2-4 人質
カロージェロが速かった。
セヴェリの視線、そして瞳に込められた驚愕に気が付いて、瞬時に跳んだ。大型の肉食獣が草食獣を捕える動きに本当によく似ている。入口に立つ令嬢がこちらの空気を察するよりも先に、彼は彼女を部屋の中に引き込んだ。扉を閉めた。
そして、その褐色の大きな手で、口を押さえつけていた。
叫べないように。
「どうする?」
訊かれて、セヴェリは言葉を失った。
どうすべきか。それを考えるには、この令嬢が自分たちにどんなピンチをもたらすかについて、考えを巡らせる必要がある。
自分たちが犯行に関わったことは、おそらくもう誤魔化しようがない――だから、この凄惨な現場に居合わせた瞬間を目撃されたこと、そのくらいのことはもう構いはしない。いくらでも証言すればいい。裁かれるべき人間が、とっくにどこか遠くの国へと姿を消した後で。
しかし本能的に、このままこの女を見逃すとマズイ、とも感じている。
時間的なアドバンテージだ。
公爵の目的からして、しばらくの間はここには誰も近付かないものだと思っていた。さらに自分の魔術を使えばその時間期待値は伸びるはずだった。それが今ここで――あまりにも唐突に猶予時間に終わりを告げられてしまっている。そのことがわかっていたから、カロージェロも咄嗟に、姿消しの魔術の効果がなくなるというデメリットを受け入れてまで、令嬢の声を封じたのだろう。
困るのだ。
ここで叫んだりなどされれば。公爵が死んでいると言って、人を呼び寄せたりなどされれば。
自分たちが逃げる時間が、なくなってしまうから。
浮かぶ言葉がある。
死人に口なし。
「こ……」
殺そう。
そう、言いかけた。
しかしその判断が言葉になり切ることがなかったのは、目が合ったからだった。令嬢と。カロージェロに組み伏せられて、これから起こることに思いを馳せたか、それとも公爵の死に対して動揺したか、瞳に涙を溜めながら、こちらを力強く睨みつけてくる、その目と。
ティナとそう年の変わらない、幼さの残る目つきと。
「…………気絶させて、置いていこう。殺しても、追跡が激しくなるだけだ」
公爵暗殺に加えて、公爵令嬢暗殺の罪状が増えるだけだ。どうせ口封じに時間稼ぎ以上の効果が期待できないのであれば、殺すメリットよりもデメリットの方が大きい。
そう、自分を納得させて、セヴェリは言った。
小さく、カロージェロは口笛を吹いて応える。
「いいんだな? 殺さなくて」
令嬢が彼の手の下で激しく動く。けれど、体格差はどうやっても埋まらない。精々が床を叩いて自分の居場所を使用人や護衛たちに知らせようとするくらいが彼女の抵抗だが、もちろんそれだって、セヴェリの消音の魔術の中に吸い取られて消えてしまう。土砂降りの日の彼は隠れることにかけても、隠すことにかけても、ほとんどこの国の誰にも遅れを取ることはない。
しかし、それならこの令嬢は、一体何の用があってこの部屋に辿り着いたのだろう?
まさか、公爵だってわざわざ自分が薬物を服用している姿を娘に見せようとは思わないだろうし……。いや、そもそもが、あの公爵がこんなものに手を出す時点で自分の想像を超えているのだ。ひょっとすると、そんな馬鹿なことがあったとしてもおかしくはないのかもしれない……。
「いい。目撃者を消そうとしても、今更もう遅いんだ」
「了解」
バチ、と短く、青い稲妻が走る。
これもまた、とセヴェリは思う。カロージェロと二人で来ていてよかった、と。自分は攻勢魔術に明るくないから、そこまでスムーズに相手の意識を飛ばすことはできない。自分一人でやろうとしたら、わざわざ時間をかけて、彼女の頭部を執拗に殴打する必要があっただろう。やられる側の心境を慮れば、やる側としても心苦しいアクションだった。
カロージェロが立ち上がる。
それから、こんな提案をしてきた。
「こいつ、連れて行ってみないか」
「は?」
「人質だよ」
カロージェロが、倒れ伏した令嬢の背中側に手を差し入れる。そして少し重たい荷物でも扱うかのように、軽々と肩に抱えてしまった。
人質。
あまりにも犯罪的なそのフレーズに一瞬セヴェリは硬直してしまうが、しかし緊急事態だから、すぐに思考は再稼働を始める。人質。どんな場面で使う?
「ここを出るのに使う気なら、あんまり意味はないからな」
「そうか?」
「ここを出るときはできるだけ気付かれないようにしなくちゃいけない。自分たちの存在を報せながら出ていくようなことをしたら、街中に出てもろくに進めないまま確保されて終わりだ」
ふうむ、とカロージェロは顎に手を当てる。
「それじゃあ、その後はどうだ?」
「後?」
「国境を抜けるとき」
「…………」
確かに、と思う気持ちがあった。
隣国とは地続きだが、越えるのが容易い平地の国境線には、壁が敷かれている。
セヴェリの魔術は壁との相性が著しく悪い。ただ見つからなければ済むというならいくらでも国境警備隊の目をかいくぐることはできるはずだが、しかし接触を要する空間に直面すると、途端にその弱点を露呈することになる。誤魔化しは、生き物相手にしか効かないのだ。
「物は試しだよ。保険があったって困ることはないだろ」
「お前、もしかしてゴミ捨て場でソファーとか拾うタイプ?」
「もちろん。家具なんか自分の金で買ったことがない」
にっ、とカロージェロは笑う。セヴェリは眉間を指で押さえる。
リスクなのではないか。そう思う。公爵令嬢の連れ去りは捜査の激しさを煽るのではないか……そう、思わないでもない。しかし公爵暗殺という大きな事件が先にある以上、ここでリスクを回避することは焼け石に水に過ぎないのではないか……。
結局、妥協することにした。
「国境越えの別ルートが使えるようなら……人質を使わなくてもよさそうだったら、どこかの地点で置き去りにする。交渉よりも、こっちの動きに気付かれないことを優先する。それでいいか?」
「当然。俺はガキには優しくすることにしてるんだ。さっきもお前が『殺す』なんて言い出さなくて、かえって安心したくらいだぜ」
よく言うよ、とセヴェリは肩を竦める。そして気付く。すでに自分の手が震え始めていること。カロージェロもそれを見ている。隠してもいないことだから、はっきりとここで、言葉にしておくことにした。
「いざってときに、役立たずになるかもしれない」
「そりゃ仕方ない。そのくらいの欠点がなきゃ、そもそもお前はこんな場所まで流れつかないわけだからな」
窓の外には、土砂降りの雨が降り続いている。
どうしてこんなことに、と後悔しても、もう取り返しはつかなかった。