8-2(終) いつまでも
「それじゃ残念だったね。お兄ちゃんも、アンネリアさんも。……カロージェロさんは、どう思ってるのか、ちょっとわかんないけど」
小雨がしとしと降っていた。
家の中。それでも温かいのは、今に至るまで長いことティナが煮込み料理を作っているから。香りがキッチンからリビングにまで流れ込んできている。幸福な気持ちで、セヴェリはその中に佇んでいた。
「まあ、残念ってほど残念でもないけど。でも、仕事は疲れるなあ……」
「案外、そのままアンネリアさん、公爵になっちゃったりして」
「……ありえるな」
「ええ?」
驚いたように、エプロン姿のティナが振り返る。
本当にありえない話ではないな、と今日の一件を振り返れば思わないでもないのだ。
アンネリアが「代理権が切れたのでもう政治は引退して聖女としての役割に専念します」なんて言ったところで、それが許されるのだろうか? 手ごろな貴族と結婚でもしてそのまま政界に残されるルートだって十分あり得そうに思う。ましてその結婚相手が王族だったりすれば……。
「胃が痛くなってきた……」
「えー。そっかあ。せっかく美味しくできたのに……。お兄ちゃんはキャベツスープにする?」
「いや、やっぱり気のせいだった。食べる食べる」
もう、とティナは笑って、料理を鍋から皿に盛る。セヴェリはキッチンに入っていって、それをリビングの机へと運んでいく。
全てが整えば、二人は向かい合って座った。
それじゃあ、と音頭を取るのはティナの方。
「退職祝い……ってわけにはいかなかったから、ちょっと言い方を変えて。お兄ちゃんの就職一周年とこれからの活躍を願って……」
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
一年前からは考えられないような、贅沢な食卓になった。
一度ついてしまった倹約癖はなかなか抜けてはくれないけれど、それでも一般家庭が普通に摂る食事と同じくらいのグレードにはなった、とセヴェリは思う。二人とも体型に大きな変化はないけれど、きっと一年前の自分と並んでみたら、見るからに健やかになったことがわかるはずだ、と思う。
幸福だった。
「でも、そっか。アンネリアさんがあと二年やるなら、私も最後の一年くらいは付き合えるかもね」
「え? 無理じゃないか。だって学校は最低でも三年……」
「でも、二年修了時点で貴族秘書に必要な資格は揃えられるから。そうなったら、一年休学してアンネリアさんのところで働くのもありなのかな、って」
「うーん……」
難しい問題だ、とセヴェリは腕を組んだ。
ティナはあの後、アンネリアの回復魔術によって完全に治療された。そして今は学校――魔術を専門としない、総合官吏育成のための学校に通っている。家に置いてあったセヴェリの教養の教科書を読みこんでいたらしい彼女は、事前の勉強らしい勉強もしないまま、入学試験を首席の成績で突破した。
そしてその頃、ようやくセヴェリは理解した。
どうやらこの妹は、自分より遥かに頭がいい。
たぶん本当にそうしてくれたら、自分とアンネリアは、泣いて喜ぶ。
「まあ、僕から言えることは一つかな」
「何?」
「つらいぞ。あいつの秘書」
「私のために、お兄ちゃんは今、つらい思いをしてくれてるの?」
「……待ってくれ。今のはちょっと、撤回する」
しまった、とセヴェリは思う。今の物言いのまま通ってしまったら、結局あの頃と何も変わっていないみたいじゃないか。言い直そう。つらい仕事ではあるけれど、あんな仕事をしていた頃に比べたらずっとマシで、アンネリアも上司としては最高の部類だから働き心地もいいし、でもかなりのハードワークだから学校の途中で取り組むには気力体力を要することになるしあんまり軽く考えない方がいいんじゃないかな。うん、これだ。こう言い直そう。
そう思って口を開いたら、ティナがくすくすと笑っているのが、目に入った。
「ごめんね。ちょっと、からかっちゃった」
「……反抗期だ」
「とうとう来たのかも」
一種健全だ、とセヴェリは思う。家族仲がいいに越したことはないけれど、ティナだって学校でたくさんの人間と触れあっているはずだ。そうした中で自分に対しての愛着が相対的に薄れていくのはむしろ自然な流れで、彼女が少しずつ社会の中で自分の場所を得始めているのだと、歓迎すべきことですらあるかもしれない。
しかし、理屈ではそうであっても、寂しいものは結構寂しいものである。
「……そっかあ。ティナにも来るんだな、そういうの」
「来ますとも。私、普通の子だもん。でも、まあ、」
大丈夫だよ、と彼女は言う。
「反抗してる気持ちの千倍とか、億倍とか、そのくらいお兄ちゃんのこと、大好きだから」
そう言われれば、セヴェリも返せる言葉はたった一つしか残っていない。
僕も大好きだよ。
うん、と頷いて、それから二人は、穏やかな時間の中でスプーンを動かした。
会話の再開は、「あと二年かあ」というティナの呟きから。
「いい目標ができたかも」
「目標?」
「そう。……元から、あるにはあったんだけどね」
「どんな?」
「三つあって……一つは、今度はお兄ちゃんを、私が養っちゃうこと」
驚いて、スプーンを皿に落としかけた。
「え、」
「そのためにもう、バリバリ仕事できるようになっちゃって、どんどん稼げる人になっちゃおうと思ってたんだ。聖女様の秘書なんて中々やれる機会ないし……あ、それとも。お兄ちゃんはもう私が稼げるようになったら、養うとかいいから早くひとり立ちしてくれって思ってる? もしかしてもう、結婚するつもりの恋人とか……」
「いない、いない」
大げさなくらいに手を振るのは、突然のことに動揺していたから。
「なんだよ、その目標……」
「子どもは家族の背中を見て育つのです。……それに、アンネリアさんに自分で恩返しするのも、目標だったから。これが二つ目」
ちらり、とティナは、リビングの机の上に乗っている手紙の束を見つめた。
「アンネリアさんからは、いつでも来てね、って言われてるし。大歓迎だよ。今なら筆頭秘書官が空いてるって」
「たぶん、ずっと空いてると思う」
人材不足だから、とセヴェリは付け加えたが、実際、アンネリアが事あるごとにティナを頼りたがっていたことも事実だった。政治的な案件はもちろん、いまようやく取り組みを始められた『回復魔術利用目的の広範化』に関する根回しの段階でも、ことあるごとに。
兄である自分だって、ノルチョムに引導を渡したティナの手際には目を見張るものがあった。本人は「たまたま当たっただけ」と言うが、自分たちはたまたまだって当てられなかったのだから。仕事の苦しみの中で、そんな彼女に頼りたくなってしまう気持ちを、セヴェリだって自分の心の中から完全には排除できなかった。
想像してみた。さらに一年が過ぎて、同じ職場で働くことになったティナの姿。
悪くない、と思う。自分が近くにいれば、何かあってもすぐにフォローに回れるし……いや、これはちょっと、発想として過保護すぎるのだろうか。もうティナだって自分一人で色々とやれるようになったのだから、いつまでも扱いを同じままにしていては嫌われてしまうかもしれない……。
そんなことを考えながら、ふと、三つ目を訊いていないことに気が付いた。
「最後の一つは? 目標」
「…………うーん」
千切ったパンを口へ運びながら、ティナは躊躇うようなそぶりで、
「お兄ちゃん、恋人いない?」
「……? いないけど」
「結婚はするつもりない?」
「恋人がいないんだから、できないだろ」
「できたら?」
何を訊かれているんだろう、と訝しがりつつ、セヴェリは答える。
「しばらくは、そういうこと考えられないかな。忙しすぎて……」
そっか、とティナは頷いた。
だったら、という言葉で、その先を続けた。
「今の目標は、とりあえず、」
「とりあえず?」
「『こんな時間が、いつまでも続きますように』かな」
ふ、とセヴェリは笑ってしまった。
それじゃ目標じゃなくて、願い事だ、と心の中で思ったから。
でも、口にするときは別の言葉に入れ替えてみる。
たとえば、こんなこと。
「じゃあそれは、二人の目標だ」
「本当?」
「もちろん、本当」
ティナがその言葉を聞いて、雪の融けてゆくように、にっこりと笑った。
それに釣られて、セヴェリも。
長い長い苦難の果ての幸福を噛みしめるように、笑った。
`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、
幸福な部屋の中、時計の針が、ゆっくりと回っていく。
雨が降る。風に揺られるような、小さく微かなそれが、空から地面に辿り着くまでのほんの短い距離を、旅するように長い時間をかけて、下っていく。
いつか、どこかに辿り着いていくことは、知っていたとしても。
この世には一つだけ確かなことがあると、彼は思っている。
起こるべきことは、いつか必ず起こる。
そしてそれはときどき、気付いたときには、もう手遅れになっている。
だから。
まだやり直せるものを必死になって、取りこぼさないように、掬い取っていくのだ。
彼は。
その美しく、懸命な遅延を、愛した。
雨が降っている。
いい天気だった。
了




