7-1 離れ離れになるには
もちろん、すぐに鍵を開けるという選択肢も、彼女にはあった。
それをしなかったのは、声が聞こえてきたから。
大きな流れ。兄の友人らしい人が、そう語る声が聞こえてきていたから。
そして彼女は思ったのだ。その大きな流れの元は、本当は自分であると。この兄を苦しめてきた運命の、最も根幹に立っていたのは、間違いなく自分であると。
だってあの日。自分がこの優しい人を選ばなければ。すぐにでも自分を捨ててくれるような、もっと薄情な人を選べれば。自分に与えられた役割を、こんなに忠実に果たそうとする人さえ選ばなければ――今頃この兄は、兄としてではなく、どこか別の人として幸せになれた可能性だって、十分にあるのだから。
わかっていた。
この人を、ここまで追い込んだのは、全て自分の所為なのだと。
それがわかっていたから、自分は死のうとしたのだ。改めて彼女は、そのことを自分の心の中に確かめて。
それでも彼が、本当に生きることを諦めてしまう直前に、声を出した。
だって、彼が自分の命を無理やりに助けたのと同じで……自分は彼に生きてほしいと、そう思っているし。
それに、もう。
離れ離れになるには、遅すぎる。
そんなところまで来ていることも、また、彼女はわかっていたのだから。
`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、
「――ティナ?」
初め、セヴェリはそれを、幻聴のように思った。
全てを諦めた果てにある救い。死に際の男が天使の迎えを見るように、自分にとってもっとも大切な相手が、この失望の岸に訪れた――そんな、自分勝手な妄想なのだと、最初はそう思った。
けれど、この狭い部屋の中、残りの二人……カロージェロとアンネリアも驚いた顔をしているから、それが自分の頭の中だけに現れたものではないらしいことが、わかってしまう。
そう。
自分の妹が、ここに来たということが、わかってしまう。
「な――――」
「お願い。大きな声を出さないで。騎士の人がこの階にいるから」
なんでここに。そう叫ぼうとした声を、ティナが止める。
本当にティナなのだろうか? 扉は固く、内側から外側を覗く手立ては一つもない。自分の魔術のことを考えれば、誰かが何か、自分を罠にかけようとしている可能性だって、排除はし切れない。
けれど。
「私ね、お兄ちゃんのこと、自由にしてあげたかった」
この声を聞けば、信じてしまう。
それが妹の声だと、どうやっても、信じ込んでしまう。
「お兄ちゃんが私のために無理してるってこと、本当はわかってた。……私がいなければ、もっとちゃんとした人生を送れるってことも、よく、わかってた」
そんなことはない、と言おうとした。
けれど、声は出せない。ここまで辿り着いたからには、おそらく自分が何年もかけて作った魔術具を使っているはずなのだ。姿は見えず、声は聞こえず、それでも伝えたい相手には自分の存在を報せることができる。本当の特別製。
ここにいないはずの人間に声を返すことはできない。もしも見張りの騎士が聞き耳を立てていたら、不自然に思われてしまうから。
そして、いつものように抱きしめて、彼女の言葉を遮ることすらもできない。
この破滅的な状況に追い込まれて初めて――初めてセヴェリは、ティナの心と、向き合わされていた。
身動き一つできないまま。
誤魔化し一つも、かけられないまま。
「でも、なくしたくなかった。お兄ちゃんがいなくなるのもそうだし、自分の命をなくすのも怖くて……それで、ずるずる足を引っ張って、こんなところまで来ちゃった」
そんなことはない。
反射のように声を返したくなる。けれどそれは口には出せないから、頭の中だけに押し込められて、何度もエコーのように反響を繰り返す。何度も何度も何度も、自分の心だけがその言葉を噛み砕く。
本当に、そんなことはないのか?
「ようやく今日、勇気を出せたのに……でも、やっぱり遅かったんだね。お兄ちゃんはもう、流れの中から抜け出せなくなって、私がずっと『いつかこんな風になっちゃうのかも』って心配してたところまで、行き着いちゃった」
疲れた、と自分は言った。生きることに。
けれど、自分にとって生きることは、この妹と生きるということではなかったか。
どうして、この状況に置かれて最初に、諦念が頭を過ったのか。本当だったら、自分はこの妹の――自分以外に頼る人間のいないこの妹のことを、最初に考えるべきではなかったか。諦めなんてもっての外で、一番最初にやるべきことは、どうにかして妹だけでも救えるだけの算段を立てることではなかったのか。
そう、ならなかったのは。
「ごめんね――私、間に合わなかったんだね」
この妹のことを、重荷に感じていたからでは、なかったか。
どこかで、自分は安心していたのだと、セヴェリはようやく気が付いた。
精一杯やった。自分は、自分にできる限りのことをやった。だからもういい。もう、休んでもいい。そう思えた瞬間――もう何もできることはないと分かった瞬間。
たとえそれが自分の命を失うという結果に繋がっていたとしても――道の終わりが見えて、安堵を覚えたのだ。
「でもね、」
それでもティナは、まだ言葉を続けた。
かちゃり、と小さく音がする。扉の鍵。それが開く、本当に近くにいないと聞き取れないような、微かな音が鳴る。
「それでも私は、まだ言いたいんだ。お兄ちゃんのこと、勝手に大好きだから。疲れたって言っても、もう歩くのをやめたいって言っても、溺れ続けるのは苦しいって、そう思ってても。我儘ばっかり言ってきて、最後の最後までこれじゃ、自分でも呆れちゃうけど」
ゆっくりと、扉が開いていく。
セヴェリの瞳に、その姿が映っていく。
ずっと胸に抱きしめていた、その姿が。大きな流れの中で、重たくて、放してしまいたくて、それでもずっと、胸に抱いていた、彼女の姿が。
あの日――――もうずっと遠くなったあの日、泣きじゃくっているのを見たあのときから、ずっと思っていた、小さな女の子の姿が。
「まだ、間に合うよ」
今はこんなに、大きくなって。
自分に手を、差し伸べて。
「生きてるのって、つらいことばっかりだし……その原因になってる私なんかが言えることじゃないと思う。でも、何度も……何度でも、伝えたい、です」
壁に手を突いて、セヴェリはゆっくりと立ち上がる。
そして、カロージェロの言葉を思い出している。
本当の原因はずっと、過去にある。今現在なんて、長い長い過去のほんの一番表面のところにあるだけのもの。
それなら、今、ここに、目の前に、あるのは。
「私はあなたが大切だから、どんなに苦しくても、生きることを選んでほしい」
二人で積み重ねてきた長い時間の――ほんの一欠片の、終着地点。
ティナ、と。
名前を呼びたかった。
けれど、呼べなかったから、代わりに一歩、彼は彼女に、歩み寄った。
本当はもっとたくさん、伝えたいことがあった。確かに、ティナの言う通りだった。自分は疲れていた。生きているのがつらかった。でも、それだけじゃなかった。過ごしてきた時間は確かに幸福で、自分だって、君のことを本当に大切に思っている。そういうことを、伝えたかった。
それも伝えられないから、代わりに、さらに一歩、彼は彼女に、歩み寄った。
本当に間に合うのだろうか。そう訊きたかった。自分は数えきれない過ちを犯してきた。自分にはもう、取り返しのつかないことのように思える。それとも、それは君の目から見れば違うのだろうか。自分の目からは、君はまだずっと大丈夫だと思えるのと同じように、君の目に映る自分は、大丈夫に見えているのだろうか。
代わりに、もう一歩。
君だけでも。使い古された言葉が、口を衝いて出そうになった。けれどその言葉が頭の中で反響すれば、目の前にいる彼女も同じことを考えていることがわかる。自分たちに許されているのは、すれ違うこと。それ以外には、たったの一つだけ――。
だから、彼は最後の一歩を踏み出して。
彼女の瞳に、真正面から、ようやく向き合って。
たった一つの願いを込めて、彼女を抱き締めた。
どうか。
自分と一緒に、溺れられる限りを、溺れてくれないか。
大きな流れの中で、息の根が止まってしまうまでの、短く、長い時間を。
一緒に溺れてくれないか。
君のことが、大好きなんだ。
彼女が開いた扉の先で――自由になった彼は、結局、そればかりを願っていて。
彼女は、彼の腕の中で、細く脆い身体を軋ませながら、それでも、彼の背中へと腕を回して、こう言った。
「苦しいよ、お兄ちゃん……」
彼はただ泣いていて、彼女は泣きながら笑っていた。
そのほんの少しの違いが、どこから流れてきたものなのか。そんなことは、誰だって知る由もないけれど。
この場では、きっと、大したことではなかった。
辿り着くべき場所に、二人はようやく、辿り着いたのだから。