2.少年野球
俺の住む袋川町は中々に広い町内なようで、結構な人数の子供たちが集まっていた。小4~小6までの球児が30人は居ただろう。どうやら我が町内は子供の参加数が多いこともあり、市内の少年野球チームでは敵無し、なかなかの強豪だったようだ。
点呼も出席も取らずに慣れた様子で練習は始まった。あぁ、そうか、みんな今日が初めての練習じゃないんだよな。
小6のキャプテンを中心に円形になっての準備体操から始まり、ランニングをしてキャッチボール、すべてが新鮮だった。が、市内では敵無しの強豪少年野球チームの練習。生まれてから10年間、自堕落な人生を送っていたマイボディにはかなりキツイ。
キャッチボールをしている時に、ちょっとした事件が起きた。いや、正確に言うと事件も何も起きていない。何も起きていないということが悲劇の始まりだったのだ。
はじめてのキャッチボール、そもそもグローブを使ったこともないのだが、教えてくれる大人など居ない。
いや、居ることは居るのだが、監督・コーチである大人たちは皆、1軍のレギュラー達の親達で、我が子やレギュラーに張り付き、俺たちには目もくれないのだ。
仕方がないから見よう見まねでキャッチボールを始めた。俺は、初日にも関わらずにバインバインの効果もあり、周りの非レギュラーの連中よりもそこそこに良い球を投げ込み、スムーズに捕球をこなしていた。というか、奇怪な音を立てて不規則に弾むゴムボールに比べれば、C級軟式ボールの素直な軌道は取るに容易かった。
スムーズに捕球し、そこそこの球を投げ込む俺の姿を見て、一人のコーチが声をかけてきた。
コーチ「お前、なかなか様になってんな!学童やってんのか?」
俺 「いえ、やってません!
ありがとうございます!」
コーチ「そうか、ま、頑張れよ」
俺 「はい!!」
俺は、見よう見まねで帽子を取って元気よく答えた。
コーチの名前は大山さん。仙川とバッテリーを組む大山竜彦の父親である。町工場で働くガタイの良い普通のおっさんだが、高校時代に地元の高校で甲子園に行った経歴を持つ男だ。
だが、まぁ、性格に難がある。監督でもない癖に練習方法や選手起用に口を挟み、学童野球にまで出向いて顧問をそっちのけでノック指導を始める始末。
そんな男とはつゆ知らず、褒められた事で有頂天になっていた俺は、無我夢中でキャッチボールをした。
が、それ以上コーチが俺に声を掛けてくることはなかった。
その後、素振りに球拾い、ノックまで見よう見まねでこなした。分からない事があったら聞いてみるのだが、どのコーチからも適当にあしらわれた。
それ以上の事は何もなく、何事もなく、そのまま練習は終わった。
大人たちは楽しそうに我が息子のレギュラー陣と談笑をしながら帰宅して行った。
あ、そう言えば俺、仙川と話してない。
誘ってくれた仙川は小4から1軍のレギュラーでピッチャー。練習中も常に周りを大人や5~6年生が囲んでいて、キラキラと輝いて見えた。練習をこなすのに必死な俺は、とても話し掛けることができなかった。
後々聞いた話では、熱心な仙川の親が当時の監督に頼み込み、特別に小1から少年野球に参加しているらしい。もちろん、学童野球もやっていて小4にしてエースで4番。チートキャラだったんだな、仙川。
俺は帰宅し、母親の満面の笑みでの「どうだった?野球!」の問いかけに「別に」とだけ答えて部屋でふて寝した。
練習中の放置プレイはずっと続いた。ずっとというのは自分たちが中心の世代になる6年生までか?いや、卒業までだ。
捕球の仕方や投球フォーム、バットの握り方まで、俺は、家に転がっていた長嶋茂雄が表紙に使われている古い野球入門の本や、近所の書店の本を立ち読みして独学で覚えた。
ルールは野球ゲーム。幼稚園児のころから生粋のゲーマーだった俺は、当時発売されていた野球ゲームにドハマりしており、そこで細かな野球ルールを学んだ。
週末以外は壁が練習相手だった。バインバインボールをグローブと軟式野球ボールに持ち替えて、俺は狂ったかのように家の近所の壁にボールをぶつけた。
壁は綺麗な壁ではなく、所どころゴツゴツした凹凸がある。
そのゴツゴツポイントにボールが当たると、なかなかのスピードでボールがあらぬ方向に跳ね返ってくる。慌てて捕りそこなうと、容赦なく駐車中のご近所さんちの車にボールが直撃する。
車のボディにボールが当たると、「ボコン」というペットボトルがへこんだ様な音が鳴る。へこんだ様なというか、まぁ、実際にへこんでいるのだが。
すると、間髪入れずに車の持ち主である近所のおっさんが家から飛び出してくる。そして、とても小学4年生に見せてはいけない表情でこう言ってくる。
「次、ぶつけたら殺すぞ。」
"次"という猶予を与えてくれる辺りが、大人の余裕というやつだなと感心しつつ、死のピタゴラスイッチの成立を防ぐために俺は死に物狂いで捕球した。大人のあんな顔は初めて見た。
素振りもした。長嶋茂雄が表紙のいつ創刊されたか分からない古文書を頼りに、ああでもないこうでもないと試行錯誤した。だが、実際にボールを打つことができないので、何が正しいのか分からない。
古文書の中に、王貞治が日本刀で素振りをしたというエピソードが記されていた。さすがに日本刀は無いので、鎌やクワや包丁など家中の刃物をかき集めて庭先で振り回してみた事もあった。その時の、恐怖に怯える近所のおっさんの顔を、俺は忘れる事ができない。大人のあんな顔は初めて見た。
元々オタク気質で一人遊びが好きな俺は、そんな自主練も苦ではなかった。
思いっきり壁に球を投げる爽快感。跳ね返ってきた球をグローブの芯で捕えた時の感触。おっさんの怒号。空を切り裂く素振りの音。
「野球少年」をしているという事実に酔っていたのかもしれない。
でも、当然、試合に出場することは皆無で、出場したとしても公式試合ではなく、練習試合の人数合わせで出される程度だった。
なぜか?
俺の所属していた袋川町野球クラブの球児達のほとんどは、学童野球にも所属していた。練習に来る監督・コーチを含むすべての父兄は学童野球組の親たちで構成されており、少年野球しかしていない子供、俺たちは補欠組として放置された。
教えられた事と言えば、汚いヤジの飛ばし方や応援の太鼓の叩き方ぐらいなものだ。それでも、俺は、いつか認められる日が来ると信じて、練習に耐え続けた。
そんな折、大山さんと仙川が休憩中に何気なく会話を始めた。
大山さん「ボール少ねぇな、買い足してもすぐに無くなっちまう。
仙川がバッティング練習で飛ばし過ぎるからだな!」
仙川 「すいません、あれでも手加減して打ってるんですが。」
大山さん「いやいや、手加減すんな!お前の才能がもったねぇから、
思いっきりやっていいよ」
仙川 「ありがとうございます。球拾い要員、
もっと声かけて増やしますね。」
薄々は感じていた事だったから、突きつけれた事実には何も感じる事は無かった。
だが、その会話が、俺がいる前で平然と繰り広げられた事に無性に腹が立った。レギュラー以外には何の配慮もないのか、同じチームの仲間ではないのか…?
そんな俺は、小学5年生の時に軽くグレた。
5年に進級した直後に行われたクラス替えをきっかけに、友人関係に変化が生じた。袋川町少年野球クラブの連中とは別々のクラスとなり、同じクラスとなった悪友と知り合い、仲良くなった。価値観が変化し、ヤンキーに憧れを抱いた。
陰キャとヤンキーは表裏一体。そのジョブチェンジは容易かった。
軽くグレたといっても小学5年生、子供ならではの可愛いさと無邪気さと残酷さの混じったグレ方だ。川に転がってるエロ本を回し読みをしたり、駄菓子屋で万引きをしたり、暴力を振るったりすることもあった。教師の言う事は聞かずに、異性を意識しない下ネタで女子からは白い眼で見られる日々。いや、それは元からか。
とにかく、担任の教師は、当然の事ながらそんな俺たちを見捨てた。
教師や女子から白い眼で見られることに動じずに、人を笑わせる事が得意な男というのは、不思議と男子の間では一目置かれる存在になる。
俺は、学校のクラスの男子の中では中心的な存在となり、休み時間や放課後の度に俺の周りに男が集まるようになった。
クラスの悪友たちも少年野球に所属していた。所属していたと言っても、違う町内であり同じチームではなかった。
俺は、悪友たち数人と野球をして遊ぶこともあった。楽しかった。ヘトヘトになるまでボールを追いかけた。だが、その度に言われたし、自分でも思っていた。
「なんでお前、そんなに上手いのに試合に出れないの?」
悪友たちのチームは人数も少なくたいして強くなかった、だが、中心メンバーとして試合に出ている悪友たちを羨ましく思えた。
俺「うちは強豪だから、レギュラー争いが熾烈なんだよ」
少年野球での待遇は、相も変わらずに補欠である。しかし、辞めずに続けた。辞めたら逃げるようでカッコ悪いから、ただ、それだけが理由だったのだと思う。
レギュラーメンバーへの劣等感や嫉妬心は日に日に募って行った、
俺は「少年野球」という活動中、楽しいと思ったことは一度もなかった。