4-4 アドバンテージ
「な、」
「動くな」
短い言葉。
そのたったの一言で、確かにセヴェリは動けなくなる。
令嬢の瞳を見ればわかる。起きたばかりなどではない。朦朧の欠片も見当たらない。完全に覚醒し切った表情。そして彼女の手にはナイフが握られていて、ティナの首筋に突きつけられている。
自分が動くより、向こうがそのナイフで押し貫く方が早い。
「待て。そのまま――」
「命令もするな」
言葉に飾りがなければないほど、事態の逼迫具合ははっきりとわかってくる。
その要求に、セヴェリは何も言えなくなる。カロージェロが事態に気付いて後ろを振り向こうとするが、しかし令嬢は、それすらも言葉で制する。
「竜はそのまま走らせて。減速する素振りを見せたら、そのときもこの子を殺す」
頼む、とセヴェリは目配せをする。小さくカロージェロは頷いた。
まだ状況は、詰み切ってはいないはずだ。セヴェリはそう思う。
なぜなら、人質を取るのは、交渉を進めるための準備であるからだ。向こうは自分たちに何かしらの要求をしたがっている。その交渉材料に使うためにティナを人質にとっている。何もこちらに求めるものがないのなら、初めから、こちらに気付かれていない間に後ろから首を掻き切ればいいだけの話だ。
「要求は?」
だから、セヴェリも単刀直入に、そう訊いた。
「味方が要るわ」
「味方?」
「そう。私がこの状況から抜け出すために、味方が要る」
どういう意味だ。セヴェリは眉根を寄せて、さらに訊く。
「今のこの状況から抜け出したいだけだっていうなら、それは構わない。すぐに竜を停めて――」
「そんな小さな話はしてないわ。捨て駒にされたチンピラにはわからないかもしれないけどね」
「じゃあ、もっと大きな話っていうのは?」
「――――私は今、追われてる」
ますますわからない。
何の話をされているんだ。そんな困惑ばかりが頭の中に広がっている。
いや、待て……。まださっきの無理な魔術行使の余韻が残っているだけだ。何か引っかかる部分がある。おそらく万全の状態なら、今の言葉だけでも話の意図が汲み取れるはずだ。
しかし、セヴェリがそれを引き出す前に、カロージェロが先に応えた。
「敵対勢力か」
その言葉を切っ掛けに、ようやく頭が動き出した。
そうか、と一気に話が頭の中で組み立てられる。敵対勢力。そういうことか。
公爵は暗殺された。彼を暗殺しようとする組織があったからだ。それは少なくとも自分たちの扱っている薬物の流通元の組織であったし、その後のこの検問展開の速度を見ると、騎士団を動かせる立場――つまり、貴族まで関わっている可能性が高い。
公爵は暗殺された。
だからその娘である彼女も、自らの命が脅かされるのではないかと思っている。
つまりはそれが、この話の前提ということだろう。
「それで? 僕達に何をさせたい? 騎士団にいる君の友達のところまで付き添いでも?」
「私は今ごろ、指名手配されてるわ」
「は――?」
「嘘だと思うなら、そのへんの不良騎士にでも金を握らせて訊いてみなさい。『誰を探してるんだ』って。そうしたらこう答えてくれるはずよ。『チンピラ二人と、親殺しの罰当たりの女一人だ』って」
「待てよ。どういうことだ」
「それ以上近付かないで」
思わず身を乗り出しかけたセヴェリを牽制して、令嬢のナイフが銀に煌めく。
「そのまま、前に向き直って。それから、両手も挙げて」
「……わかった」
要求には、今のところ従うしかない。セヴェリは女から目線を切って、前向きに座り直す。両手は小さく挙げる。
女の言うことの意味を考えた。指名手配? 自分たちならともかく、この令嬢が?
「濡れ衣を着せられたっていうことか?」
「その通りよ」
「俺達と同じだな」
「そっちの男は黙りなさい」
カロージェロが肩を竦める。そして、口を噤む。
「どうして君はそう思う?」
「死に方よ」
「死に方、って……」
セヴェリは思い出す。
確かに、公爵と、公爵殺しの眼鏡の女の死に方には共通する特徴があった。全身から噴き出す血液。それから隆起した肉体。
「あの薬に、心当たりが?」
「薬にはないわ」
「じゃあ何に?」
「だから、死に方そのもの」
「……悪いけど、僕は君より頭の巡りが悪いらしい」
「王立中央病院に、こんなカルテがあるわ」
竜が狭い路地へと入っていく。一瞬、辺りが壁に囲まれて暗くなったから、フロントガラスに反射して後ろにいる二人の姿が確認できた。さっきまでと変わらない姿勢。
「小さな女の子の記録よ。過剰魔力症による魔術事故」
よくある話だ、とセヴェリは心の中で考えている。
魔力のコントロールが未熟な時期に、法則も何もない魔術が暴発する。そんな事故。しかしそれだけに、引っかかるところもある。
そんなのは、多少魔術に適性がある子どもならば誰もが経験するものなのだ。魔術学校で知り合った人間の九割が経験している。もちろん自分もそうだし、隣にいるカロージェロだってきっとそうだろう。
取るに足らないものなのだ。どうせ、道で転んで擦りむいたくらいの怪我にしかならないのだから。
それがどうして、王立中央病院なんて、貴族でもそうそう訪ねないような最先端医療の場にカルテを残す?
「そしてこんなことが書いてあるわ。全身から多量の出血。肉体の異常な肥大」
「それって、」
「自然回復後、二日程度で退院、ってね」
しばらくの沈黙。
もう認めるしかなかった。自分たちと彼女とでは、情報のアドバンテージが違いすぎるということを。
「……どういうことだ。公爵はまだ生きてるってことか?」
「いいえ。間違いなくお父様は死んだ。問題は、その殺し方をできる人間の記録が国に握られてしまっていること。……この国でたった一人しかできないはずのその殺害方法が、知られてしまっているということ」
「君は……」
だから、セヴェリは。
真正面から、彼女に訊ねることにした。
「君は、何者なんだ?」
すると彼女は、凛とした声で、こんな風に答える。
「アンネリア=ヴァンハネン。公爵令嬢で、この国でたった一人の回復魔術の使い手――――『聖女』よ」