8-1 ありがとう
「つかれた」
と、アンネリアは言った。
「そうだね」
と、セヴェリが素っ気なく答えれば、その腰を平手でパン、と叩いた。大して痛くもなかったので無視したまま、セヴェリは荷物を机の上に下ろす。
ヴァンハネン公爵邸、書斎。
あれから、ちょうど今日で一年になる。
「おめでとうございます。アンネリア様」
腰を叩かれた恨みに、わざとらしくセヴェリは拍手を送ってやる。
「公爵代理期間延長決定! これから二年もこの仕事をされるかと思うとわたくし、頭の下がる思いです」
しばらくアンネリアはその嫌がらせの言葉に、唇を噛みながら耐えていた。
けれど結局、上等なドレスを着たままにも関わらず、へなへなと腰砕けになってその場にへたり込むことになる。
「や、」
そして、万感の思いを込めて、
「やめたいっ……!!」
「だろうね」
それにもまた、素っ気なく、セヴェリは答えた。
一年、セヴェリは傍について、アンネリアの仕事ぶりを見てきた。端的に言って向いていないとしか表現のしようがなく、毎朝出勤するたびに机の前で途方に暮れている彼女を見ると、時に涙を堪えきれないこともあった。
そしてそのたび、セヴェリはコーヒーを淹れてやりながら、こう言って励ました。
「一年の辛抱だから……」
公爵代理権の期間の問題なのだ。
マーヴィン=ヴァンハネン公爵は、自身の死後に備えて確かにアンネリア=ヴァンハネンにその代理としての地位を与えてはいたが、もちろん公爵としての地位そのものを譲る書面でない以上、彼女に公爵としての仕事は難しいだろうことは理解していたのだと思う。
アンネリアは元々が貴族の生まれではない。その上、途中参加で何とか無難にこなしていけるような器用さもない。とにかく真っ直ぐであることを美徳とする彼女に、現代貴族としての立ち回りは難しい。マーヴィン=ヴァンハネンは彼女のその真っ直ぐさを買って自身の死後の代理という重役を与えたのだろうが、しかしそれは自身の死後のごたごたを処理するのに誰かに便宜的にそれを与えておくのがよいと思ったから、あるいは、自分という庇護者がいなくなってからの彼女の行方を心配したから、その二つくらいが理由だったように思われる。
しかしこの一年は、激動の一年だった。
ノルチョム宰相の逮捕から始まる、隣国との内通者の炙り出し。騎士団第四分隊長フリードが取り調べ中にぺらぺらととんでもない人間の名前を語り出したときには騎士団全体が揺れ、その報告が上がったときには王は卒倒したという。
流石に嘘だろう、と王が現実逃避を始めたところに、アンネリアが口添えをした。
「そのうちの半数以上は、お父様が反逆者として疑いをかけていた者たちです。……もっとも、その疑いすら、ノルチョムの陰謀が関わっていないとは保証できませんが」
そしてようやく、残された王と貴族は気が付いた。
自分の知らない間に、この国が解体されかかっていたこと。それを食い止めようとしていたヴァンハネン公爵はすでに葬られ、もしもそのまま聖女まで冤罪のままに裁いていたら、本当に、何もかもが手遅れになっていたこと。
貴族議会は紛糾した。誰もが責任の所在を求め、今更になってああしろこうしろと自分なりの意見を述べ始め、王の統治能力に疑問を抱き始めた。もちろんそんなことをしている場合ではないとそれなりに優秀な者達はわかっていたが、残念ながら彼らは少数派で、やるべきことはわかっていても、それを実行できるだけの力はなかった。
だから、アンネリア=ヴァンハネンが必要になった。
彼女は聖女である。そして成り行きはどうであれ、あのマーヴィン=ヴァンハネンを葬った悪の宰相に一矢を報いた、一時的な公爵代理である。
さぞ優秀なのだろう、と期待されたし。
その行動のたった一つを見るだけで、誰もが思った。
こいつは、確実に自分の味方になってくれる。
疑心暗鬼の支配する国家上層部において、まさに彼女は聖女そのものであり、誰もがその助力を求めた。何かしようとするときには必ず彼女を頼るという工程を組み込むようになった。それは王ですら例外ではなく、どんどん彼女の仕事量は膨れ上がった。
しかし悲しいかな、反対に彼女には、頼れる人間などほとんどいないのである。
公爵家に仕えていた人間達ですらも信用できるか甚だ怪しいものだった。何しろその前公爵とて暗殺されているのである。人の心の奥底など知るべく由もなし、頼れる者といえば自分の知り合いしかいなかった。
家の外には滅多に出ることもなかった彼女の知り合いと言えば、チンピラと、チンピラと、チンピラの妹くらいのもので。
チンピラの片割れが都合よく文官崩れと気付いたから、苦肉の策としてひっとらえて、仕事をさせることにした。
計算しろと言われればセヴェリを頼り、政治をしろと言われればセヴェリを頼り、社交をしろと言われればセヴェリを頼り、そして調査をしろと言われれば大いにセヴェリを頼った。二人三脚の一年間。今ではセヴェリは平民の身ながら、聖女の騎士としてそれなりに名の知れた存在になっている。
一年の辛抱、と彼女を慰めていたとき、セヴェリは本当は、自分自身も慰めていた。一年。一年耐えれば、それで解放されるはず。
そして今日、唐突に王に呼びつけられて二人がのこのこ出ていくと、王権による『公爵代理権延長の発案』が行われ、かつそれが貴族議会においても賛成多数で承認されたことを知らされる羽目になったのである。
ふらふらと、失意の状態で出てきたアンネリアがそれを語り、セヴェリが絶句していると、ついでに要らない情報を彼女は付け加えてくれた。
「満面の笑みだったわ。めちゃくちゃニコニコしてた……」
それで二人揃って意気消沈、というわけだった。
公爵の書斎は、綺麗すぎるくらいに片付いている。というのも当然だった。今日で解放されると思っていたから、諸々の資料全てを纏めて王城文官達に渡すつもりでいたのだ。自分たちの仕事はもう終わったとばかりに、全てを引き継ぐつもりでいたのだ。
小雨降るこの日はまだ昼前。
これからそれらの箱を開いて、再び仕事を始めなければならない。
アンネリアが床に砕けたまま動かないのもまあ道理だ、とセヴェリは思っていて。
けれどその横に一緒になって座りこんで、非常に無慈悲な言葉を口にした。
「僕だけ、先に辞めてもいいかな」
信じられない、という表情でアンネリアは顔を上げた。
うっかり崖から落ちていく最中の猫は、おそらくこんな顔をする。そのくらい愕然とした顔だった。
「ひ、」
恐る恐る、彼女は訊ねた。
「人の心がないの?」
「いや、あるけど……」
でもほら、とセヴェリは言う。疲れたし。もう勘弁してほしいし。それにもう一つ。
「『忠誠の指輪』の期限って、もう切れるだろ。幻惑魔術士でそういう保険がなかったら、誰にも信頼されないし……」
「私が信頼するわ。よし、解決」
「…………」
嬉しいやら面倒やら。
複雑な感情は、抑えきれない笑みとそれを必死で抑えつけようと引きつる頬という形で出力され、それを見たアンネリアは「変な顔。にやにやしちゃって」とひどく率直な感想を述べる。
そこまで言うなら、とセヴェリは最後の暴露をすることにした。
「これ」
指輪を嵌めた右手を、彼女の顔の前に掲げる。何の話やら、と彼女は首を傾げて、
「? うん」
「はい」
「……は?」
そしてその一秒後、目の前で、その『忠誠の指輪』が消えるのを、はっきりとその目で見た。
「……は?」
そしてもう一回、同じことを言った。
「何、どういうこと?」
「いや、その……」
察してくれないものかな、とセヴェリは口ごもりながら、しかしこのお嬢様にそういう期待は無理だろう、と諦めてもいたので、はっきり口にする。
「最初からつけてなかったんだ。この指輪。それっぽく見えるように、魔術で誤魔化してた」
最初から、と言って、ポケットから全く同じ形の指輪を取り出す。
茫然としているアンネリアの手を握って、開いて、乗せて、握らせる。
「……ほんとに?」
幼児のような口調で、アンネリアが訊いた。
「本当に」
理性的な口調で、セヴェリが頷いた。
「う、」
一拍置いて、
「裏切り者ォーーーーーー!!!」
ものすごい声量で、アンネリアが叫んだ。
「こ、このっ、人を、馬鹿にしてっ」
「ばかばかばか! 声が大きい! 洒落にならないだろ!」
「信じらんないこのカス! 人間のクズ! 詐欺師! チンピラ!」
「待てって! 普通だろ、あの状況なら! 君のこと何も知らなかったんだし、いざとなったら逃げられるように保険の一つくらいかけておくだろ普通!」
「だったら言えばいいでしょ!? あの裁判が終わった後にいくらでも言うタイミングがあったでしょうが!」
「いや、なんか、その、言いづらくて」
アンネリアが平手で二度三度と体重の乗ったビンタを繰り出す。それをセヴェリが腕で防いでいる。ガードが解けるのが早いか、アンネリアの手首が折れるのが早いかという勝負が展開されているところに、がちゃりと扉が開いた。
「お、楽しそうだな」
入ってきたのは、長身の男。
カロージェロ。
「喧嘩か?」
「こい、こいっつ……!」
怒りのあまりに声を震わせながら、アンネリアは説明した。この人が私を騙してました。
本当か、という目でカロージェロはセヴェリを見た。もう彼も誤魔化すつもりはないから、素直にさっきアンネリアを相手にやったことを見せてやる。指輪を消したり出したり。そんな些細な魔術。
なるほどな、とカロージェロは頷いた。
「こいつ、手癖悪いんだよ。頼りになるだろ」
「なっ、」
前半部分に力強く同意しようとしたアンネリアは、しかし後半部分を聞いてその意気を沈み込ませる。
「なる、けど……」
でしょ、とセヴェリはそれに乗っかった。流石にそれは見逃してくれなくて、「調子に乗るな」ともう一発だけ殴られた。
それで、終わりだった。
それから三人は少しだけ話をした。公爵代理の期間が延びたこと。だから引き続き、この関係のまま進めていこうということ。でもカロージェロにはそろそろ護衛と送迎と潜入調査の相棒だけじゃなくて書類仕事の一つでも覚えてほしいということ。嫌だね、俺はスペシャリストだからということ。
話が一段落すれば、仕事の時間がやってきてしまう。
肩を落としたアンネリアが机に向かい、つられてセヴェリも同じ道を辿りそうになり、ようやくそこで、カロージェロがこの部屋まで来た理由に気が付いた。
「あれ。もしかして、時間?」
「とっくに」
あちゃあ、とセヴェリが額に手を当てる。今日一日の波乱に巻き込まれて、時間感覚が消えていた。遅刻ギリギリになる癖はこの一年の間にだいぶ改善したと思っていたけれど、まだ治り切っていないらしい。
「何の話?」
「今日、早く帰るって約束しちゃったんだよ。昼で仕事終わりだと思ったから……」
「へー。ふーん」
それを聞けば、いかにも嫌味にアンネリアは相槌を打った。
「苦しむ私を尻目に家に帰って可愛い女の子とイチャイチャですか。あっそー。ふーん。へー。そうなんだー」
「変な言い方するなよ」
しっしっ、と彼女は虫を払う動作を見せる。さっさと帰れ、ということらしい。嫌味は言う割に大して引き留めはしない、こういうあたりが、こんな無茶苦茶な状態で一年を続けられた理由の一つだろうな、とセヴェリは思う。
だから、改めて言うことにした。
「アンネリア」
「さっさと帰れ。明日私の分も仕事しろ」
「ありがとう」
は、と彼女は書類から顔を上げた。
まさか仕事を押し付けられて礼を言ったわけじゃないことくらいはわかっただろうが、きっとその感謝の意味がわからなかったから。
「こんな機会じゃないと、なかなか言うタイミングもないから……。ありがとう。ティナのことも、僕達のことも、色々。全部ひっくるめて。本当に、感謝してる」
「……いいわよ別に。さっさと行け! 明日、日の出とともに出勤しろっ」
はいはい、と苦笑しながら、セヴェリは部屋を出ていく。
そのとき……その背中に届くか届かないか、そのくらいの微妙な声量で、誰かがこう、呟いた。
ありがと。
`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、
ほとんど新品と言っていいほど輝かしい竜が、公爵邸の庭に停まっている。
当然のようにセヴェリはその助手席に乗り込み、少し遅れてカロージェロが運転席に乗り込む。その手に稲妻が走って、竜が目覚めて動き出す。
「間に合うかな」
とセヴェリは訊いた。
「間に合わせるさ」
「いつもありがと」
もう、姿を消す必要はない。馬車道を、堂々と竜は往く。
その途中で、ふと思い出したように、カロージェロが言った。
「俺さ、」
「ん?」
「仕事以外で人を乗せるの、夢だったかもしれない」
そうなんだ、とセヴェリは言った。
どうもそうらしい、とカロージェロは応えた。
それじゃあ次は、と言ってセヴェリは、次の休日がいつになるか、指を折って数え始めていた。