6-3 燃えていく
逃げ切りだ、と二人は思っていた。
そして、少し遅れてアンネリアも。
竜で逃亡した三人組。それが屋上にいるというのは、おそらくパッと考えただけですぐに見える選択肢ではない。その上、セヴェリの幻惑の魔術は完璧。ゆえに、長くここに留まることはないにしろ、一旦の安全地帯に逃げられたと思っても構わないはずだ。
で、とセヴェリが言った。
「どうする? これから」
「これからって……」
状況は最悪だった。
三人揃って指名手配。容疑は公爵の暗殺。それも冤罪を着せてきたのは今最も勢いのある侯爵で、そのうえ助力を求めた先にいたのもそれとグルになっている伯爵宰相。たった一人の命綱もなくして、この雨の中、三人揃って漂流しているのが現状だ。
「他に、協力者の心当たりはないのか?」
「やめとけよ」
煙草に火を点けながら、カロージェロが言う。
「あってもどうせ、役には立たねえだろ」
「……悪かったわね」
そう応えるアンネリアの声には、少しだけ涙が混じっている。無理からぬことではあった。父が死に、そしてそれを殺したのは父の友人であり、寄る辺はなく、命を狙われ……。心が折れても誰も責めはしまいという境遇にあることは間違いないのだから。
けれど、ここで折れてしまっては死ぬだけなのである。
「……一個だけ、あるわ。心当たりじゃなくて、私たちが助かるための方法が」
「どんな?」
「もう一人の回復魔術士を裁判まで引っ張り出すのよ」
「もう一人の?」
説明を求めて、セヴェリは振り返る。もちろんその間も、魔術を切らすことは決してない。
「そう。つまり、あの薬を作った女……聖女に仕立て上げようっていうんだから、十中八九そうでしょ。そいつを裁判所まで連れてくれば……」
「どうにかなるかな、それで」
「こっちにはこれがあるわ」
そう言いながら、彼女は服の袖に手を入れる。
そして、顔色をさあっ、と蒼白にする。
「あ、え、」
「もしかしてこれ?」
「な、」
セヴェリがそれを懐から見せつけると、彼女は「なんでお前が」という顔で、
「返せっ!」
「はいはい」
言われたとおり、セヴェリはアンネリアにそれを手渡す。彼女は大事そうにそれを抱え込みながら言う。
「これさえあれば、何とかなるわ。曲がりなりにもこっちは公認された聖女よ。それに、男爵以上の貴族なら、自分を被告人にする悪魔裁判でも抗弁権が与えられる。これさえあれば、逆に向こうの回復魔術士を悪魔認定して殺すことができる……!」
「確実なのか?」
セヴェリが訊けば、「そう言ってんでしょ」とアンネリアは答える。カロージェロは煙草の灰を皿に落としながら、問題は、と言う。
「問題は、そいつをどうやって探すかだろ」
「それはきっと、エリオール侯爵の私邸とか……」
「で、また囲まれて命からがら逃げ出すってか?」
「できなかったら、」
死ぬだけよ、とアンネリアが言う瞬間だった。
セヴェリが、聞いたこともないような大声で叫んだ。
「発進させろ!!」
カロージェロの反応に、ほとんど遅れはなかった。
セヴェリの言ったとおりに、竜を急発進させた。何が起こっているのか、何のための注意喚起で、指示だったのか、それを確かめることもしないまま、彼は稲妻を竜に通してアクセルを踏んだ。
そしてその直後、ブレーキを踏むことにもなる。
目の前を、火球が通り過ぎていったから。
「んなっ――!」
「狙われてる!」
セヴェリの瞳はすでにその火炎魔術の発生元を捉えている。王城付近。見張り塔。三つの魔力源が同時に魔術を使い、そしてたった今、竜の頭と尾のスレスレをすり抜けていった。
「なんでこっちの場所が――」
姿は完全に消しているはずだった。
それなのに、なぜ。
「まさか――――」
まさかとは思う。
ありえないはずだと思う。起こったのは千回に一回。それが一番酷かった時期で、だから今は、今ならばこんなことは起こらないはずなのだ。
自分たちの居場所が、バレるはずがない。
自分で自分の魔術を、信じられる。
『本気でか?』
傷から脳の零れだす、あの日のイーガウが、そう訊いた。
「――――」
「おいっ! ナビゲーション!」
カロージェロの叫びに、ハッとセヴェリは顔を上げる。火球はオーソドックスな魔術の一つだ。再狙撃にそこまで時間を要しない。
「タイミングだけ言え!」
「さ、三秒後!」
カロージェロが、再びアクセルを踏み込む。
竜は加速して、翼もないのに、本物の古代生物のように空を跳んだ。
屋上から屋上への跳躍。着地。車が揺れる。サスペンションが悲鳴を上げる。ついさっきまで竜のいた場所に火球が着弾して、街を揺らす。
「回復魔術は!?」
「生き物じゃないと効かないわよ!」
「次、追撃十秒後!」
セヴェリは遥か彼方の塔を見つめて叫ぶ。魔力の集中度を見れば次の攻撃のタイミングぐらいは分かる。
しかし、その程度のことではどうにもならないディスアドバンテージが――、
「こっちの居場所がバレてる! 僕の魔術が効いてない!」
「かけ直せ!」
「もうやった! なのに――まずい! 逆方向にも配置されてる!」
「あァ!?」
着弾、着弾、着弾――。爆風が舞う。まだ直撃こそないものの、跳躍を繰り返した竜のフレームには軋みが起こり、同時に巻き起こる衝撃が窓硝子に罅を入れていく。
「あ、あいつら何考えてるの!? こんな街中で!!」
火球の狙撃は正確だった。その一つ一つが、確実に竜を破壊すべく狙いすまされ、そしてたったの一撃で仕留めるだけの威力を秘めている。もしもセヴェリにもう少し思考の余裕があったのなら、それの発射元になりうる魔術士は騎士団魔術科の上位席次の者たちを置いて他ならないことに気付けただろう。
時間の問題だった。どんどんこちらの動きは読まれつつある。いくらセヴェリの目とカロージェロの脚の両方があったとしても、ジリジリとこちらの余裕はなくなっている。爆風は視界を遮り、彼の目を覆い始めている。竜は軋み、彼の脚を引き込み始めている。
だから、勝負に出るしかなかった。
「最大加速かけんぞ!」
アクセルの底がぴったりと床につけられる。カロージェロの肘まで稲妻がバチバチと弾けて走る。限界出力。爆風などなくとも竜がバラバラに砕け散ってしまいそうな高負荷。それで、この騒ぎの中を突っ切ろうとして――
爆風の向こうに、一人の男が立っているのを、セヴェリは見た。
「カロ――」
そこから全ての出来事が、スローモーションで、セヴェリの目に映った。
そこに立っていたのは、よく知っている顔だった。
フリード――――王国騎士団第四分隊長。伯爵家次男。次代のこの国の防衛の担い手。
セヴェリとカロージェロが運んでいたあの薬物の、優良顧客。
その男が鎧を着込んで、いつもとまるで変わらぬ気軽さで剣を構えて、少しだけ笑むような表情で、唇にこんな呟きを乗せる。
「――悪いね」
刺突だった。
風の魔法。音の破れる瞬間に、空間の歪みすらも見える。かつてセヴェリはそれを見たことがある。冒険者時代。あのクランのリーダーだったタビサが全力で一撃を放った瞬間に感じるのと同じ、力の奔流。
暴威が顕現したような、常識外の一撃。
それが、カロージェロの胸を目掛けて飛んでくるのをセヴェリは見た。
だから。
「あ、ァアアアアあああああああ!!!!」
彼を突き飛ばして、庇い立てた。
左の二の腕からそれは入っていった。腋の下の肉をかき分けて、骨に穴を開けて、肺臓を貫いて――その逆の行程を経て、右の肩から出ていった。
「せ、」
カロージェロの声は、後部ガラスが割れた音に遮られる。竜が着地する。彼はそれが地上へと落下していかないようにするために、ハンドルを握ることを余儀なくされる。
もちろんその隙を、フリードは逃したりはしないのだ。
「がッ――――!」
「いや、マジですごいテクニックだったよ。俺の運転手に欲しいくらい」
二刺し目。それはカロージェロの鎖骨を砕く。痛みから醒めてアクセルを踏もうとするも、その瞬間竜の周囲に火球が着弾する。それによってできた炎の壁をするりと抜けて、フリードは竜の扉を掴む。開く。そして二人の男を片手で引き抜いて、床に転がした。
セヴェリを見下ろして、フリードは言う。
「できる限り手助けしてやる、なんて言ったばっかでこんなのもあれなんだけど」
剣を、雨に濡らして、突きつけて、
「わりーね。仕事だからさ……」
「やめなさい!」
そこに飛び出してきたのが、アンネリアだった。
彼女は迷わない。庇うにしても、二人の前に両手を広げて立ちはだかるなんてことはしない。
ただ、フリードの剣先を、その手で掴んだ。
フリードの動きが止まる――何かを思案するような顔。
「ひょっとして、前世からのお知り合いか何かですか? アンネリア嬢」
「ただの、旅の道連れよ」
ふうん、とフリードは頷く。
ふんふん、とさらに二回頷いて、
「ま、そんならそれでいいでしょう。――手を離して。指ごとすっぱりいっちまいますよ」
「やりたいならやればいい」
「剣を収めるって言ってんですよ」
不審げな顔つきのまま、アンネリアがその手を離さないものだから、フリードは一つ、軽く肩を竦める。そして結局彼は、ゆっくりとその剣を、彼女の手に必要以上の傷を残さないように、床へと置いた。
代わりに、アンネリアの手首を握って、服の袖を捲った。
「何を――」
「代わりと言ってはなんですが」
そこには、大切なものが入っている。
公爵代理権書。
「かえ――」
「灰にしてね」
フリードはその文面にさらりと目を通すと。
ひょい、と炎の中に、投げ入れた。
アンネリアが叫ぶ。
自分たちの命綱。それに火が燃え移るのを、ただ黙って見ているわけにもいかなくて。どんな戦士だって尻込みするような炎の中に、自ら飛び込もうとする。
「勘弁してくださいよ」
その襟を、フリードが引っ掴んだ。
「離せ、この……!」
「流石に諦めてくださいや。……お嬢さんの優秀な二人の騎士は見てのとおり瀕死。そんであんたは俺にこうやって取り掴まれて、力じゃどうやっても敵いっこない」
あ、あ、あ……アンネリアの喉から、悲痛な声が洩れる。
燃えていく。父から受け継いだ、この状況を打破するための、二つの鍵のうちの一つが。
完膚なきまでに、黒く身をよじって、燃えていく――。
「終わったんですよ。何もかも。あんたらはここで終わり……何をしてももう、遅いんです」
雨の中、フリードがそう、アンネリアに囁いた。