6-4 訪れるものが訪れるまでの
雨の中、少女が立っている。
朝の陽はまだ、曇天の灰色に隠されて。
お守り一つ、彼女は握り締めながら。
大きな城の中へ、そろりそろりと入っていく。
`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、
セヴェリは、ゆっくりとその目を開いた。
ここは。そんなことも、しばらくは考えられない。生まれてこの方感じたことのないような、思考の空白。考えるということすら忘れてしまったような茫然が、最初に彼に訪れた全てだった。
彼の中に再び意識が立ち上るのは、痛みによって。
胸のあたりに、激しい痛みがあった。それを耐え忍んでいれば、ふと、頭の後ろが痛いことにも気が付いた。前者をどう扱っていいかはわからなかったが、少なくとも後者については、どうも頭を持ち上げれば解決されるような気がしたから、彼は少しだけ身じろぎをした。
すると、安堵の息が聞こえてきた。
ほんの顔の……花のひとひらが挟まるだろうか、そのくらいの距離で、声が囁く。
「大丈夫?」
何が。
まだ、思考が動き出すには早い。記憶を探り出すような、気力もない。
ただ瞳だけが動いた。暗い……狭い部屋。鉄格子の窓。石の壁。石畳み。自分の頭が痛いのはどうもそれに寝ているかららしいとわかれば、ようやく論理的な思考が一欠片だけ。その他に視界に映っていたのは、たった一人。
アンネリア=ヴァンハネン。
金色の髪が、薄暗い部屋の中で浮き上がるように光っていた。
「起き上がる?」
彼女は、これまでとは異なる、硬さの取れた声でセヴェリに語り掛けてくる。
「一応、見えるところは全部治したから、もう動かしても平気だと思うけど……」
「僕は、何を……」
「記憶が混濁してるのね。平気。ショック状態から醒めたときは、よくあることだから」
彼女の手を借りながら、セヴェリは上半身を起こす。
すると、今まで死角になっていた場所……そこにもう一人の存在があることに気が付いた。
血まみれの男。
「カロージェロ!」
叫んで、セヴェリは駆け寄る。
その瞬間に全て、堰を切ったように記憶が蘇ってきた。
全ての――そう、全ての。ここに至るまでの記憶が、全て。
カロージェロの怪我は、どうやら見た目だけだったらしいとすぐにわかる。服に開いた穴の周りこそ血で汚れているものの、そこから覗く肌には、傷跡すらも浮かんでいない。意識はなさそうだが、ただ眠っているだけという様子で、今にも起き上がってきたっておかしくないように見える。
そして、思えば自分も。
思い出していた。自分たちは逃走しようとして、失敗して、フリードに瀕死の状態にまでされて……。ということは、今ここはきっと牢獄か拘置所で、それから、自分があれほどの怪我を負ったにもかかわらずこうして動けているのは。
「治してくれたのか」
訊けば、小さく、アンネリアは頷く。そうか、とセヴェリは頷いて、一言だけ、こう伝える。
「……ありがとう」
「いいわよ。お礼なんて……」
何もできなかったんだから、と彼女は言う。
結局ね、と。
「私が馬鹿だったわ。あんな人間、簡単に信じたりして……。ごめんなさい。そのせいで、あなたたちも」
「いや……」
セヴェリは、首を横に振る。
アンネリアが馬鹿だった、ということはないだろうと思う。確かに、自分たちの目から見れば迂闊な行動には映ったけれど、何せあのヴァンハネン公爵すらも、ノルチョムから勧められたというだけで怪しげな薬を吸引し、暗殺されるまでに至ったのだ。彼ほどの貴族を相手にそこまでの信頼を得ていたノルチョムの数十年に及ぶ擬態――当然、義娘であるアンネリアだって、父親から彼の人となりくらいは聞いていただろうし、これほど周囲に味方がいない状態でそうした相手を見抜けというのは、酷な話だと思う。
むしろ……、
「僕が、悪かったんだ」
「え――」
「君がノルチョムを信じている分、僕達が疑うべきだった。カロージェロと相談して色々と備えていたのに――結局、向こうの方が上手だった。君にあらかじめ相談すべきだったとも思うし、」
「どうせ、聞く耳なんて持たなかったわよ」
内心で、セヴェリはアンネリアの言葉に頷く。彼女にあらかじめ、ノルチョムへの相談が失敗した場合の計画を尋ねなかったのは、それが理由だったからだ。
細い希望があった。その時点では。それに縋ろうとしている人間に対して、「もしもそれがダメだったら?」なんて言葉は、ほとんど刃物のそれに近い。まともな話し合いになるまでに時間がかかるだろうことは想像できたし、自分たちには時間がなかった。
それでも、「もし」と思ってしまう。
もし、あのとき、もっと早くにあの場を去ることができたら。
初めから第二案のための体勢を整えた状態で、行動に移ることができていたら。
「それに、」
もう一つ。
「僕の魔術は、向こうに見破られてた……」
あのまま、姿を消すことができていたら。
今頃、こんなことにはならなかったんじゃないか。
失われた希望とも自傷ともつかない想像ばかりが頭の中を駆け巡る――。もしもあのとき。ああできていたら。こうしていたら。今頃は。今頃はこんな冷たく狭い部屋に閉じ込められることもなく、もっと先へ進めていたんじゃないか。こんな、もう、何も希望もない場所にいることもなかったんじゃじゃないか。
もっと、自分が――――、
「違うわ。私が――」
「仕方が、ねえだろ」
二人の会話を、男の声が遮った。
弾かれたように、二人はその声の元を見る。カロージェロ。褐色長身の彼が、その身体を床に横たえたまま、細く目を開いていた。
「大丈夫? どこか、悪いところは――」
アンネリアが屈みこんで様子を訊ねる。いいよ、ありがとな、でももういい。その三つの言葉だけ告げて、カロージェロは起き上がる。
そしてじっと、セヴェリを見た。
「言っただろ、巨大な流れがあるって」
セヴェリは思い出す。巨大な流れ。あの隠れ家で、彼が口にした言葉。
成す術もなく、流されていく。自分たちに選べるのは、精々が東に流されていくか、西に流されていくか、それだけ。
「目の前にある選択っていうのは、大抵の場合、そんなに大したことじゃないんだよ」
俺はな、と言いながらカロージェロはポケットを探る。煙草。指を擦って、火花でそれを点ける。どうして持ち物の没収がされなかったのか――セヴェリは想像する。きっと、ここの拘置所に叩きこまれたときの自分たちの容態。ほとんど死にかけの様子を見て、騎士たちが変に刺激することを嫌がったのではないか。誰だって、自分の行動をきっかけに人を死なせるのには、それなりの覚悟が要る。
「状況とか、道筋とか――そんなもんは、ずっと前に決まってるんだよ」
湿った部屋だった。
地下なのだろう。頭のずっと上の方から、雨が地面を叩く音が聞こえてきている。
俺だったら、とカロージェロは言った。
「ああいう親父のところに生まれてきたこと――んで、元々そういう場所との繋がりが強い地域で育ったこと。その二つ。選択肢なんてのは実を言うと、もっと昔から決まってる。取れる手段なんてのは、大抵の場合、問題に直面した時にはもう限定されてるんだ。今現在なんてのは、長い長い過去のほんの一番表面のところにあるだけのもので、本当は、何の重みも持っちゃいない」
お前だったら、とカロージェロはセヴェリを見ている。
「親をなくしたこと。新しい家族に引き継がれてきた病気。普通の奴らの間じゃ生きられない力。……仕方がないんだよ。俺達は大きな流れの中にいて、その複雑さを把握することはできない。どこから流れてきたのか、どこへ流れていくのか……。俺達はそれをコントロールできているつもりでいて、本当は、何も知らないんだ」
「運命ってこと?」
アンネリアが、そう訊ねた。
カロージェロは、頷くでも否むでもない、微妙な調子で顎を引いて、白煙を胸一杯に吸い込んで、吐き出した。
「本当の原因っていうのは、もっとずっと、過去にある。それに気が付いたときにはもう何もかもが手遅れだ。成功と失敗の二つから選び続けていたら、いつかは必ず失敗を選ぶ。挙句の果てには、俺達の手の中には失敗の選択肢しかないことだってある。上手く生きられる奴っていうのは、結局のところ初めから成功の札を握りしめていられる奴だけなのさ」
「僻みだわ」
「だけどあんただって、こうして簡単に負けた」
「それは、」
「もしもあんたが貴族として生まれて――貴族の汚いやり方みたいなものを学んできていたら、こんなに簡単には負けなかった。だけどそうじゃなかったから、負けた。『そうじゃなかった』――――どんなに後悔しても、結局はそれだけだ」
仕方ない、とカロージェロは言った。
「失敗なんていうのは、本当の問題じゃない。その失敗が起こる環境を作っちまったこと――それが、本当の問題なんだ。だからまあ、お前らもそうやって自分が悪かっただのなんだの言うのはやめろ。そんなのはくだらない、表面的な問題だ」
アンネリアが何かを言う前に。
それより前に、セヴェリが言った。
もしかして、
「慰めてくれてるのか?」
アンネリアが驚いたようにセヴェリを見た。そしてもう一度、カロージェロに視線を戻す。当の彼は、妙に落ち着き払った様子で煙草を吸いながら、こんなことを言う。
「伝わりにくかったか?」
「んな――」
アンネリアは、ひとときだけ言葉を失って。
それから、花の綻ぶように、笑った。
「何それ……」
時間が、流れていた。
狭く、湿った部屋の中で。三人が三人とも、ただ座り込んで。
ただ時間だけが、流れていた。
訪れるものが訪れるまでの、ほんの僅かな、短い時間。
その中で、セヴェリは少しずつ、受け入れつつあった。
何もかも、間に合わなかったのだということを。
すべて時間というものは流れに流れ――二度と同じ場所に帰って来はしない。辿り着いた場所からは、もう戻れない。自分の終着点はここで、もう何をするにも遅い。そして本当は、ここに辿り着いてしまうよりもずっと前から、すでに自分は一本道に迷い込んでいた。踵を返すことなどとてもできそうにない狭い道――。
手遅れで、仕方がなくて、何もかもが今更で――――とても自分はこれから、何も、どうにもできそうにない。
そのことを受け入れつつあって、カロージェロも、アンネリアも……同じように、重たい荷物を下ろしたような、安らかな顔つきに変わりつつあって。
ふと、気が付いたことがある。ここまでのひどく短い人生の中で、ずっと心の中にあることを感じながら、しかしそれを認めてしまったらお終いだと恐れて、見ないふりをしてきた、一つの言葉。
二人の目を見つめながら、とうとうセヴェリは、それを。
口にした。
「生きてるの――――疲れちゃったよな」
「ごめんね、お兄ちゃん」
そして、その声は、扉の外から聞こえてくる。