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1-1 嘘を吐いている





 この世には一つだけ確かなことがあると、彼は思っている。


 起こるべきことは、いつか必ず起こる。


 そしてそれはときどき――気付いたときには、もう手遅れなのだ。






`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、






 雨の音で目が覚めた。


 隣を見ると、すでに妹のベッドはもぬけの殻――キッチンからはベーコンの焼ける匂いが漂ってきている。しかしこの分には、とセヴェリは枕元の時計を見た。やっぱり。もう仕事に行くまでに朝食を摂るだけの時間の余裕はない。


 木造の古い家には浸みこむように雨が降り注いでいる。曇ったガラスを服の袖で拭いて外を見た。土砂降り。仕事には都合が良いが、しかし気分は良くない。


 セヴェリは雨が嫌いだった。


 空から地面に向けて一直線に落ちていく――その様を見ていると、奇妙で不愉快な親近感を覚えずにはいられないからだ。雨。雲からはぐれ出たその水滴は、生まれたときにはすでに地上との悲劇的な衝突を運命づけられている。空気の中でどれほどもがいたとしても、その結末は決して変わることはない。何をしても――生まれてしまった時点で、もう遅い。初めから決められている。そんな虚しさが、胸を覆わずにはいられないからだ。


 あくび一つ。


 妹の声が響いた。


「お兄ちゃん! そろそろ起きないと」


 灰色の髪の少女が、エプロン姿で寝室まで入ってくる。セヴェリは振り向いて彼女の姿を認めるや、ふにゃりとだらしなく目を細めた。


「おはよう、ティナ」


「もう、のんびりしすぎだよ。ご飯食べる時間なくなっちゃうよ?」


 セヴェリはもう一度、時計を見た。何度見ても時間は巻き戻らないことを知りながら。


「もう間に合わないよ。僕の分はティナのお昼にでも回してくれれば――」


「まだ間に合うよっ」


 むにゃむにゃと言い訳にもならないようなことを口にする兄に痺れを切らしたのか、そのままティナはずかずか寝室の奥まで入ってくる。セヴェリの後ろに回って、肩に手を置いて、ほらほらほら、と押してくる。セヴェリはされるがまま。朝食のテーブルに着かされて、パンとベーコンとサラダの前。


「ちゃんと食べないとダメだよ? ダンジョンの探索って体力仕事でしょ。朝ごはん食べないで途中で倒れちゃったりしたら大変だもん」


「…………うん、そうだね」


 言われたとおり、もしゃもしゃとセヴェリは妹の作ってくれた朝食を口に運び始める。同じ材料から作っているはずなのにどうしてこんなに出来に差があるのだろうと首を傾げたくなる気持ちもあるが、そんなことを悩んでいるような時間はない。ただ舌の喜ぶままに皿を平らげる。そしてその頃には、ティナが今日の着替えを用意してくれている。


 薄手のコートを羽織った頃には、彼女は得意げな顔で胸を張っていた。


「ほら、全然間に合ったでしょ?」


「おかしいな。何か魔術でも使った?」


「ちゃんとテキパキやれば間に合うのっ。ほら、靴と傘も出しておいたから、急ぐ急ぐ」


 また背中を押されるまま、玄関まで。ブーツを履いて、傘を手にして、立ち上がって、振り向いて、そこで急にセヴェリは真面目な調子になって言う。


「朝ごはん食べたら、ちゃんと薬飲むんだぞ。それから、もし発作が来たら軽くても必ず追加で飲んで、それでも止まなかったら病院に――」


「もう、わかってるよ」


 それをティナは、ふわりと笑って受け止める。


「自分の身体のことなんだもん。お父さんのことも見てきたんだし。……お兄ちゃん、明日はおやすみだったよね?」


「ああ、うん」


「それじゃあ明日は一緒に図書館に行こうよ。借りてきた小説、きっと今日で読み終わっちゃうから。……あ、それとも」


 わざとらしく口元に手を当てて、


「デートの予定があったり?」


「ないよ、そんなの」


 セヴェリは軽く笑って、それに返す。


「いいよ、それじゃあ明日は一緒に出掛けよう。外食は、ちょっと難しいけどね」


「わかってるよ。……お兄ちゃん、いつも――」


 言い切る前に、抱きしめた。


 一瞬だけティナの身が強張る。何かを呑み込んだ気配の後、ゆっくりと背中に手を回して、彼女は言う。


「苦しいよ、お兄ちゃん……」





`ヽ、`ヽ、`ヽ、`ヽ、





 兄は、妹に嘘を吐いている。


「ごめん、カロージェロ。ちょっと遅れた?」


「いや、時間通り」


 街角に、真っ黒な竜が止まっていた。


 竜と言っても、それは古代に生息していた巨大な獣のことを指すわけではない。それは車の一種。けれど牽引用の馬はいない。代わりに魔力で動く。近年になってようやく個人用の物が流通するようになった魔力依存動力四輪車――それが、かつての獣の名になぞらえてそう呼ばれているだけのことだ。


 傘を畳んでセヴェリが助手席に乗り込むと、運転席にはすでに褐色肌の青年が新聞と煙草を手にシートに座り込んでいる。深い焦げ茶色のくせ毛はこの雨の湿気でさらにうねっている。大柄だがどこか十代めいた鋭さも雰囲気に残したこの男が、セヴェリの仕事の相棒だった。


 セヴェリはもう、妹の思うようなダンジョン探索の仕事はしていない。


「起きたばっかりか?」


「え?」


 カロージェロがセヴェリの深い藍色の髪に手を伸ばす。右の頭のあたりを、軽く指の先で押し込んだ。


「寝癖」


 言われてセヴェリは竜の前窓に自分の姿を映した。水滴が流れ落ちていく向こうに、自分の姿が映っている。もうすぐ二十歳になる、まだ幼さの残る顔つき。二度三度と髪を押さえて、結局すぐに諦めた。


「どうせフード被るし」


「別にのんびりやってくれても構わないぜ」


 大して肺に入れるでもなく、煙草の火をくゆらせながら、カロージェロは言う。


「始まりがぐずぐずしてればしてるほど、スピード超過の言い訳ができる」


「勘弁してくれ」


 セヴェリは肩を竦めて、それに応えた。


「オーケー、それじゃ仕事だ」


 カロージェロが新聞を畳む。セヴェリの膝の上に乗せてくる。竜に備え付けの灰皿の蓋を開けて、咥えていた煙草もそこに捻じりこむ。


「頼むぜ、いつものやつを」


「了解」


 セヴェリの瞳の奥に、ちかっと水色の光が灯る。魔術行使の、一つの合図。


 竜のガラス窓から見える雨が、形を変えていく。土砂降りのはずのそれは、どことなく奇妙な軌道に変わっていく。そこに打つべき金属など存在しないとでも言うような、やわらかな音色だけを奏で始める。


 水色の輝きが段々と鈍っていく。それが、魔術の行使完了の合図でもある。そしてそれが完全に消えると同時、カロージェロの握るハンドルに火花が散り始める。


 いや、正確にはハンドルからではない――それを握る、カロージェロの手のひらから。雷の魔術。竜を繰るに当たって最も適しているとされる属性の魔術。


 ゆっくりと車が動き出す――その前に、カロージェロが思い出したように声を上げた。


「現物確認、まだだったな」


 ああ、と頷いて、セヴェリも後部座席を見る。


 そこには、新聞の包みが置いてある。腕を伸ばしてそれを取って、膝の上で広げ始める。


「カロージェロはもう、点検は?」


「しといた。数は――」


「いや、僕が数えてから合わせよう。そっちの方が確実だから」


 がさごそと包装を解いていく。いつもカロージェロが受け取りを行うこの中身が一体誰から供給されているものなのか、セヴェリは知らない。


 けれど、その中身が何なのかは、よくわかっている。


 透明な袋に入れられた、真っ白な粉。




 所持と売買を禁じる法律が未だに存在していないそれは、一般的には、新種の麻薬と呼ばれるものだ。





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