5-2 僕達通じ合ってます
トイレに行ってから戻ってくると、ティナが眠る部屋にアンネリア=ヴァンハネンもやってきていた。さっきまで別の部屋で仮眠を取っていたはずの彼女は、セヴェリが座っていた椅子を奪い取り、そして彼が扉を開けるのを見るやすぐに話を始める。
「それじゃあ、これからの打ち合わせをするから。ちゃんと顔は洗ってきた?」
「いや」
「そう。寝ぼけてるなら今すぐ覚ましておいて」
心配しなくても、とセヴェリは壁に寄りかかって言う。
「眠気は全くないよ」
「そ。ま、あんたらみたいなのは夜行性って相場が決まってるものね」
「よく知ってるな。チンピラに造詣が深い」
カロージェロがそう口を挟めば、アンネリアは彼をじっと見る。合わせて彼は両手をおどけたように挙げて、
「なんだよ。もしかしてあの『黙ってろ』ってやつ、まだ有効か?」
「……正直、私はそっちの、」
くい、と顎でセヴェリを指して、
「男以外は、信頼してないわ」
「ガタイのいいやつはいつも怖がられる」
「そうじゃないわ。あんたは指輪をしてないから」
「プレゼントなら何でも貰うし、喜んで付ける。貰えるならな」
アンネリアは苦々しく眉根を寄せる。
そうだろうな、とセヴェリは指を見ながら考えた。『忠誠の指輪』。あんなに便利なものがいくらでもあるはずがない。おそらく、歴史に名を遺す水準の特殊魔術士が作った一点物だろう。たとえ公爵家と言ったって、流石にそんなにポンポン出せるものではないのだ。
「ハッキリさせておきたいんだけど。あんた、敵? 味方?」
「相手のことを縛り付けておかないと安心できないタイプか?」
「ええ」
「苦労するぞ。対等じゃない相手と一生やっていくのは、二人分の馬力が必要になる」
「ご心配どうも。死ね」
よく言うよ、とセヴェリが苦笑いでカロージェロを見れば、彼も悪戯っぽく笑い返してきた。
「俺からは『信じてくれ』としか言えないな。使い古された言葉には使い古されるだけの理由がある。それに、この部屋は俺が提供してるんだ。今さら疑ったって、もう遅いと思うけどな」
「…………ちょっと、そっちの」
アンネリアは、セヴェリに指先を向けて言う。
「正直に答えなさい。この男は信用できる?」
「今のところ、こいつより信頼できる人間を僕は知らない」
「そいつ、あんまり知り合いがいないんだ。俺が一番になっちまうくらい」
「おい」
しばらくの間、アンネリアは目を瞑った。
二人の男の言葉を、確かめるように。
「……わかった。受け入れる。受け入れてあげる。ただし、もしも裏切るような真似をしたら――」
「お前にはどうにもできないさ」
カロージェロは、アンネリアの言葉を遮るようにして、
「変な期待をするのはやめろ。仮に俺が裏切るようなシチュエーションが訪れたとして、そのときの俺はどう考えても生き残る算段を立て終えてる。俺が裏切った場合、お前はもう俺に何の損害も与えられない。お前が死んで、俺が生きる構成が出来上がってるからだ。裏切りを防ぐために損得で脅しをかけようったって、無意味なんだよ」
だから、と鋭い目つきで彼は、
「お前に許されてるのは、祈ることだけだ。偶然と形勢の変化が、俺の裏切りを誘わないことを……そしてその場合でも、俺がセヴェリと、その妹に対する情で踏みとどまることを」
「祈りは嫌いよ。無意味だから」
「悲観主義か」
「現実主義よ」
わかった、ともう一度アンネリアは言う。
「あんたの成り行きは、その成り行きに任せる。ただ一応情に訴えかけておくと、あんたが裏切った場合、そっちの男と妹は絶対に殺すわ。何があっても、絶対に」
「だってよ」
「よろしく頼むよ」
しかし、セヴェリはカロージェロに強要することはできない。
命の懸かった事態なのだ。彼がどうにか自分だけでも逃げ出す道を得られたというのなら、それをこちらが邪魔する権利はないように思える。
もちろん、ティナのことは大事だし、アンネリアの言うようなシチュエーションが訪れれば、あらゆる犠牲を払ってでもその命を守るつもりではあるけれど……しかしそれは、兄である自分だけが抱えたタスクなのだ。
「そして、あんたにも確認」
もう無意味かもしれないけど、と彼女はセヴェリの嵌める『忠誠の指輪』を見ながら言う。
「あんたの妹の治療はまだ途中。というか、この手の病気はそもそも一回や二回くらいじゃ私にも治せない。体質と深く結びついてる話だから、せめて百日はないとどうにもならない」
「裏切ったらティナの病気は治さないって言うんだろ」
「それだけじゃないわ。私が死んだ場合でも、治療はできなくなる。つまりあんたは、妹の命が自分の命より大切だって言うなら、自分の命より私の命を優先する必要がある。おわかり?」
「よくわかった」
セヴェリは『忠誠の指輪』を見せ付けるように顔の前に出して、
「困ったときは命令してくれ。たぶん何でも聞くだろうから」
「よろしい」
そこでようやく、アンネリアは笑顔を見せた。
もっともそれは、花の咲くようないかにも令嬢然としたものとは遠く、どちらかと言えばセヴェリが以前に賭場で何度か見たような、博打うちのそれに近かった。ほとんど絶望的な状態に置かれながら小さな勝ちを拾った……そんな、擦り切れた笑み。
「それじゃあ、お互いの関係もよくわかったところで」
カロージェロが、そうして話を進行する。
「その殺す気満々の聖女様は、このあと一体どうするつもりなんだ?」
「当面は、味方を増やすつもり」
おいおい、とカロージェロは肩を竦めてセヴェリを見る。
「俺達だけじゃ不満だとよ」
「そのいかにも『僕達通じ合ってます』って感じで私を置いて会話するのやめてくれる? 不愉快だし、見てて気持ち悪いわ」
「そりゃ失礼」
「それで、味方の心当たりが?」
どうもカロージェロとアンネリアは相性が悪いらしい。
ようやくそう感じ取ったから、セヴェリは積極的に口を挟むことにした。
「ヴァンハネン公爵は王弟だったから……やっぱり、直接王宮に?」
「ダメよ」
「どうして?」
「誰が味方になってくれるか、わからないからよ」
セヴェリは眉を顰める。
その言葉の意味が隠れているとしたら、こんな記憶の中。かつてヴァンハネン公は、兄と王位を競い合ったことがある、と。
「派閥か?」
「そう。……そして最近、昔にあったそれがもっと揺らいでる。目まぐるしく事態は動いて……最近じゃ、お父様だって誰を信頼していいかわからなかったみたい」
「だからか」
カロージェロが呟く。言わんとするところは、セヴェリにもわかった。だから、その言葉を補足するように引き継いで、
「だから公爵も、僕達が扱ってたような快楽剤に手を出そうとしたのか。不安を消すために」
「……正直に言って、今でも私はそれを信じられないけどね」
アンネリアは表情を曇らせて、
「厳格な人だった。絵に描いたような貴族、って言ったらいいのかな。それに、その厳しさが骨身にまで染み込んでるような人。椅子の背凭れに寄りかかるよりも背中を真っ直ぐ伸ばすことをどんな場面でも選ぶ……そしてそれが、むしろ自然な状態になっているような人だったから」
「だけど、俺達は嘘を吐いちゃいねえぜ」
カロージェロが、今度はアンネリアの顔を見つめたまま言う。
「俺達の目の前で、公爵は女に言われるがままに薬をヤった。確実に、この目で見た」
「……そうね。『忠誠の指輪』を嵌めた人間まで同じことを言うんだったら、それは真実として受け止めなくちゃいけない。認めるわ。お父様にはきっと、私の知らない側面があった。そういうことよね」
彼女の拳は、膝の上に置かれている。
その拳の骨が浮き出て、肌が白く変わっているのを、セヴェリは見た。
「脱線させてごめん。それで、元の話……味方の心当たりについてなんだけど」
そうセヴェリが言うのをきっかけに、「そうね」とアンネリアは拳に込めていた力をゆるゆると解いて、
「一人だけいるわ。お父様は私の他に子どもはいないけれど……友人として、信頼していた人はいる。学生時代からの親友で、地盤が緩んだ今になっても、未だにずっと付き合いが続いている相手が」
「それは?」
「宰相ノルチョム」
大物だ、とセヴェリは思う。
伯爵宰相。王政の補佐官。
「親しかったのか? 知らなかった」
「まあ、そうでしょうね。宰相をやってるだけあって、ノルチョム様は周りからは王派……王派なんて言い方があるのかは知らないけど、少なくともお父様のかつての基盤になっていた派閥とは違うところに属しているって考えられてるみたいだし」
アンネリアは言う。そのあたりのところは、ヴァンハネン公が自ら王位継承の揉め事から手を引いたおかげだと。それがあったから、派閥の対立が深刻化することなく、またノルチョムの家も最終的な態度を明確にする前に事態が収拾された。
そのおかげで、未だに宮廷内には、かつて存在していた派閥が明らかにならないまま、人事が行われているということを。
「白黒はっきりしねえな」
あまり愉快ではなさそうに、カロージェロが言う。それにはアンネリアも頷いた。
「でも、そのおかげでこっちにも権力を握っていて、かつ頼れる人がいる」
「本当にか?」
カロージェロが、重ねて訊く。
「本当に、そいつは頼っていい人間か?」
セヴェリも同じ気持ちだった。
ただでさえヴァンハネン公は暗殺されているのだ。そしてその首謀者が誰なのかはわかっていない。であるなら、最大限の警戒はしたいように思う。
けれど、アンネリアは自信たっぷりに答えた。
「ええ」
そして彼女は、ドレスの袖から、するすると一枚の紙を引き出した。
もちろん、男二人はぎょっとして。
「なんだそりゃ」
「手品師か? 君……」
「何かあったときのために、っていつも持たされてるのよ」
セヴェリはその紙を覗きこむ。上等な紙質……いや、違う。これは。
「魔術具か?」
「そのとおりよ。高位貴族がその発言の真正を証明するために使う、公的文書用の魔術具」
噂には聞いたことがあった。
が、現物を見るのは初めてで。
そしてそこには、こんな文字が書いてある。
『公爵代理権書』
「お父様の死後一年、私が公爵代理として家を取り回せるようにするためのものよ」
「……へえ、初めて見た。随分短い文章なんだな」
「短さは権利の大きさに比例するわ」
確かにそうだ、とセヴェリは思う。細かな取り決めと言うのは、大抵の場合その権利、あるいは義務を狭めるために存在するものだ。ということはこの、一目見ただけで内容が覚えられてしまうくらいに短い文言しか載っていないそれは、目の前の令嬢に非常に大きな権利を与えたことになる。
「ところで、それとノルチョム宰相と何の関係が?」
「これを渡されるときに言われたのよ。『何かあったらノルチョムを頼りなさい』って、お父様から」
「それだけか?」
訝しむようにカロージェロが言うが、しかしアンネリアは取り合わない。
「お父様を信じるのは、少なくともあんたを信じるよりもずっと簡単なことだわ。……それに、本当の黒幕はもう目星がついてるの」
「え」
驚いて、セヴェリは目を丸くした。
「なんだよ。それがわかってるなら――」
「でも、おいそれとは手を出せない」
「貴族か?」
「当たり前でしょ。――――侯爵、クリフォード=エリオール。今、宮廷で一番野心があるのはあの男よ」
忌々し気に、アンネリアは言う。
「国境帯の大領主。父親を追い落として最近当主になったとかで……。お父様もこいつの動きには目を光らせてた」
「見たぞ、そいつ」
今度は、驚くのはアンネリアの番。セヴェリがそのまま続ける。
「公爵が暗殺された直後に、家を訪ねてきてた」
「……そう。それじゃ決まりってわけね」
彼女は、決意を込めて言う。
「私達が生き延びるためには、エリオール侯爵を陥れる必要がある。そしてあの大貴族を落とすためには、ノルチョム様……お父様とともに奴を危険視していたあの方の力を借りる必要がある。おわかり?」
セヴェリは頷く。不安はあるが、しかしこの状況でそれの存在しない道などないこともよくわかっていた。
カロージェロも、同じ気持ちだろうか。静かに頷いて応えた。
「明け方の少し前に動くわ。それまでに準備をしておいて」
そう言いながら、彼女は立ち上がって、
「あ、それと、」
と、セヴェリの目の前で、立ち止まって、言った。
「私も養子よ」
言われた言葉の意味が初めは呑み込めず、
「聞いてたのか?」
「聞こえてたの。……私も養子。当たり前だけどね。公爵家にそんなに都合よく回復魔術士なんて生まれるわけがないんだから」
そして、と彼女は彼の胸を指で突いて、
「私も同感だわ。人には役割が――宿命がある。そしてあんたと同じで、私もこの役割を好ましく、誇りに思ってる」
彼女は、続けて何かを言おうとした。
「……それだけよ」
けれど、それを呑み込んで、部屋を出ていく。
しばらくその背中の消えていった先をセヴェリが見つめていれば、カロージェロがあくびとともにこう言った。
「一緒に頑張りましょう、ってさ」