4-5 契約
聖女。
もちろんその言葉の意味を、セヴェリはよく知っていた。
各国、各時代に一人ずつ――――たった一人ずつしかいない、回復魔術の使い手。『特殊一級』と認定される魔術士の中でも最も希少価値が高い存在。
国家の、一種の要。
「……本気で言ってるのか」
「信じられない?」
「かなり」
「そう。それじゃあ信じる気も全く起きないってわけ」
「待て!」
令嬢――アンネリア=ヴァンハネンの衣擦れの音を聞いてセヴェリは大きく制止のための声を上げる。ただの脅しだとはわかっているが、その脅しに効果があることをしっかりアピールしておかないと、それはどんどんエスカレートしてしまう。
「落ち着いてくれ。……何か、証拠になるものはないのか?」
「そっちの男の雷魔術から、あんたらが想像もつかないような速度で回復した。……それで足りなきゃ、この子の首に傷を入れて治すっていうのはどう?」
「やめろ。今は交渉の時間だろ」
「脅迫の時間に変えたって構わないわ」
数秒の沈黙。
折れたのは、セヴェリの側。
「……わかった。その前提は受け入れるよ。当代の聖女はヴァンハネン公爵家にいた。それでいいんだろ?」
セヴェリは、聖女という称号を知っている。回復魔術の希少性も知っている。
にもかかわらず、聖女が誰であるのかについて、何も知らずにいた。
もちろんそれは、彼が不勉強であるためではない。むしろ、魔術学園での講義をしっかり修めていれば、自分がそれを知らないことについて論理的に説明できるようになる。
秘匿されているのだ。
回復魔術士はいる。そのことまでは公表される。しかし、それが誰であるかまでは情報を流さないようになっている。危険だからだ。
国に一人。国家の柱。これは政治的な問題だけでなく、宗教的な部分も――すでにある程度はただの名残になってしまってはいるが――絡んでいる。
利用価値が高すぎるのだ。
それを奪われる……あるいは殺されるという危険可能性を考慮した結果が、『存在しているが、それが誰であるかは一般市民には知られていない』という状況だった。
それで、とセヴェリは訊いた。
「その聖女様が、どうして濡れ衣なんか? 真犯人まで君のことを知らなかったってわけじゃないんだろ。聞いてる限りだと」
「むしろ逆ね。私のことを知りすぎてる。……これは、聖女の座を賭けた争いなのよ。あんたらの視点からは見えなかったでしょうけどね」
頭の中で、情報を整理する。
聖女の座を賭けた争い。それはどういうことか。
わからないでもない。聖女が誰であるかは秘匿される……それは一般市民を相手にした話だからだ。セヴェリ自身はそこまで政治中枢に食い込むこともないまま官吏を辞したために詳細は知らないが、高位貴族たちは聖女が誰であるかを知っていると言うし、その聖女を一家に擁していることが政治ゲームにおける一つのファクターとなることは想像に難くない。
「君を陥れて、聖女に成り替わろうとしている人間がいる、と」
「そう言ってるわ」
「それって不可能じゃないか?」
彼女の言葉を、しかし別の思考パーツが否定する。
聖女は、各時代に一人なのだ。つまり、一国における回復魔術士が死去したのちになって次の回復魔術士が生まれてくる――そう、伝えられている。
だとするなら。
「君が聖女の座を退いたとしたって……代わりになる聖女が確実に用意できるわけじゃない」
「できるわ。聖女は二人いる」
「は?」
「正確に言うなら、回復魔術士は二人いる、ってところね」
「待てよ、それじゃ――」
「ええ。国は嘘を吐いてるわ」
平然と、彼女は言った。
セヴェリにとっては、教科書の内容をひっくり返されるようなことを。
「いい? 国に一人しか回復魔術士がいなかったなんていうのはね、もう遠い昔の話よ。これは単なるレアな形質の話。昔と今じゃ比べ物にならない人口が国にいるんだから、回復魔術士の数が一人から二人に増えたって全然変な話なんかじゃない。おわかり?」
「いや、でも、それだっておかしいだろ」
「何が?」
「回復魔術士は他の国にも一人ずつしかいない。これだけ長い歴史の中でそんな偶然が、」
そこまで言いかけて、気が付いた。
偶然じゃ、なかったのか。
「殺してたのよ」
そう、彼女も答えた。
「二人以上の回復魔術士が同時に存在したときは、一人を除いては『悪魔』として処理された。……それか、見えないところに幽閉されてたとかね」
「何のために、そんな」
「権威付けでしょ。それから、周辺国家との権力バランス。……もっとも、普通の判断力があれば、もう誰かが聖女の称号を得てるっていうのにわざわざ回復魔術士です、なんて名乗らないと思うけどね。教会公認で『聖女は一国一人』って言ってるんだから、そんなの国に楯突いてるようなものだってわかるでしょ」
「君を狙ったやつらは、そこのところは?」
「悪用するつもりらしいわ」
ようやくセヴェリにも、話が見えてきた。
「君を悪魔として処刑して、自陣営の回復魔術士を聖女の座に就けるつもりなのか」
「そういうこと。わざわざ回復魔術を使わないとできないような殺し方までしてくれちゃってね。あれは何? 何があったわけ?」
「薬を飲ませたんだ」
「どんな薬?」
「知らない。僕達だって巻き込まれただけなんだ」
「実行犯は別なの?」
「窓辺に倒れてた女。公爵と同じ薬を吸って死んだ。……確かに、脱法薬物なら僕達も扱ってるよ。でも、あんな効果がある毒じゃない。嘘だと思うなら、後部座席に僕達が今日運ぶはずだった残りがある。調べてくれてもいい。単なる快楽剤だ」
「顕微鏡も貸してもらえる?」
「経費に計上してもらえるなら、今から専門店に寄って買ってきてもいい」
「…………わかったわ、私もそれは受け入れてあげる」
助かるよ、と言って、それからセヴェリは重ねて訊ねた。
「でも、そんなに向こうの計画は上手く行くのかな」
「どういうこと?」
「死因が回復魔術士のそれだったっていうのは……理屈は分からないけど、」
「回復魔術の基本は生命力の活性よ。だから、度を超した強度で魔術をかければ、ああいう風に身体が破裂するわけ」
「君も子どもの頃に?」
「おかげでその反対――生命力の強制減衰も覚える羽目になったわ。……薬のことは私にもよくわからない。そういう作用の薬をわざわざ製造したのか……もしくは、もう一人の回復魔術士が魔術具として薬を作ったかね」
「できるのか、そんなこと」
「服用量にもよるけど、できないことはない……と思うわ」
なるほど、とセヴェリは頷いて、
「でも、君は第一容疑者にはならないだろ」
「どうしてそう思う?」
「犠牲者が君の保護者だからだ。これがヴァンハネン公爵家と敵対している勢力だったっていうなら話は別だけど、君が殺す理由はない。むしろ、君になり替わろうとしているっていうもう一人の回復魔術士に疑いの目は――いや、そうか」
わかったみたいね、と馬鹿にしたような口調で、アンネリアは言う。
「もう一人いるはずの回復魔術士は――――まだ、正式にはその存在を認められていない。つまり、そもそも捜査対象にすらならないってことよ。私が『悪魔』として裁判で認定されるまではね」
「それで、最初の話に戻ってくるってわけか」
「そうね。嬉しいわ。長い道のりだったから。……ゆっくり、両手を挙げたまま後ろを向きなさい」
言われた通り、セヴェリは身体を捻る。アンネリアは、先ほどとほとんど変わらない姿勢のまま、後部座席に座っていた。
「私は絶体絶命の状況にある。だから、一人でも味方が要るわ。それがたとえあんたたちみたいなチンピラだったとしても……」
彼女は服の下、胸元にしまいこんでいた紐を、ナイフを握ったまま、ぎこちなく抜き出した。
指輪に鎖を通した、簡易なネックレス。
それを手こずりながら分解して、見せ付けるように指の間に挟んで、それから言った。
「これは『忠誠の指輪』」
「魔術具か」
「そのとおりよ。効果はその名の通り。この指輪を嵌められた人間は、内側に彫られた名前の人物に、一年間の忠誠を誓うことになる。……つまり、従属することになるってわけ。合意の上で嵌めないといけないって縛りはあるけどね」
彼女が指輪を傾けて、その内側に彫られた名前を示す。
アンネリア=ヴァンハネン。そう、そこには書かれている。
「嵌めろって?」
「嫌かしら」
「……君の言うことはよくわかったけど」
ゆるく、セヴェリは首を振って、
「ただ協力するだけじゃダメなのか?」
「まだわかってないのね。あんたたちは、まだ私よりマシな状況にあるってことが」
「……そうか。証人か」
そのとおり、とまた彼女は頷いた。
「あんたたちは、そもそも完全に始末されるような役割じゃなかったのよ」
自分たちがあの場に居合わせた理由。セヴェリは今になって、それに当てはまるだけの一つの仮説を思いついた。
このアンネリア=ヴァンハネンを完全に陥れるためだったのだ。
ただ暗殺を実行するだけだったら、あの眼鏡の女さえいればよかった。そして公爵暗殺の罪はアンネリアに着せるはずだった。
そうなると、自分たちの役割は、たとえばこんなもの。
「裁判に立たせて、君に不利な証言をさせるつもりだった……」
おそらく、そういう流れができるように仕向けるはずだったのだろう。
セヴェリとカロージェロは仲良く肩を並べて立って、そして口を揃えて言う。
僕達は関係ありません。あいつが全部やりました。
だが、それならば、むしろ。
「僕達には、協力する理由すらもなくなる……」
騎士団に、ただ彼女を連れて出頭するだけでいいのだから。
……もちろん、本当はそんなわけはないけれど。
もしこの想像が本当だったとして、カロージェロや自分に計画の概要を説明しない理由がない。
何かしらの不都合は、絶対に発生するはずなのだ。
たとえば……そう聖女に関する情報をここまで得て、さらにはその資格の有無を争う重要な裁判で偽証を行って、そんな存在をいつまでも生かしておくような心優しい人間が公爵の暗殺なんてことをするわけがない、だとか。
自分たちが特別、好転した状況にあるとは思わない。
けれどこんな風に言えば、ひょっとしたら、と思うからセヴェリはわざわざそんなことを口にして。
すると、彼女は。
「そこで、この子ってわけ」
ティナの首を、さらに強く抱いて。
「……脅迫の時間か」
「いいえ。まだ交渉の時間。……この子、病気なんでしょう」
決定的なことを、言った。
「治してあげるわ。――――あんたが、その指輪を嵌めるって言うならね」
まるで、とセヴェリは思った。
まるで、悪魔との契約だ。
代償を支払って、対価を受け取る。対価が大きければ大きいほど、その代償は取り返しのつかないことのように思える。
けれど。
彼は。
「選びなさい――――忠誠か、妹の死か、そのどちらかを!」
もう今さら、後戻りする道なんて残されていないから。
その役目を請け負うために、今まで育ってきたから。
アンネリア=ヴァンハネン。聖女である彼女の目に、はっきりと映るように。
『忠誠の指輪』を――――嵌めた。