3-2 効率の良い仕事
震える手を、もう片方の手でセヴェリは押さえ込んだ。
大丈夫。そう、自分に言い聞かせる。もう一年近くが経った。この仕事の初回にカロージェロにイップスのことは告げてはあるものの、実際の業務の中でそれが発生したことは、今までに一度だってない。
大丈夫。
自分は、大丈夫だ。
バン、とその背中を、カロージェロが勢いよく叩いた。
「いっ……!」
「だから、気楽にいこうぜ。なるようになるだけさ。何だってな」
他人事すぎやしないか、と思わず呆れるが、しかしそれはそれとして、彼のそうしたフラットさには救われるところもある。この仕事始めてからずっとだ。カロージェロの、余計なことは考えないとばかりの割り切りには何度も助けられてきた。
気楽にいく、のは流石に無理にしても。
下を向いていて事態が好転することは、とりあえずのところ、なさそうだから。
「……よし。それじゃあ、とりあえずは公爵家から脱出しよう。魔術を強めにかけとく」
「どのくらいだ?」
「騎士が鼻先でくしゃみされても気付かないくらい」
ぴゅう、とカロージェロが口笛を吹く。
「ひょっとして、お前今まで力の底を隠してたな?」
「効率の良い仕事をしてた、って言ってくれ」
セヴェリの瞳が水色に染まり切る。それで、世界から切り離された二人になる。誰にも見つからない、透明な二人が出来上がる。
カロージェロは令嬢を背負ったまま。だから、セヴェリが先に歩くことになる。
扉から顔を出して、左右を確認する。騎士の一人の姿も見当たらなかった。いくら状況が状況とはいえ、あまりにも不用心すぎやしないかと言いたくもなるが、しかしこの場合はかえって好都合。早速廊下に出ていく。
まずは正門から、とセヴェリは思っていた。そこから出られるかどうかを、確かめてみよう。
わざわざそんなに目立つ場所へと向かう理由は、ちゃんとある。この姿消しの魔術を使っているときは、むしろ裏口のような狭い場所を目指すよりも、やや人通りのある場所へと向かった方が良いのだ。
というのも、この魔術の弱点は人に接触すると勘付かれてしまう、というところ。それから、壁や門、扉のような非生物に対しては、何らの効果も持たないというところ。
つまり、裏口に通じるような細い道へと進む方が、運悪く追い詰められてしまったり、自分の手で扉を開ける必要が出てきたりと、リスクが高まる可能性が高いのだ。
その点正門であれば、道は多少なり広く、流石に頻繁ではないにしろ人の出入りはあるはず。そのどさくさに紛れて脱出できるかもしれない。そう思って、セヴェリはカロージェロを先導する形で進んでいった。
けれど、二階の窓から覗いた時点で、この方針はどうも上手くいかなそうだ、ということがわかってしまった。
「なんだ、ありゃ」
カロージェロが言う。
セヴェリも初めは同じ感想で、しかしやがて、自分たちが目にしているものが何なのかを察してしまう。
「嘘だろ、来客だ……」
「はあ?」
つう、と一滴、セヴェリの頬を汗が伝っていった。
ありえない。
「冗談だろ?」
「冗談なんかじゃない。あの正門の前に停まっている馬車が掲げてる旗、あるだろ」
「あるな」
「エリオール侯爵家の家紋だ」
何度目を凝らしても、そうとしか見えない。
正門付近に、やたらに人が集まっている。それはどう見ても、エリオール侯爵の訪問に使用人たちが対応しているのが原因だった。
「なんだよ、それじゃこういうことか?」
呆れたように、カロージェロが言う。
「あの公爵のおっさんは、わざわざ薬をやるために俺たちを呼びつけて、それで盛大にトリップしたままそっちの……エリオールだとかいう貴族と面会するつもりだったって? 冗談だろ。酒飲んでから仕事の面接に行くのとは訳が違えぞ」
「でも、実際来てるじゃないか」
「つーことはなんだ、つまり……」
「急な訪問だったとしたら……」
二人のすぐ傍を、使用人が慌ただしく通り過ぎていく。
エリオール侯爵の訪問にどう対応すべきか、主人の意向を訊ねるために。
どちらからともなく、セヴェリとカロージェロは、急いで一階へと降りていった。
「正門に紛れるか?」
「いや……ダメだ。この状況だと、中でパニックが起こる方が先になる。少なくとも中がバタついてる間は、エリオール侯爵を招き入れるために門が開かれることはない」
「となると……」
「裏口からだ」
「場所は?」
「これから探す!」
一階では、使用人たちが右往左往を繰り返している。
流石に公爵邸ともなれば、エントランスホールの広さは並大抵のものではない。ただ普通に歩いているだけでは、どうやっても誰かとぶつかることはない。見破られることもない。
問題は、ホールには出入り口など存在しないということだ。
「奥に回る」
先導するのは、やはりセヴェリ。
「その令嬢の分、自分の面積が増えてることを忘れないでくれよ」
「オーライ。任せておきな」
使用人用の勝手口があるはずだ。
だからまずはセヴェリも、そこを目指している。貴族の私邸に潜入したことなど当然あるはずもないからほとんどあてずっぽうで、使用人たちがやって来る方向の逆を目指して早足で歩いていく。
長い廊下。少しだけ扉の開いた広間。ひょっとするとこの扉の向こうに出口があるのではないか……そんな誘惑に駆られながら、しかし扉の開閉のような動作はこちらの存在を報せることにも直結してしまう。すでに通りすぎた場所のどこかにあった出口を見逃してしまったのではないか……そんな恐怖と戦いながら、それでも辿り着いた。
「あれだ」
出口。
しかし、すぐにはその扉に手をかけられない理由がある。
扉の前に、騎士が二人、立っていたのだ。
フルフェイスのメイルを着込んだ門番が、二人。
「……なんか、おかしくねえか」
カロージェロの言うことに、セヴェリも頷く。わざわざ使用人用の勝手口に、二人も騎士を置くことがあるだろうか。
しかし、考え込むだけの時間はない。公爵家の私邸だと思えば、自分たちの感覚から外れた配備だって、そうと飲み込むしかない。
「どうする?」
「お前の魔術じゃ無理か?」
「無理だ。あの扉の前に二人立たれたら、僕はともかくお前はどうやってもどちらかとは接触する。それに、扉を開けたらバレるよ」
「竜にいつもかけてるあの魔術をかけても?」
「竜と違って扉は魔力伝導性が低すぎる。さっきだって見ただろ。姿消しと音消しを使ってたのにそいつが入ってきた。単なる無機物を対象に取った場合、効果中でも相手に注意を向けられると隠し切れないんだ」
セヴェリの幻惑の魔術も、もちろん完璧ではない。
人間……つまり生物が相手であれば、かなりの部分を瞬時にかけることができる。接触されない限りはまずわからない。
一方で、非生物が相手となればもう少し不便になる。生物と比べると魔力の通りが悪いのだ。魔術具でない限り、生物を相手取るように簡単には行かない。咄嗟では注意を向けにくくする程度、一晩かけてようやく見た目を別物に変えるくらいが限界だ。
「扉の模様替えくらいならできるけど。こっちなら触られてもバレない」
「内装屋に転職しな。となると俺の出番ってわけだ」
言ってカロージェロは、抱えた令嬢をセヴェリに預け渡してくる。そしてリクエスト。
「あいつらと同じ恰好に、俺を見せることは?」
「そっちは模様だけじゃなくて形まで変えるから、触られたらバレるぞ。あと、声は無理だ。屋敷の騎士の声は聞いたことがない。知らないものは……」
「何、構いやしねえよ。俺が歩いたら、後ろから透明なままついてこい」
どうするつもりだ、と訝しく思いながらも、セヴェリはカロージェロに魔術をかける。公爵家の護衛騎士に見えるような、上等な鎧姿に見えるよう、幻惑の魔術を。
もちろん、考えないでもなかった。今こうしているように、使用人や騎士の姿に化けることで、ほとぼりが冷めるまで隠れ続けるという手法は。灯台下暗し。その心理を利用して、現場にそのまま堂々と居座るというアイディアは、確かにセヴェリの頭の中にもあった。
思いついておきながら、それをしなかった理由は二つ。
一つはもちろん、不注意による身体接触が起こる可能性への懸念。
もう一つは。
「――――おっと、」
いきなり突き出されてきた槍を、カロージェロは身を捻じって簡単に躱した。鎧の幻覚が効いているのだろう。騎士の槍の狙いはやや大雑把で、甘い。二対の槍が次々に繰り出されてくるのを、ひょいひょいとカロージェロは下がりながら避けていく。おかげで彼の後ろで令嬢を抱えているセヴェリも、慌てて後退する羽目になる。
騎士の一人が、大きく息を吸った。
その瞬間、カロージェロはバックステップを踏んだ足を思い切り蹴り跳ねて、前に飛び出した。
二人の騎士の懐に入る。胸当てに両の掌で触れる。その瞬間、本来の彼の姿が現れて――――
「助けを呼ぶのはナシだ。悪いな」
バチ、と閃光。
騎士らの鎧に黒く煤が走る。ゆらりと彼らの頭が傾いて、床に膝をつく。倒れ込む。
こうなると思った、とセヴェリは呆れている。公爵家の護衛なんてエリートは当然、職場の同僚の顔や鎧、背格好と立ち振る舞いくらいは覚えているものだ。いくらなんでも、自分の魔術とカロージェロの演技程度では、誤魔化し切れるはずがない。
そして同時に、こうなるとは思わなかった、とも呆れていた。
「お前さ、」
「ん?」
「力の底を隠してたな?」
そう訊けば、たった今そのエリート騎士の二人を瞬く間に、声すら上げさせないまま倒した男は、こう言って答えた。
「効率の良い仕事をしてた、って言ってくれ」