5-3 傍にいたい
彼女が目覚めるときは、いつも精神の方が先に速度を取り戻す。
そして、動きもしない身体の中に、奔流のように情報が流れ込んでくる。止まっていた間の記憶の全て。『遅延病』によってほとんど動けなくなっていた時間に起こったことが、圧縮されて、ほんの一瞬の間に。
彼女は、自身の兄にはそのことを明かしていない。心配するだろう、と思ったからだ。この記憶の再認識には頭痛を伴う。一度目を味わった後には、もう発作によってそのまま死んでしまう方が幾分気が楽だろうと思ってしまうくらいの激しさを持つ、それを。
幸い、精神がその苦痛と憂鬱を認識する方がずっと早く、肉体の反応はそれがある程度鎮まった頃に訪れる。だから彼女は、いつも症状から回復するたびにこう言ってやり過ごすことにしているのだ。
「――薬が効いたみたい。ありがとう、お兄ちゃん」
そう言って肩の一つでも回してやれば、面白いくらいに彼は慌てだす。まだ安静に、なんて小さな母親のように言って、それからほっとしたように笑みを漏らす。
だから、ティナは言わなかった。
本当はこの病気は、悪化すればするほど、それ以上の悪化を恐れて死にたくなるようなものなのだということを。
死ぬことが、ただの苦痛からの出口に見えてしまうような、そんな病気なのだということを。
ずっと彼女は、黙っていた。
今、彼女の頭の中には、薬を飲まず家の中で倒れたときから、たった今ベッドの上に横たわっている現在の自分に至るまでの時間が、時系列もぐちゃぐちゃなままに雪崩れ込んでいる。
発作が始まってからも薬の方へ向かうことなく、間延びしていく時間の中でベッドの上に横たわり続けた記憶。一人きりの部屋の中で天井に向かって瞼を閉じた記憶。本当は駆けつけてほしい、と思う記憶。名前を呼ぶ声に、どうして本当に来てしまったのだろう、と考えた記憶。唇に触れた錠剤の味。舌の上を滑っていく水の冷たさ。押し当てられた、初めての感触。昔のように背負われて、部屋を出て、不思議なゆりかごの中で揺られるようにして、やがて隣に座る彼女が首元に冷たいナイフを押し当てて――脅迫、交渉、取引。ベッドサイドで吐露した弱音。三人が夜明けを前に、部屋から出ていった音――――。
そうしたすべての刺激に対する反応が、一度に彼女の頭の中に溢れていた。順番も秩序も、そこにはない。ただ脳の柔らかい部分をひたすらに針で押されて、そのままに感情が動く。人形遣いのデタラメな指の動きのまま、腕を、足を、首を捻じるマリオネット。喜びも悲しみも沈鬱も安堵も好意も罪悪感も、全てが心の規則を守ることなく、同時に引き伸ばされ、引き裂かれ、いっそもう、と彼女は思ってしまう。いっそもう、こんなに苦しいのなら……。
けれど。
本当は、一番大きな苦痛は、それではなく。
いつも、この苦しみの中で最も際立つもの――たった一つ鈍く光り、そして彼女を傷付ける痛みは、もっと別の言葉で表されることになる。
生きていて、ごめんなさい。
迷惑かけて、ごめんなさい。
そんな、言葉で語られるそれは。
兄にとって、自分があまりにも重すぎる負債であるという感覚だった。
一番最初は、ずっと不安だったことを彼女は覚えている。父が「新しい家族を迎え入れたい」と言ったときのこと。てっきり再婚でもするのかと思ったのに、そうではなかった。連れていかれたのは身寄りのない子どもたちを育てる施設で、彼は言った。
「この中から、お前のきょうだいを選ぶんだ。さあ、お前はどの子が好きだ?」
そんなことを言われても、もちろんわからなかった。
彼女にとって家族とは、顔も覚えていない母と、ずっと一緒にいる父の、たった二人だけだったから。新しい誰かが家の中にいるようになるだなんて、想像もつかなかった。
それに、選ぶだなんて。もちろんこれは、ペットを選ぶのなんかとは訳が違う。相手は子犬や子猫ではなくて、人間なのだ。対等な相手……。彼女は、怖かった。自分がすごく失礼なことをしているんじゃないかと思う気持ちが背中にずっしりと張り付いて離れなくて、誰の顔もまともには見られなくて、だから「トイレ」と言って逃げ出した。
手を洗って、トイレを出て、それからもぐずぐず、彼女はどうしよう、と迷っていた。何かがすごく、怖かった。選ぶことも怖ければ、誰も選ばないことも怖かった。
どうしてこんなところに連れてこられちゃったんだろう。
「大丈夫?」
そのときに声をかけてくれたのが、彼だった。
まだ、今よりずっと、背は低かった。輪郭も丸っこくて、声の感じでわからなかったら、きっと女の子だと思っていた。
大丈夫、と訊かれたから。
大丈夫じゃないことに気が付いて、彼女は泣きだした。
もちろん、彼は慌てた。背中を撫でたり、肩を擦ったり、小さく未熟な魔術を見せてくれたり、色んな方法で励まそうとしてくれた。けれど、それをされればされるほど、どういうわけか彼女は泣いてしまって……騒ぎを聞きつけた父たちが駆けつけても、ただずっと泣いたまま。泣き止むまでには、すごく長い時間がかかった。
その間、彼はずっと、彼女の傍を離れずにいてくれた。
だからそのまま、家族になった。
いつまでも一緒だった。嬉しいことがあったとき……たとえば彼が、魔術学校に次席で入学を果たしたときも。つらいことがあったとき……たとえば父が病に罹り、果てにその葬儀を挙げることになったときも。
ずっと彼は、傍にいて。
そして彼女が病に侵されてからも、傍にいてくれてしまった。
官吏を辞める、と彼は言い出した。あんなに優秀だったのに。いずれは出世を果たして、贅沢な暮らしができるはずだったのに。だから彼女は訊いた。
「もしかして、私のため?」
そして、こうも続けた。
「だったらいいよ。私のことは気にしないで……」
その日初めて、彼は怒った。
些細な、日常に起きるちょっとした感情の交換のためではない、本気の怒り。もっとも、彼自身その感情をぶつけるのに慣れていないからか、それは酷く不器用で、誰に対しても威圧できるような出来ではなくて、ただ行き場のない感情を抱えていることを示唆する程度のものでしかなかったけれど……。
それでも、彼女は思わないではいられなかった。
あの怒りに、自分は真っ向から向き合うべきだったのだと。
彼は冒険者になった。明日の命も知れないと言われていた職業。当然、彼女は心配した。彼がダンジョンに潜っているはずの時間には、ずっと祈っていた。どうか。どうか無事で帰ってきてくれますように。……自分に残されたほんの僅かな時間のために、彼の持つ、これからいくらでも広げることのできる命が危険に晒されている。そのことは、彼女の小さな心臓をいつも強く締め付けた。
結局彼は、大きな怪我をすることはなかった。
するより前に辞めることになったのだろうと、薄々彼女は、わかっていた。
ある時から、彼の表情に陰が憑りついた。笑い顔になる前に、少しだけぎこちなさが見えるようになった。一人でいるときの横顔に、夜の海のような昏さを感じることもあった。そして何より、身体から擦り傷が消えていく代わりに、少しずつ、こんな口癖が増えていった。
「もう、間に合わないよ」
彼は、夜の間、十五分ごとに目を覚ます。
彼女が発作を起こしていないか、確かめるためだ。
実際には、眠っている間に発作を起こすことはほとんどない。それがどういうわけなのかはわからないが、主治医が言うにはそうだった。『遅延病』は患者の意識があるときにだけ発生する。
そうとわかっていても、彼はずっと心配していたから。彼女にはそうと言わないまま、夜中に何度も目を覚ましていた。彼女はそれを偶然知ったけれど、しかし気付く前もずっとそうしていたのだろうと、わかってしまう。
もちろんそんなことを続けていたら身が持たない。だから彼は彼女が眠るよりも前の時間にひっそりと仮眠を取っているし、朝方、彼女が起きてから自分が家を出るまでの短い時間に、ぐっすりと深い眠りに入る。彼女はその時間、できる限り朝の準備を整えて、それから彼を起こす。いつか壊れてしまうのではないか、と恐れながら。
そして、彼がその口癖を使い始めたとき。
ああ、と彼女は思った。
壊れ始めてしまった。
『間に合わない』『もう遅い』――――その言葉を、意識的にであれ無意識にであれ、彼は使わずにいた。『遅延病』の症状のことを彷彿させる言葉だから避けていたのだろうと、彼女は思っている。父が発症してから一度も、彼がその類の言葉を使っている場面はなかったはずだと記憶している。
けれど、その意識に、罅が入った。
おそらく冒険者はもうしていない。そう、彼女は察した。何をしているのかはわからない。けれどこれだけの大金を稼ぐのだから、危険なことをしているのは間違いなかった。
やめて、と言うべきだったのだ。
もうやめてよ、もう、私のことなんて放っておいて、と。
そう、言うべきだったのだ。
でも、彼女は――それでも、死ぬのが怖かった。彼の人生を犠牲にさせているとわかっていながらも、それでも、言い出せなかった。
言えば、きっと彼はそれに反発する。
怒るだろう。そして、これ以上なく優しい言葉をかけて、抱きしめてくれるだろう。そして自分はそれに絆されて、また明日も迷惑をかけながら生きていく。生き汚い、情けない気持ちを、今までよりもずっと強くして。
だから、ひっそり死ぬことにした。
これ以上彼が壊れてしまう前に、自ら命を絶つことを決めた。
それなのに。
「…………」
ようやく、瞼が動くようになった。
目を開けると、真っ白な天井が見える。少しずつ、指先にまで意識が向き始める。
生き残ってしまった、と。
彼女は、思った。
ゆっくりと身体を起こしていく。果てしのない疲労感。けれど、それは初めに覚悟していたほどのものではない。
回復魔術のおかげで、病状が好転したから。
どんな状況でも、と彼女は思う。どんな状況でも、彼はどうにかしてしまう。自分が何度死を覚悟しても、そのたびに何かをどうにかして、それを先延ばしにしてしまう。想像もつかないような金額を稼いできて、貴族しか使わないような病院に連れて行って……そして今度に至っては、信じられないような――――貴族だってほんの一部しか恩恵を受けられないような聖女を引っ張ってくる、そんな奇跡まで、起こしてしまった。
細い指で、彼女は唇に触れる。
仕方のないことだろう、と思ってしまう。
どれだけ自分が重荷になっていることがわかっていても……彼の人生をダメにしていると知っていても。
それでも、傍にいてほしいと。
傍にいたいと。
そう思ってしまうのは――――。
「う、く――――」
無理矢理に、身体を起こす。一度は床に膝をついて、壁に縋りつくようにして、立ち上がる。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。回復魔術は効いている。いま自分が感じている苦しみは、単に遅れてやってきた残滓に過ぎない。気力さえあれば、無視できる。
二本の足で、彼女は立ち上がる。そして、服の下の提げたお守りを、右の手でぎゅうっと握り締める。父が死んだ後に、彼が作ってくれたお守り。一人で留守番していても危なくないようにと作ってくれた魔術具。魔力を込めれば自分の姿も音も消してくれる、この世にたった一つ限りの、特別な贈り物。
行かなければならない。
彼女はよろよろと歩き出す。
一度は諦めた命だけれど。それを彼が、繋いでくれたから。
だから自分は行かなくてはならない。命のある限り、やるべきことをやらなければならない。
彼の言う、役割なんて言葉はよくわからないけれど。
自分がしたいと思うことを、しなければならない。
「たす、けに…………」
足に力が上手く入らず、倒れ込む。
それでも彼女は、その進みを止めたりしない。動け。動きだせ。身体の力は、その後に遅れてついてくる。そのことがわかっているから、心だけでも先へと動かして。
大切な人の下へと、ティナは向かう。
彼らの話と行く先を聞いて、それが罠だと、見抜けたから。