遠い昔の忘れ物
水曜日の放課後。
授業が終わった後も子供たちの元気は底を尽かない。あちこちで走り回ったり談笑がBGMと化したりしていた。
「これからサッカーしようぜ!」
そう一人の男子が声高らかに誘えば、ワッと他の男子もその後に続いていく。唯沢登もその内の一人――になりたかったのだが。
「あ、ねえ……待ってよ!」
モタモタしている内に出遅れた。教科書を机の上から落としてしまう。慌てて声をかけるが誰一人として振り返ってくれる者はいない。後ろからやって来る男子さえ、登を手伝うどころかあっさり追い抜いていく始末だ。
「なあ、聞いたか? 学校に関する怖い話!」
「子供の幽霊が友達欲しさに引きずり込むってやつ?」
「この小学校ボロっちいからねー」
「きゃー怖いっ」
一人がふざけた声を上げ、周りがけたましく笑いながら教室を出て行ってしまう。教室に残されたのは、教科書を手に立ち尽くす登、そしておしゃべりに夢中な数人の女子だけ。
――最近はいつもこうだ。
登はため息と共に独りごちた。
自分がトロイのか周りが速いのか、なぜかいつも置いてけぼりをくってしまう。自分だってたくさんみんなと遊びたいのに。
このまま帰るのも何だか悔しく、登は机に突っ伏した。女子特有の、耳にキンとする声が飛び込んでくる。
「……でね、肝試し気分で夜忍び込んだんだって」
「えーバッカー」
「それで?」
「本当に見たんだって! 『一緒に遊んでよ』って追いかけてきたって!」
「うそ―――っ」
「でもその子たち、助かったの……?」
「それがね、突然もう一人男の子が現れて、その幽霊を追い払ったって言うの」
「あははは! いかにも作ってるって感じ!」
けたたましい笑い声。
(怖い話がブームなのかな……)
ウトウトしながらも耳を傾け、登は深く息をついた。
“子供の幽霊が友達欲しさに引きずり込むってやつ?”
“『一緒に遊んでよ』って追いかけてきたって!”
(……いっそ……)
いっそ僕を連れていってくれたらいいのに……。
見えたのは、闇。
「――え!?」
ハッとして起き上がり、登は勢い良く周りを見回した。教室が暗い。他の生徒は誰もいない。
「僕、寝てた……?」
ほとんど気づかない内に眠りに落ちていたのだろう。ガランとした教室の空気は冷たく、長い時間登が一人だったことを物語っていた。
(こんなときまで置いてけぼりにされなくたって……)
泣きたい。けれど泣いている場合でもない。
先生はどうしたのかと、どこか冷静に登は首を傾げた。普通教室で寝ている生徒を見つけたら、早く帰りなさいと注意するのではないか。
とにかくこうも暗いと仕方ない。
登は電気を点けようと――。
「!?」
誰かいる!!
電気のスイッチの側に黒い影。顔は見えない。けれど誰かが、――何かが、そこにじっと立っている。
動かない。この暗闇の中ひたすら動かない。
それなのにわかる。こちらを、登をじっと見ているのだと。
「……だ、だれ……?」
奇妙な視線に耐えられず、登は声を絞り出した。相手は答えない。
「誰なの!?」
パチリ
――え?
間の抜けた音と共に、白く包まれる教室。
登は反射的に目を覆った。
「そっちこそ誰?」
「え……」
徐々に慣れてきた目を開けると、そこには一人の少年の姿。
「……え、あの、え?」
「俺は彰」
「あき、ら?」
少年の名前だろう。けれど登は聞いたことがないし、彼の顔を見たこともない。
彼は割と小柄な身体をドアに預け、快活そうな瞳をじっとこちらに向けていた。やがて肩をすくめてみせる。登が訝しがっているのを見透かしたのだろう。
「最近六年三組に転入してきたんだ」
「三組……? じゃあ隣のクラスなんだ」
そんな話を聞いたことがあったような、なかったような。やっぱりあったような、でもなかったような。思い出せない。
「んで、そっちは?」
「あ……僕は登。唯沢登」
答え、ようやく安堵が染み入ってくる。とにかく他に人がいたのだ。あの中に一人でいるのはさすがに心細い。
「えっと……彰くんは何でこんな時間に……?」
「忘れ物を取りに来て、ね」
「へえ……」
こんな暗い中わざわざ取りに来たのだ。よほど大事なものなのだろう。
「登こそどうした?」
「僕? 僕は寝てたらこんな時間で……」
言ってから苦笑する。改めて事実を確認すると情けなかった。だがこんなときに見栄を張っても仕方ない。
「あはは、ずい分寝てたんだねぇ」
「うん……。誰も起こしてくれなかったから。何で置いていかれちゃったんだろ」
ポツリと呟くと、彰は今さら気づいたかのようにわずかに目を丸くし、――笑んだ。
「…………さあね」
「……彰くん?」
「それより早く帰ろうぜ?」
笑顔を向けてきた彼が手を差し伸べてくる。登は反射的にその手を握った。
ぎょっとする。冷たい。
「彰くんの手って冷たいね……」
「そっかな?」
「あ、でも僕知ってるよ。手が冷たい人は心が温かいってママが言ってたもん。だからきっと、彰くんは優しいってことだね」
「……サンキュー」
彰が小さく笑う。だが、登はどこか気になって仕方なかった。笑っているはずなのに何となく悲しそうに見えたのだ。何だかソワソワしてしまう。
登は無意味に視線をウロウロさせ、ふと気になるものが目についた。
「……あれ? 彰くん、それ何?」
「ん?」
登が指差したのは、彰が首にぶら下げている一つの時計。気になったのは、それが妙に傷が多く薄汚れていたからだ。
「ああ、これ? 懐中時計だよ」
「ずい分古いね?」
「……たくさん詰まってるから」
「? ……詰まってる?」
想い出が、だろうか。
気になったが、彰は曖昧に笑うだけでこれ以上答えてくれそうにない。登は肩をすくめた。
「そういえば彰くんの忘れ物って?」
「あ~……実はまだ取ってないんだ」
「え!? じゃあ戻った方が……!」」
「別にいいって。せっかくここまで来たんだし」
「ここまで……って……」
立ち止まる。廊下の途中。
確かにあの教室からずい分歩いてきた。けれどまだまだ先は続いている。終わりが見えない。
(何で……こんなに長いの……?)
こんなこと、あるはずがないのに。
「忘れ物は教室にあるわけじゃないし」
「え? あ……そうなの?」
動揺を押し隠しながら引きつった笑みを浮かべる。どうして彼は平然としているのだろう。この不思議な現象に疑問を感じないのか。まさか気づいていないのか。
「それに」
「……?」
「急がないと、捕まっちゃうしな」
「え……?」
ぺたり
――何だ、今の音は?
ぺたり ぺたり
それはゆっくり、確実に大きく、近くなっていく。
一歩、また一歩。さらに一歩。
「な、に……」
「行こう」
「彰くん……!?」
行こうって、何で、どうして普通に言えるのか。登の足はこんなにも強張っているというのに。
「足音が聞こえる内はまだいい」
「何でっ……」
「すぐ側でいきなり聞こえなくなったら、それはすぐ後ろに――ついてるって、ことだから」
「…………っ!!」
「登!?」
嫌だ。嫌だ! 嫌だイヤだいやだっ!
もう何もわからない。ただ、得体の知れない恐怖心が登の足を突き動かした。
帰りたい。早く家に帰りたい!
「登っ!」
彰の手が登の鞄をつかんだ。ビクリとする間もなく、彼は力任せに近くの教室へ登を引っ張りこむ。
ぺたり ぺたり
一定の、裸足で歩いているような足音。
ぺたり ぺたり ……ぺたり
……。
…………。
…………――――。
(止まっ……?)
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた
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「……行ったな」
ボソリと彰が呟き、登はズルズルと座り込んだ。ふと気づく。この教室は電気が最初から点いていたようだが、それはまさか、自分たちが出てきた六年二組なのでは……。
いや、そんなことよりも。
「あ、彰くん……何、今の……もしかして今のが噂の……っ」
「友達欲しさに引きずり込む、子供の幽霊?」
「そ、そうっ」
「……違うよ」
「……え?」
「あれは違う」
やけにきっぱり言い、彰は机の上に腰かけた。登はフラフラとその近くの椅子へ腰を下ろす。
「原因はそうだろうけどね」
「どーゆうこと……?」
「……子供の幽霊は寂しくて、だから友達を作ろうとして引きずり込むんだよ。その寂しさがあーゆう怖いモノまで呼び寄せちゃうんだ」
「そう、なの?」
おそるおそる尋ねると、彼はやや間を置いてから「多分ね」とうなずいた。
「そっか……でも……ちょっと良かったかも」
「良かった?」
彰が怪訝そうに眉を寄せる。登はコクリとうなずいた。
「僕、その幽霊の気持ちが少しわかるっていうか……だから、その幽霊があんな怖いのじゃなくて良かったと思って」
「……登も、寂しいんだ?」
「…………うん」
顔を覗き込んでくる彰から目をそらす。なぜかその目を直接見てはいけない気がした。
「何だか友達の輪に入っていけなくて……」
「周りにはあんなにクラスメイトがいるのに?」
「……誰も僕を気にかけてくれないんだもん」
「一人も?」
「……うん……」
「寂しい?」
「……寂しい、よ」
「無理やり自分の世界に引きずり込んじゃうくらい?」
「…………え?」
そっと、顔を上げる。彼は微笑んでいた。楽しげに、それでいてどこか悲しげに。
「それは、引きずり込んじゃうくらい寂しい?」
「彰、くん……?」
彰は音もたてずに机から飛び降りた。登も反射的に椅子から立ち上がる。
彼が一歩近づく。登は同じだけぎこちなく下がる。
「彰くん? 何言ってるの……?」
何かが告げている。いけない。このままではいけない。逃げなければ。
「あ、そ、そうだ。忘れ物! 彰くんの忘れ物取りに行かなきゃ」
「いいんだ」
「よ……良くないよ。彰くんも困るでしょ? だから……!」
「俺のじゃないんだ」
「え? じゃあ忘れ物って……だれの……」
「登。おまえのだよ」
ガツンと、何かで殴られたような気がした。
クラクラする。足がすくむ。
「俺と一緒に取りに行こう?」
取りに行く? どこに? 何を?
「……寂しいんだろ? 俺がついていってやるよ」
「やだっ……」
「登?」
「そっちには行きたくない……っ」
震える声で告げれば、困ったように肩をすくめる彰。それはまるで登自身の身を案じているようで。
混乱する。
「……子供の幽霊は、一人が嫌で友達をたくさん欲しがりました。けれど人間の子供は、幽霊を見ると怖がって逃げてしまいます」
「え……?」
「みんなみんな、逃げてしまいました。子供の幽霊はまた一人ぼっちです。そこで子供の幽霊は考えました。みんな逃げないように、みんなを引きずり込んでしまえばいい。そうすれば一人じゃなくなる」
「……あきらく……」
「けど」
彰が語気を強めた。また近づいて来る。登は壁を背にしたまま動けない。
「引きずり込んでも、誰も子供の幽霊を見てくれません。怯えるばかりで話も聞いてくれません。それに満足出来ず、子供の幽霊は今でも教室をさまよっています。そしてまた引きずり込むのです。いつか友達が出来ると信じて」
彰が、手を伸ばす。
ゆっくり、真っ直ぐと――――。
「――おまえだよ」
「……え?」
「気づいてない……いや、忘れてるだろうけど。……おまえが、その幽霊だよ」
「……何言って……」
グラグラ視界が揺れる。身体が痺れる。気持ち悪い。
「嘘だよ……」
嘘だ。そんなの嘘に決まっている。
「嘘だよっ……僕は唯沢登だ! 幽霊なんかじゃない!!」
「……登。担任の先生の名前は?」
「そんなの……っ!」
――あれ?
「自分の席は?」
「その隣の奴の名前は?」
「前の奴の名前は?」
「後ろの奴は?」
――あ……れ?
知っている。知っているはずだ。だって毎日顔を見て――。
「クラスメイトの名前、一人でも言えるか?」
「僕……僕はだって……」
「……登は、長くいすぎたんだよ。色んなこと忘れ始めてる。もうやめた方がいい」
「彰くん……」
混乱する自分に、彰はそっと歩み寄った。彼は懐中時計を手に取る。古めかしいソレは、カチリと妙に寂しげな音をたてて開いた。
重く、静かに針が回り出す。それも逆回りに。
とたんに、様々なものが登の中に入り込んできた。
(……ああ……そっか……僕はずっと……)
音もなく針が止まると、彰はそっと懐中時計をしまった。誰もいない教室で一人、小さく微笑む。
「……おやすみ、登」
「彰っ」
呼ばれ、ぼんやり頬杖をついていた彰は現実に引き戻された。
「……何?」
「結局どうなったんだ?」
「? 何が……」
「しらばっくれんなよ! 子供の幽霊のことだって」
後半は声を潜めた少年に、彰は曖昧に肩をすくめてみせた。
「夜中に忍び込んだ俺たちを助けてくれたろ?」
「……あれに懲りたら、もう変な気を起こさないことだね」
「わかってる、反省してるって! でもその後、その幽霊はどうなったんだよ?」
「さあねぇ」
「彰~~~~……」
少年はなおもせがむが、彰はただただ素知らぬフリ。やがて授業開始のチャイム、先生の「テストを始めます」の声で、少年は渋々と彰の後ろの席に着いた。彰はそっと欠伸をかみ殺す。
空が、青い。
いい天気だ。
「彰……彰っ!」
ふと気づけば、後ろから少年の声。
「? まだ何か……」
「彰。テスト終わった」
「……え?」
――ええっ!?
周りを見れば、ワイワイとテストを回収している生徒たち。
目の前には、外の雲にも負けない真っ白なテスト用紙。
最初に見たときよりもずい分針が上にある時計。
……。
…………。
「あああああっ!!?」
「あんなに爆睡なんて珍しいよなー。やっぱ幽霊絡みで夜中にコソコソやってたんだろ? おまえ神社の子だっていうし……あれ? 彰泣いてる? お~~いっ?」