2-2 俺じゃ無理
峻厳な目つき。
思わず、後ろ暗いところのある人間は竦まずにはいられないような、そんな厳格な雰囲気。白髪交じりの頭髪はぴっちりと後ろに撫でつけられ、痩せこけた頬と鷲鼻、そして長身が揃えば、大柄な鳥のようにも見える男だ。
噂に聞いていた通りの人物像に、思わずセヴェリは俯いた。フードがない。相手から顔が見えている。ただそれだけの当たり前のことが心理的なプレッシャーになってしまう。そんな仕事をしている自分が嫌になる。
「お持ちしました」
眼鏡の女は挨拶もないまま、短くそう言った。セヴェリはすかさず竜から持ち出してきた薬を差し出そうとしたが、しかしその必要はなかった。
女が白衣の懐から、小分けの袋を取り出していたからだ。
自分で用意していたのか。何も言わず、セヴェリは再び、手に持っていたそれをポケットに戻し入れた。
「どう使う?」
公爵が訊ねる。常用者ならば当然出てこないはずの質問だから、彼がこれを使うのは初めてなのだろう。女が「僭越ながら」と言って、その袋を開き、薬の使い方を教えていく。
それにしても、とセヴェリは思っていた。
やはり、こうして本人を前にしても信じられなかった。公爵の持つ威厳はまやかしのそれとは思われない。高い位に立つ者が、正当な教育を受けてきた末に身に着ける誇りのようなものが滲み出ている。それはただ座り方一つ取っても、あるいは指先の動かし方一つ取ってもそうだ。
何かの間違いではないか、という考えが抜けない。
「このようにして……紙を丸めて吸います」
女が近くにあった紙を筒状に丸めて、薬に差し入れる。ズッと音を立てて、半分ほど鼻から吸い上げた。
よくもまあ、とセヴェリは思う。薬の配達こそ一年近くやってはいるが、しかし自分で使ってみようと思ったことは一度もない。公爵ほどの人物を相手にするとなれば、確かに目の前で致死性のないことの確認くらいは見せなければならないのだろうが……、よくもまあそこまでするものだと、呆れと感心が入り混じる。
女が吸引後も何事もなく振る舞っているのを見届けて、それからとうとう、公爵もその薬に手を付け始めた。
見たくない、とセヴェリは前髪の奥で目を逸らした。正道を歩んできた人間が足を踏み外す様は痛ましい。できれば記憶の片隅にも留めたくない。
一体なぜ、公爵ほどの人物がこんな薬に手を出してしまったのか。騎士フリードについては、まだわからなくもない。少し話しただけでもわかるが、あれは享楽を求めるタイプだ。副作用も大してない、富裕層向けの薬に手を出すことに違和感はない。それによって発生するリスクすらも楽しむタイプだろうと思われる。
しかし、まだ年若いフリードと、いよいよ晩年の振る舞いを考え始める公爵とでは、流石に立場に違いが――――、
「おい」
カロージェロが、声を上げた。
思わず制する気持ちでセヴェリは彼を見上げる。貴族と会ったときの振る舞いを多少なり伝えておくべきだった。こういう場面では、位の低い側は求めのあったとき以外は不用意に口を利いてはならない。まして、代表者がいるにもかかわらず、その付き人が勝手に口を開くようなことは、絶対にあってはならない。
けれど、カロージェロは続けた。
「あれ」
指を差している。
それに釣られて、セヴェリも逸らしていた目を、真っ直ぐに向けることになった。
倒れている公爵と、眼鏡の女に。
「は――――?」
いつだ。
記憶を探った。いつ、こんなことになった。
自分が目を逸らしていた時間はそうは長くなかったはずだ。公爵が薬を吸引するところから。ほんの一、二分にも満たないほどの、僅かな時間だ。
だというのに、公爵は机に突っ伏して動かず、眼鏡の女に至っては窓辺の床に倒れ伏している。
マズい。
「そっちを頼む」
カロージェロに女を見るよう言って、セヴェリは部屋の隅から公爵に駆け寄る。
冗談じゃない。こんな場所で、こんなトラブルがあってたまるか。これまで何事もなく何とかやってこれたはずなのに、よりにもよって公爵邸に入り込むなんて大それたことをしているときに。
冒険者の経験はある。だから、いざというときの救命措置についても人並み以上の心得はあった。大丈夫だ、そう言い聞かせて、セヴェリは公爵の状態を確かめるため、肩を掴んで、椅子の背凭れへと引き起こした。
白目を剥いて、泡を噴いている。
「なんだよ、これ」
思わず、口の中で呟いた。
時系列から考えれば、これは薬の副作用だろう。薬を服用して、それがどういうわけかこの事態を引き起こした。それ以外に、推理のしようがない。
しかしこれはどういうわけだ。今まで薬を渡してきた人間の中に、こんな状態になったなんて話をするのは一人もいなかった。量だってついさっき見たとおりだ。一回分の、さらに半分。こんな状態になるはずがない。
鼻の前に手を当てた。風がない。
心臓に耳を当てた。鼓動がない。
死んでいる。
「そっちはもういい」
女の傍に屈みこんでいたカロージェロを、セヴェリは呼びつける。
彼の存在は、不幸中の幸いだった。雷の魔術士は仮死状態からの蘇生に長けている。カロージェロ自身がその経験を持っているかはわからないが、明らかに自分一人でいるよりもずっと都合が良い。
「心臓マッサージを」
「了解」
カロージェロと立ち位置を交換して、その間にセヴェリは考える。ただ蘇生するだけでも良くない。体内に残った薬を吐き出させなければ。
こんなとき、幻惑魔術以外の水魔術も使えたら、と思わずにはいられない。そうすれば簡単に胃の洗浄ができるというのに。自分の魔術適性では、とてもそんな便利な魔術の使い方は期待できない。それに問題は、血管内部にすでに入り込んでしまった分にどう対処すべきかで――
「うおっ!!」
カロージェロが大きく声を上げたことで、その思考も中断された。
「どうしたんだよ」
「……こいつは、俺じゃ無理だ」
カロージェロが一歩下がって、公爵から距離を取る。その長身の脇から覗き込むようにして、セヴェリもそれを見た。
「うえっ、」
異様な姿だった。
公爵の全身から、血が噴き出している。額の産毛の僅かな毛穴からも例外ではない。沸騰する水の気泡のようにぷつぷつと血が浮き始めて、ある域を境に、破裂したようにそれは流れ出す。
その出血量を見ただけでももはや助からないとわかるのに、さらに状況は悪くなる。
公爵の肉が、ぼこぼこと隆起を始めた。
悪性の腫瘍が体内から飛び出してきたように、変形していく。ひとしきりその悪夢のような光景が終わる頃には、元の体積の三倍近くにまで、死体は膨れ上がっていた。
死体。
そう、死体だった。
目の前で――王の弟であるマーヴィン=ヴァンハネンは死亡した。
どこからどう見ても、完膚なきまでに。
セヴェリとカロージェロの二人の手ではどうにもできないほど、壊滅的に。
「嘘だろ……」
そうして二人は、取り返しのつかない状況に陥った。