか」
少し寝たおかげで二日酔いはすっかりよくなっている。
「どうしたじゃねえよ、お前が倒れてるんだよ!」
「はぁ!?」
何を馬鹿な事言っているんだこいつは、そんな率直な感情が声音にすっかり出ていたが、八五郎は全く気にする様子がない。
「お前が行き倒れてるんだよ。いつまでも寝てねえで、ほら行くぞ、早く起きやがれ」
「イヤイヤイヤ、俺ここで寝てたんで外で倒れていないっすよ。朝からずっと」
「なに寝ぼけたこと言いやがる。俺が見たんだよ」
「何を見たんすか」
「だから、行き倒れてるお前に決まってるだろ」
「行き倒れ?行き倒れって、それって死んでるってことでしょ。俺はここにいるじゃないっすか。あれから寝てたんすよ、それに上野には行ってないし」
この落語国に転移以来、上野に行ってはいない。それどころか、転移前も新宿か池袋の寄席ばかりで上野の寄席に行ったのはいつだったのか思い出せないくらいだ。
「上野じゃなくてアソコだよ、お前が行き倒れたのは」
「上野に行ってきたんじゃないんすか?」
「上野じゃなくてアソコだよ。お前が話してたじゃねえか、朝オレが来た時によ、昨日はアソコのアレにコレしてきたって。その帰りだよ、お前が行き倒れたのは」
「誰が」
「だから、さっきからお前が行き倒れているんだって言ってるだろ。じれってえな」
朝のように八五郎は再び身振り手振りで説明するが、朝よりも滅茶苦茶だ。目の前にいるホストが浅草の帰りに行き倒れているというのだから。
「っていうか上野じゃなくてどこに行ったんすか、もしかして浅草?」
「そうだよ、それだよ、浅草だよ」
やはり八五郎、『粗忽長屋』とまるで同じだ。浅草で行き倒れを見つけて長屋に戻ってきたらしい。
「お前が浅草行ったなんて言ったもんだから、アッチじゃなくてソッチに行っちまったから見つけたんだ。虫の知らせってのはこういうことを言うんだろうよ」
「イヤイヤイヤ絶対違うでしょ、それじゃあオレ虫になっちゃうし。っていうか、見つけたって、オレはずっと寝ていたんすよ」
「いいから行くぞ。見りゃわかるんだ、一目瞭然。『ああこれは俺じゃねえか』ってよ。百聞は一見にしかずって言うだろ。ほら起きろ起きろ」
慌てて急かす八五郎に乗せられて、ついついホストもついて行ってしまった。
まくしたてられ長屋を出てきたが、今後の展開のことを思うと足が重くなる。しかし、高座でかかっている落語の中だと思うと、サゲをめちゃくちゃにして壊すわけにもいかない。
「ちょいと御免よ、御免よ。そこで倒れてる当人連れてきたから。当人が来てるんだ、すぐに終わるから通してくれ」
二十、いや三十人はいるだろうか、輪になった人だかりをかき分けて進む八五郎の後ろに続くホスト。その顔はすっかり青くなっている。
当然でございます。避けられると考えていた『粗忽長屋』に巻き込まれてしまっているのだから。
最初は粗忽長屋に出てくる熊五郎に似た行き倒れ役をホストにあてがわれたのだと考えていたが、既に行き倒れがいるっていうんだからそうじゃない。
じゃあ、行き倒れは誰なのか。思い当たる名前はすぐに頭に浮かぶ。
「熊五郎の野郎連れてきましたんで。ほら熊、こっち来て挨拶しろ。お前が名前がわかるようなの何一つ持たねえせえで、昨日の晩から行き倒れたお前のこと見てくれてたんだぞ」
「おいおい、本当に連れてきたよ」
目を丸くして呆れた顔をしているのは行商人だろうか。せっかちな職人風の八五郎と比べると人当たりのよさそうな男だ。
「それで、あなたが熊五郎さん?」
「いや熊五郎ではないんすけど」
「何言ってやがる、お前は熊五郎だろ」
「ここに倒れているのは熊五郎さんだと、あなたもそう言うのかい」
その問いかけにホストは一息間を置いてから答えた。
「まあぁ、倒れているのは熊五郎さんだと思います。……はい」
(もっと顔似てるかと思ったけど、結構似てないし。けど、あの長屋に住んでいる熊五郎さんなんだよな)
行き倒れは熊五郎だとホストが認めると、男も思わず大きなため息をつく。
「おかしなのが一人増えちゃったよ」
行き倒れを見つけたこの男が嘆くのも当たり前。まったくその通りでございます。
「昨日から行き倒れているこの男は熊五郎だ、その熊五郎には今朝あったんだから見間違えるわけがない」そんなあり得ない事を言い出す八五郎に加え、八五郎が連れてきた当人もそれに従う。
おかしいのが一人から二人に増えたのでございます。ため息をつく方が自然だ。
(まあ、倒れているのはあの長屋に住んでいる本物の熊五郎で間違いないだろうな。オレの代わりに本物の熊五郎さんが行き倒れになっちゃったな)
それにしてもホスト、決まりが悪い。
正当な『粗忽長屋』が高座でかかれば死ぬのは熊五郎じゃない。熊五郎ではない誰かのはずだった。
それがどうしてか、恐らくは高座でかけている噺家が工夫したのでございましょう、酔ったホストが熊五郎の長屋で寝てしまったせいで熊五郎本人が行き倒れになってしまった。
もちろん正当な『粗忽長屋』なら昨日何度も熊五郎に間違えられたホストが行き倒れになっていたのだから、熊五郎とは反対にホストの命は助かった。
死なずに済んだ嬉しさと、ホストが関係したせいで行き倒れになってしまった熊五郎への申し訳無さが頭の中でごっちゃとなり、表層筋が引きつっている。
顔が引きるホストを見て八五郎は神妙な声で言った。
「熊五郎、辛いかもしれねえけどよ、これが現実だ。お前はこうしてここで死んじまったんだ」




