1-3 目を逸らして
十三号の配達ルートの途中には、王城すらも入っている。
「それじゃあ、ささっと行ってくるから」
城の裏手――そこに竜は停まる。助手席の扉を開いて、セヴェリ一人だけが降車する。黒い傘を差して、空いた左の手で窓に紋様を描き込んでいく。姿消しの魔術。自分から離れたものに行使しようとするときは、こんな風に何かしら、形に残るもので残さなければならない。
竜の中でカロージェロが指を二本上げる。セヴェリも同じようにして合図を返して、それから歩き出す。
城の見取り図は、すでにおおよそ頭の中に入っていた。たまに考えを巡らせれば、その事実自体が大破滅の兆候のように思えてくる。普通、王のいる城の構造なんてものは、内部の人間にしか知らされない。防衛上の都合があるからだ。
けれど、セヴェリはこの仕事の初日――カロージェロがまたどこかから借りてきたという地図を元に、それを完璧に暗記させられている。一体自分の雇い主は何者なのか……そう、不安になることもある。
けれど、不安がることはただ一時的に心を安らかにするだけであって、決して金になる行為などではないから。
セヴェリは進む。とにかく広い場所だから、厄介なのは入り口と、ごく奥まった中枢部だけだ。一度中に入り込む道を見つけてしまえば、後はそこまで難しい仕事ではない。十三号は比較的時間に余裕があるルートだが、ぐずぐずしていてもただ精神的苦痛が累積していくだけだから、できるだけ足早に進んでいく。
騎士団第四修練場。
改装工事のために立ち入りが禁止されている板張りの場所に、客は腕を組んで佇んでいる。
セヴェリは少しだけ魔術の力を弱めて、靴の裏でとんとん、と床を叩いた。それを合図と知る男は、「お、」とやや驚いたようにして、セヴェリの方へと視線を向ける。
「相変わらず全くわからないな、配達屋」
「……恐縮です」
王国騎士団第四分隊長、フリード。
「どうだい、騎士団……はちょっとアレだろうけど、隠密部の方に俺が紹介してやろうか。給料はだいぶ落ちるかもしんないけど」
快活に笑うフリードは、年の頃およそ三十と少し。騎士団内の序列は上から団長、副団長、各分隊長――と連なることを考えれば、この年でこの役職に就いている彼は、間違いなくいずれこの国の国防と治安を背負って立つはずの人間である。
詮索にならない範囲で、セヴェリはこの男のことを知っている。元は領地持ちの伯爵家の次男であったとか。騎士の中でも限りなく上位に入る役職と、実家からの資金援助。この二つがあってこそ、この高価な薬物に手を出せるのだろうことを、わかっている。
世も末、と考えるのは簡単だが。
しかしこの男のような人間がいなければ自分の生活が立ち行かなくなることも、また事実だった。
「二十です。確認をお願いします」
「おいよ。まあ、二つ三つくらいなら足りなくても気にしないけどな」
セヴェリが包みを渡すと、その場でフリードはそれを広げて数え始める。一回分ごとに小分けにされた袋。静かに呟いて数える。五、六、七……、
「うん。いつも通りピッタリ。ご苦労さん。また頼むよ」
ぱちん、と最後の袋を弾くと、フリードは笑ってそう言った。
薬の代金を受け取るのはセヴェリの役割ではない。現物の引き渡し役と集金役は、それぞれ別で担当することになっているからだ。だから、これで仕事は終わり。
いつ来ても、とセヴェリは思う。
ここが一番緊張する。フリードは本当はまるで薬物を服用などしておらず、こちらの内情を窺っているだけなのではないかという疑念が、一年近く経ってもまだ拭えない。この修練場のそこかしこに部下の騎士を配置しているのではないかと不安になる。
さっさとここを出たい。その一心で、セヴェリは小さくフードの下で頭を下げて踵を返そうとしたが、
「あ、そうそう」
それを、フリードの声が止めた。
「……なんでしょう」
「いや、注意喚起」
一瞬、背筋が凍る思いがする。が、話の続きは、至って親切なものだった。
「最近どうも、城の中がごたついてるんだ」
「ごたついている?」
「そう。なーんか貴族連中……って、俺もだけどさ。やつらが妙な気配出してんのよ」
「はあ……」
「ま、そっちには関係ないと思うけど、一応な。取引現場を押さえて相手を失脚させようって奴もいるかもしれないし……。はは、」
急に笑って、フリードは言った。
「その魔術があるなら俺の世話することじゃないか。いざとなれば影武者を作ってそいつに代わりに服役させるくらいのことはできそうだもんな」
「……いえ、そこまでは」
やろうと思えば、とセヴェリは心の中でだけ呟く。
やろうと思えば、特定の人物の姿の幻影を見せるくらいのことはできる。もっとも、それだって触れられれば簡単に偽物だとわかってしまうだろうが……。
何もこの仕事をしていて自分の底を簡単に見せることもないだろう、その思いで、セヴェリは自身の能力を誤魔化した。
意外そうにフリードは眉を上げた。
「そうか。てっきり、そのくらいのことはできるものかと……。なら、なおさら気を付けないとな。なんかあったら俺の名前を……出されるのはちょっと嫌だけど、」
正直に言って、ちょっと笑って、
「ま、できる限りで手助けしてやるよ。こっちだって、薬がなくなりゃちょっとばっかし日々の彩りが欠けちまうからな」
気を付けろよ、とフリードは言う。
どうも、ともう一度頭を下げて、セヴェリはようやくそこを後にした。
`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、
助手席を開けると、やはりカロージェロは煙草を咥えて新聞を読んでいた。
「悪い、ちょっと遅くなった」
「気にすんな」
傘を差していても濡れるものは濡れる。カロージェロが煙草を消して、新聞を手渡してきて、それを膝の上に敷いたとき、僅かにズボンに付着した雨滴が染み込んでいくのをセヴェリは感じた。
セヴェリが直接の配達をしている間、カロージェロはこうして竜の中で待機していることが多い。それを不公平と思ったことは、セヴェリはない。大元からの薬物の受け取りと、配達の報告はカロージェロの仕事だからだ。それにリスクの程度で言えば、こうして王城に忍び込んでいくのと、王城のすぐそばでストックの薬物を後部座席に放り込んだまま待機しているのとで、大して変わりがあるとも思えない。少なくともセヴェリは、自分だったら待つ側よりも待たせる側の方が気が楽だ、と思っている。
カロージェロの手の中で稲妻が弾ける。発車の合図。
静かに、竜は走り始める。王城という、最も危険な場所から離れて、もう少し人通りの多い、安全な場所へと進んでいく。
激しく降りしきる雨の音を聴きながら、二人は竜に揺られていた。
「新聞がさ、」
カロージェロが言った。
「ん?」
「つまんねえんだよなあ」
本当にしみじみとした調子だった。燕が空を横切るのを見て、「鳥って飛ぶんだなあ」と大真面目に言うような、そんな滑稽さを伴っていた。
その口調に笑いを洩らしながら、そもそもが、とセヴェリは訊ねる。
「新聞なんか読み始めたの、ここ一週間くらいじゃないか? どうしたんだよ、急に」
「待ってる間が暇だろ。だからなんか時間を潰せるもんがないかと思ったんだよ」
「それで新聞?」
「他にあるか?」
竜が音もなく右へと曲がっていく。正面からやって来る馬車の鼻面を擦るような軌道だったが、二人とも何事も起こらなかったかのように、平然と会話を続ける。
「家じゃ何してるんだよ、じゃあ。暇の潰し方くらいもっと色々あるだろ」
「何も。一人で酒飲んで寝てるだけだよ。夢のない暮らしだ」
ふ、とセヴェリは笑う。
「流石に仕事中に酒を飲まれるのは怖いな」
「だろ? 俺も気を遣ってんだよ。だってのに、そいつと来たら」
びっ、とカロージェロはセヴェリの膝の上のそれを指差して言う。
「くだらないことばかりだ。どこそこの貴族がどうしただの、政治がどうこうだの……関係あるかっつの」
「小説は?」
「ん?」
「小説。読まないのか?」
少しだけ、考えるような素振り。
「……ロクに読んだことがねえな。そっちの方が面白いか?」
「まあ、僕は新聞と小説が横並びになってたら小説を取るな」
「俺たちにも関係のあることが書いてあるか?」
「むしろ、関係のないことが書いてある」
「ふうん?」
「関係がなさすぎて気楽だよ。妹の影響で読んでるんだけど、密室だとか、探偵だとか……現実味がなさすぎて」
「現実から目を逸らしていられる?」
そんなとこ、とセヴェリが言えば、ふうん、とカロージェロはもう一度相槌を打つ。今度は少し、興味を惹かれたらしかった。
「ところで、できれば見たくない現実の話なんだけど」
「うん?」
「僕たちに関係のない人から忠告された。なんだか最近、一番関係のないはずの場所がきな臭いから気を付けろってさ」
「なんだそりゃ」
だよな、とセヴェリはその反応に頷く。
「今さらそんなこと言われても、って感じだよな。こっちは年がら年中捕まらないか怯えてるっていうのに……」
これ以上どうやって気を付けるって言うんだか。
そんな気持ちを込めて、セヴェリは肩を竦める。
けれどカロージェロはそれに同調することなく――代わりに「あ」と声を上げた。
「ナイス」
「何が?」
「やばかった。もうちょっとで忘れるところだった」
なんだその不吉な発言は。
問い詰めるよりも先に、竜の軌道が変わった。
十三号のルートを辿るのはもう十数回目だから、流石にセヴェリにもその動きの意味は分かる。
「待てよ、こっちじゃないぞ」
「いいんだよ」
その抗議を、予想していたようにカロージェロは跳ねのけて。
言った。
「今日は、十三号に一手間入れろって言われてたんだ」