7-2 秘密ね
「上手くいくと思いますか?」
不安になって、彼女は訊いた。
ついさっき、あの石壁の部屋の中――そこで伝えた自分の考え。企み。作戦。もちろん自分なりに自信があって提案したことではあったけれど、何せ家の中にいるばかりで、人生経験なるものが全く不足している。そのことをわかっていたから、いかにも世慣れしていそうな背の高い男に、そう訊ねずにはいられなかった。
「さあ」
けれど、男の答えはほんの素っ気ないもの。彼らが先ほどまで閉じ込められていた牢の外――王城の周辺に打ち棄てられていた、ガラスの割れて傷ついた竜の状態を確かめながら、ついでのように彼は言う。煙草の煙を吐くのとほとんど変わらないような相槌だった。
「さあ、って……」
一を告げれば十の優しさで返してくるような人間と暮らしてきた彼女にとって、その淡白さは簡単に慣れるものではない。戸惑っているうちに男は竜の点検を終えて、「まあ動くだろ」と言いながら、動力部分に稲妻を流し始めた。
水底の深い眠りから覚めたように、竜が唸り出す。
周囲にバレないようにと、彼女はお守りを握りながら竜に触れる。本当にあの失われた古代生物が現存していたらこんな肌をしていたのではないかと思ってしまうような、冷たく、それと同時に内側に凄まじい力を秘めた身体。
男が扉を開く。後部座席。あれ、と彼女は首を傾げた。
「助手席じゃ……」
「俺は助手席には相棒以外は乗せないようにしてる」
彼女が一瞬息を呑んだ瞬間には、もう男は「冗談だけど」と前言を撤回していて、
「俺は顔が割れてる。一方あんたは割れてない。うっかり俺が捕まったとしても、あんただけ逃がせば、まだ目が残るだろ」
ああ、と頷いて彼女は言われた通り、後部座席に身を滑らせる。ガラスの割れた竜の中は、外の空気よりもさらに寒く感じた。
男が運転席に座る。扉を閉める。あらかじめ彼女が確認していた脱出ルートを諳んじて「間違いないか?」ともう一度訊いてくる。
「はい」
と彼女は、頷いた。
男の手に稲妻が走る。竜を動かす、雷の魔術。
「上手くいかなかったら、」
車輪が回り出す直前に、男が言った。
「また諦めるか、それとも別の手を試してみるか、どっちかだ。その程度だよ。俺にとって、人生なんて」
竜が動き出す。
この程度の傷など大したものではないと言いたげに、スムーズな動きで。
真っ黒な竜が、透明な姿に変わって、王の城から飛び立っていく。
「ところで、新情報なんだが」
と男は言った。
「ガラスが割れてる状態で竜が走ると、前から風が吹き込んで、マジで寒い」
「…………あの、私の上着、よければ」
おずおずと彼女が上着を脱いで差し出せば、いやいいよ、と男は断った。
あとであんたの兄貴に怒られそうだから。
`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、
笑えることに、深呼吸のための吐息ですらも震えていた。
だから当然、その手はカタカタと震えている。王城の中枢。かえって警備の薄くなった場所。その角に、彼と彼女は立っている。
彼から、彼女に訊いた。
「上手くいくかな」
「それ、私が『上手くいく』なんて言っても、何の説得力もないんじゃない?」
意地悪く、彼女は笑う。ついさっき自信満々で行った場所で罠にかけられた記憶は、決して古くはない。
けれどとりあえず、それを笑えるくらいには、二人とも立ち直っていて。
「……千回に、一回」
と、彼は言った。
「失敗するんだ。昔のトラウマで」
「でも、違ったじゃない」
言って、彼女は自分の髪に触れる。
ついさっき、彼の妹によって見抜かれた場所。例の宰相の男に触れられた際に、現地信号を送信する小型の魔術具を絡められていた部位。
もちろん、今はその魔術具は牢の中に置き去りで、誰も彼女たちがここにいることなんて、知りようもない。
けれど彼は、首を横に振った。
「そういう問題じゃなくて」
「じゃなくて?」
「自信の問題」
ふうん、と彼女は頷いた。本当に顔色が悪くなっている彼の顔を、下から覗き込んだ。それから、「秘密ね」と小さく呟いて。
彼の手を、ぎゅっと握った。
「私の人生ね、ほんとめちゃくちゃよ」
「……うん」
「そのへんの痩せたガキだったのが、たった一個の体質のおかげで大波乱。いきなり厳しいおっさんのところに連れてこられて、貴族の誇りだとか聖女の務めだとかなんだとか言われて……。歯を食いしばって耐えてたら、ここに来て、わけのわかんないやつらに命まで狙われて……あんたらみたいなチンピラまで出てくるし」
彼は、握られていない方の片手を小さく挙げた。
全くその通り、反論の余地もなく、ただ降参です、と伝えるために。
ふ、と彼女は笑って、
「でも、仕方ないわ」
そう、優しい顔で、言った。
「私も元はそのへんのチンピラと何も変わらないもの。行儀よくするのも、深く考えるのも苦手。罠を仕掛けられたら簡単に引っかかるし、『大きな流れ』とか言われても『何?』って感じ。長い時間をかけて考えることができないの。――だから、いつもできるのは、たった一つだけ」
「……何?」
「目の前のことを、必死で頑張ること」
瞳と瞳が、ぴったりと合わさる。
どこかで分かたれた鏡合わせの双子のように、二人の視線が、深く通じ合う。
「使命、運命、宿命――――。呼び方なんて、なんだっていい。私にはやるべきことがある。どんな場所でも、私はそのために精一杯の努力をする。溺れながら、必死で息継ぎをする。……たったそれだけ。人生は苦難の連続だっていうなら、それは受け入れる。何もかもぐちゃぐちゃになって、取り返しがつかなくて、私の力じゃもうどうにもできないことがあるっていうなら、それも諦める」
それでも。
それでも、と、彼女は。
「これ以上悪くならないように、私は私にできる限りのことをするわ。それが今の私にできる、一番のことだから。……あんたも協力して、セヴェリ。あんたが何かを後悔してるなら、まだ、何かをどうにかしたいって思ってるなら。私のために、力を貸して」
少しだけ、彼は瞼を閉じた。
彼女の視線に耐えられなくなったから、ではない。ただ、自分の心の中から、彼女の言葉に見合うだけの気持ちを、引き上げるために。
瞼を開いたのは、だから、それができたから。
震えは、いつの間にか止まっていた。
「……そんなに簡単に信じて、また騙されるかも」
そんな風に冗談めかせば、彼女は肩を竦めて笑った。
「仕方ないわ、それも。私はまだ、疑うのが下手だから。代わりに、信じることを武器にする」
そっか、と彼は頷いた。
そうよ、と彼女も頷いた。
にわかに、王城の一角が騒がしくなり始める。そのことに、二人ともが気が付いた。
時間だった。彼と彼女は、行かなければならない。運命と、宿命と、そして二人の命が混ざり合う場所へ。ボロボロに傷ついた、自分達の人生だけを引きずって。
間に合う限りのものを、間に合わせるために。
「そういえば、」
その途中で、ふと思い出して、彼は言った。
彼女が「ん?」と言って振り向く。本当にあどけない、ただの少女のような顔をして。
それを見れば、ひょっとするとこれから自分の言うことは的外れなのかもしれないと彼は思ったけれど――口に出し始めてしまったら、もう遅い。言い切る以外の選択肢など、もうどこにも残されていない。
だから彼は、言った。
「君みたいな人のことを、気高いって言うんだと思う」
一瞬だけ、きょとんとして、そのあと。
初めて言われた、と言って、彼女は笑った。