2-1 手に負えない
冗談だろ、と思うが、明らかに冗談ではない。
眼鏡の女は間違いなく「ここで停めて」とカロージェロに言ったし、実際にカロージェロもそうしたのだから。そして彼女は「ここじゃない」「もっと先」なんて言葉を口にしないで、後部座席でごそごそと、手に持った紙袋の中身を弄くり回しているのだから。
「これ」
「わ」
突然、女がその袋の中から何かを取り出して投げつけてきた。
なんだこれは。白い布? セヴェリはそれを広げて、一体何なのかを確かめる。
白衣だった。膝までありそうな長丈の白衣。医者や、研究者が着用するようなもの。ところどころに汚れや皺があるのを見れば、どうもこれは新品ではないらしいことがわかる。
「着て」
カロージェロも同じものを投げつけられている。後部座席で女はすでにその白衣に袖を通し始めている。二人が迷ったのも一瞬。すぐに言われたとおり、それを着始める。優男のセヴェリの方こそ多少は様になったが、しかし生まれてこの方まともな医者に罹ったこともなさそうなカロージェロは、服を着せられた虎のような、奇妙な姿になっていた。
「行くよ」
女が後部座席の扉を開ける。カロージェロがセヴェリを見る。「俺も行くのか」という視線だった。当然の疑問。カロージェロは竜の中に待機するのが常だ。しかしこうして白衣を着せたということは、何かしら意味はあるものだと思われる。つまり、暗についてくる人間の数に含められているのではないか、というように。
セヴェリは頷いた。
だよな、という顔で、カロージェロも運転席の扉を開いて、外に出た。
雨が降っている。三人ともが黒い傘。女が先にずんずん進んでいくのに合わせて、セヴェリは魔術を行使する。いつもどおりの、姿消しの魔術。
「それ、要らない」
けれどそれを、女が制した。
「は……?」
「正面から行くから」
それ以上は何も言わない。ついてこい、とばかりに歩いていくだけ。この冷たい雨の降りしきる中で、セヴェリの背中には汗が噴き出している。
冗談だろう。
姿消しの魔術を使わない? 正面から? それはつまり、自分たちの姿を見せつけながら公爵の家に、薬を持って行くということで――
「あ」
そこで、気が付いた。
後部座席に薬を置いたままだ。覗き込んでわかる。女はそれを手に持っていない。慌ててセヴェリは扉を開けて、それを確保する。まさかこれまで要らないということはないだろう。
女の背中が遠ざかっていく。本当に行くのか?
「ま、運は天に、ってやつだな」
軽い調子でカロージェロが言って、セヴェリの背中を叩いた。
距離が開いたから、小声なら多少、会話ができる。
「どうなってるんだよ。この仕事で顔を見せるって」
「知らん。ただ、俺たちにできることは一つしかないな」
「大人しく従う?」
「明日のために」
カロージェロの言う通りだった。
今更後戻りをしようとしたって、もう遅いのだ。自分たちは深いところに足を突っ込んでしまっている。いきなり「やっぱり辞めます」なんてことが許されるような立場にはない。それはわかっている。たとえばあの騎士フリード一人を取っても、次代の最重役が薬物取引をしているという事実――それを知っていてまだ自分のような人間が生かされているのは、ひとえにその薬物組織の一員であるからなのだ。
組織に属しているものは、その組織の倫理に従うものとみなされる。だから、許されている。生きることを。
反対に、その組織を抜けようとすれば――もはや後ろ盾はどこにもなくなる。あるいは、組織の倫理が反対に牙を剥く。こんな仕事だ。足抜けしようとする者に制裁があることは、想像に難くない。
それにたとえ、それがなかったとしても。
やるしかないのだ――――仕事がなければ、明日とも知れない生活の只中に、身を置いているのだから。
カロージェロが早足で行くのに、セヴェリもその背中を追いかけていく。ブーツが踏んだ泥が、白衣の裾に汚れを跳ねていく。
目の前には、大きな公爵邸。
手に負えない……その巨大さを見つめて、セヴェリはそう思っていた。
`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、
官吏の最初の仕事は、貴族の顔と名前と経歴を覚えることだ。
だからセヴェリは――ごく短い期間とはいえそれを務めたことのあるセヴェリは、この公爵邸の持ち主を知っている。
マーヴィン=ヴァンハネン。
王の弟。
ものすごく意外なことだと、彼は思っていた。貴族の中には腐敗したものも少なくはない。しかしヴァンハネン公爵はそうした人間とは一線を画す。そう、伝えられていたからだ。
歳はそろそろ五十に差し掛かるはずだ。文武に通じた才英であり、かつては第二王子として、当時第一王子だった兄と、王の座を争うことさえあった。そしてその決着は、王宮内の派閥闘争が深刻化することを嫌ったヴァンハネン公爵が自らその身を引いたのが切っ掛け――とも言われている。
能力は高い。
そして同時に思慮深く、道徳を重んじる堅物であると聞いている。
少なくとも、薬物遊びに手を出すような人間ではなかった――そう、記憶していた。
「約束した者です」
けれど今、実際にセヴェリはその公爵邸の中に、薬物の運び屋として入り込んでいる。その現実は、受け止めなければならない。
女が声をかけたのは、門番に立つ騎士だった。フルフェイスの金属メットを被っていて、顔はまるで見えない。しかしその騎士は、女の顔を見るや少しだけ頭を下げて、何も言わずに門を小さく開き、中へと招き入れてしまう。そしてそのまま、どんどんと奥の方へと歩みを進めていく。ついてこい、と言っているかのように。
異様だ、とやはりそこでも、セヴェリは思わずにはいられなかった。一体どういう状況なのだ――そう怯えずにはいられない。王城に忍び込んでいたときとはまた話が違う。あそこは人が多い分、もう少し入り込む余地がある。最重要の区画に足を踏み入れるまでの遊びの部分……そのあたりまでなら、入念に準備を行えば、ある程度侵入できる。
けれど貴族の私邸となると、話が違う。遊びの部分など存在しない。入口から中枢まで、普通は全域において高い警戒濃度を保つようにできているのだ。それをこんな風に堂々と正面から……常識では考えられない。
セヴェリは最悪の場合を想定しようとしている。しかしそれすら、上手くできずにいた。自分が何をさせられているのかわからない――大抵の悲劇の原因であるそれに、足を絡めとられていた。
明らかに必要以上の複雑な道程を歩ませた末に、騎士は立ち止まる。大きな扉の前だった。女がそれで用は済んだとばかりに片手を挙げれば、やはり僅かな目礼だけを残して、騎士は立ち去っていく。
女が、扉をノックした。
「入れ」
そして、声が返ってくる。
白衣の三人が、扉を開けて中へと入っている。
書斎。
その奥に座っていたのは、まさしくヴァンハネン公爵その人だった。