九
「おい。俺の陣地でなに勝手なことしてやがる。磯女」
――『海原国』中国地域。
磯女はびりびりと軽い静電気が身体を覆っているように感じた。
「これはこれは、夕映様ではありませぬか」
ゆるりとお辞儀をした磯女のその行動とは裏腹の不遜な態度に、夕映は答えろと凄味を増した視線を向けた。
「俺の陣地で許可なく何をしていると訊いている?」
「食事を取っている最中でございますが。何か不都合でもおありか?」
「あー。大ありだな」
「何故でございましょうか?」
夕映は磯女本体から彼女の一部、髪の毛で作られる球体を一瞥した。
「大きいな」
「久方ぶりの食事故、大物を狙った次第です」
「あの分じゃ、中のは死んでるな」
「いえいえ。生きのいい獲物故」
「生きてるってか?」
「腹が苦しくて堪りませぬな」
磯女は腹の辺りを円を描きながら擦った。
夕映は眼光を強くさせた。
「もう獲物は要らないって顔だな。そいつだけで十分だと」
「ええ」
(ああ。気に食わねぇな)
自分の陣地で勝手な行動を取っていることが。
自分を見下している態度が。
(大きさからして、鮫。か。人か)
人を襲ったら即罰する。魚貝類に関しても一定量を超えたら同様の処罰を下す。
これは海原国が妖怪に対して課した不文律。
罰を恐れたのだろうか。ここ最近は妖怪による被害は低下の一途を辿ってはいたが。
「人じゃねえよな」
「はい」
僅かな動揺さえ見せずに余裕のある答えを返す磯女。終始、高揚を滲ませる言葉を発していた。
「量は?」
「一体でございます」
「中身を見せろ」
「はい」
気味が悪いほど素直な磯女に、反吐が出ると悪態をついた夕映の瞳に映るのは。
崩れゆく球体から姿を見せた。
「…あれは、何だ?」
一人の娘。
「極上の獲物でございます」
の皮を被った何か。
(なるほど。人じゃねえな)
共食いならばもう放って置けばいい。の。だが。
「何をなさいますか?」
初めて声音に感情を滲ませた磯女が、その髪で巻き付けて掴んだのは。
「殺す」
三日月の形をした刃を持つ、夕映の愛矛『領乂』であった。
「どんなんでも首を落としたらしめえだ」
夕映は矛の首に括りつけ、今の今まで手に掴んでいた紐を引っ張り、『領乂』を磯女から取り返して刀で言う柄の部分に当たる袋部を掴み、得体の知れない何かを殺そうと一気に距離を縮めたのだが。
「退け」
対象の前に腕を真横に上げて、攻撃を阻止せんとした舞李は、夕映の威圧に一度大きく肩を跳ね上がらせるも、数度頭を振った。
夕映は舌打ちした。
全く身動ぎしない対象が何時動き出すか。気が気ではない。
「てめーも感じるだろ。こいつはやばい。野放しにしたら最後。殺戮を繰り返す。永遠にだ」
それでも説得しようと行動よりも言葉を選んだのは。
肩書だけでも妻だからか。
身体を小刻みに震わせ蒼白な顔をしているくせに、全身で譲らないと語っている為か。
「優しい、人、です」
途切れ途切れに加えて震える、何時もと変わらぬ聞き取りにくい声音。
苛立ちを増させるものだった。
「大切なやつか?」
「大切、です」
背中を優しく押してくれた。
たった一度しか言葉を交わしてはいないけれど確かに。
かけがえのないと自負できるほどの出会いだったのだ。
それに―――。
逡巡のない答えに目を細めた後、夕映は矛を持っていない手で舞李の肩を掴み、自身の後方へ払い飛ばし、息つく暇なく孤を描く刃を対象の後ろ首へ回して、躊躇なく自身の方へ引き寄せようとした時だった。
(おい)
夕映はこの不可思議な現象に疑問を抱かずにはいられなかった。
自分の身体が遅く動いている事実に。
(何だこれは?)
硬直しているとさえ思われる中、瞬きで視界が隠れることのない夕映の瞳に映ったのは。
自身の額を貫かんと、今まさにそれ目掛けて突き進む。
(俺は)
胸に押し当てられていたはずの若竹色の短刀の刃先。
視界の端で捉える磯女は大口を開けて笑っていた。
どちらが。それともどちらともか。
(くそ)
視界の中央で捉える対象は全身から血を流していた。
まるで涙を流すように。
まるで血を拒むかのように。
血とは誰の?対象自身の?
否。
(あやつの血まで飲み下せるとは)
磯女は笑いが止まらなかった。止めようがなかったのだ。
これほど愉快で、これほどまでに、狂喜乱舞することはないのだから。
「殺せぇえぇ!」
「止めてぇ!」
二つの声が重なり合って数秒も経たず、刃が確実に貫いた。




