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枯れ木が花を咲かせます  作者: 藤泉都理
七巻 泡沫の咆哮
97/135




――『海原国』中国地域。




「ごめんなさい」

「いえ、私の方こそ」



 海の生物の名探しに夢中になっている零に付き合っていた希羅が、岩影から出ようとした時だった。ぶつかった反動でほんの数秒海中を彷徨ってしまったが、動揺は一瞬で治まり、何とか体勢を整えようとした瞬間、差し伸ばされた手を掴もうとしながらも、その手の主を視界の中に捉えた。



(…あれこの人)



 差し伸ばされた手を軸にして体勢を整えた希羅は、離れそうになった手を引き留めんと強く握りしめた。



「あの」



 困惑気味の女性に、希羅は慎重に告げた。



「舞李さんですよね」



 途端、女性、舞李の肩が大きく跳ね上がり、希羅の手を振り払ったかと思えば、気泡を泡立てながら瞬く間に距離を広げていった。



「よっぽど旦那の元に帰りたくないんだろうね」



 さもどうでもよさそうなに告げた宗義の言葉が背中越しに聞こえる中、希羅は反射的に舞李の後を追っていた。






 一人離れていく希羅の名を呼ぶものは居なかった。


 不思議と、














「…見失っちゃった」



 希羅は一旦立ち止まって周りを見渡した。追う事に夢中になっていたが、周りは光があまり届いておらず薄闇で、明確に見えるのはおよそ一丈先まで。人が誰もおらず、耳が痛いほどに静寂さに、自分を抱きしめるように腕を交差させた。



(怖い)



 皆の処に帰ろうにも何処へ向かえばいいか分からない事実が恐怖へと誘うが、希羅は固く目を瞑って小さく頭を振り、瞼を開けると胸元から一本の笹を取り出した。



(これを伸ばして遠くまで見渡せる場所まで上がって、方角を確認して『乃亜の方舟』へ戻るのが一番、だよね)



 希羅は足に力を入れ、さほど離れていない海底の地面にそっと降り立った。軽い小粒の砂が宙に舞う中、地面から離れないように注意を払いつつ、さらに力を入れてしゃがみ、笹を地面に突き刺そうとした時だった。



「舞李さん」



 後ろから肩を掴まれ反射的にそちらを向いた希羅の瞳には、自分から逃げていたはずの舞李が映った。



「一人では、危ないと、思いまして」



 視線を右往左往させて、蚊細い声で告げた舞李。多い瞬きに口元を隠すように添えられた手から、恥ずかしがり屋なのかと思った。



「父上の、お知り合い、ですか?それとも、龍宮の?」

「夕嵐王から頼まれました。私は譲り葉さんの……知り合いで。彼女と共に来たんです」



 譲り葉との関係は何と言うのだろうと言葉に詰まってしまった希羅。とりあえず無難な答えを導き出しそう告げた。



「まぁ。譲り葉様の」



 彼女の名に安堵の色を見せた舞李。ほんの少し緊張感が和らいだような気がした彼女は突然何かを思い出したかのようにあっと小さく声を上げ、深々と頭を下げて謝罪した。



「ご迷惑をお掛けしまして、申し訳ありません。ですが、私は、戻れません。今は、まだ」

「理由を訊いても大丈夫でしょうか?」



 一時口を閉ざしていた舞李だったが、頭を下げた状態のまま、ぽつりぽつりと、話し始めた。












「ですから、今暫くお時間を頂きたく。人が居られますところまでは、案内しますので」



 締め括りにそう告げて再び口を閉ざした舞李。未だに顔を俯かせたままだった。



「分かりました。私は方角さえ教えてもらえば大丈夫です」

「ですが」

「大丈夫ですから」



 確固とした態度で告げた希羅に、舞李は恐る恐ると顔を上げた。

 視線はまだ合わさっていない状態だったが、希羅は微笑んだ。



「戻って来られるのを待っていますから」



 舞李は顔をほんの少し俯かせて、はいと、柔らかい口調で告げた。


















「皆に何て言おう。見つからなかったじゃ、駄目だし。本当のことを…でも」



 前へと進んで行く舞李の背を見送って後、教えられた方角を泳いでいた希羅。うんうんと心配しなくても大丈夫だと分かる言い訳を考えていた時だった。



 突然凍りつくような寒気を感じ、胸元に収めていた笹を取り出して周りを注視したが、身の丈よりも高い海藻がその原因である何かを隠して、正体が掴めない状態にあった。



 背中と額に嫌な汗を感じる中、息を詰めて視線を忙しなく右往左往に向けていた希羅は、身動ぎせずに或る瞬間を待った。




 息をしているのかどうなのか分からない状態。




 静寂に満ちていたその場に。




 恐怖と緊張を煽るような笑い声が響いて黒い影が忽然と現れたと同時に、希羅は術を発動させた。



 『笥簪ししんの術』。


 強靭な竹で編み巡らされた籠を瞬時に創り出すその術は相手を傷つけずに捉えることを目的としたものだったが、今回、希羅が捉えたのは、本体ではなくその一部。



 しかもそれさえも編み込みの合間を縫って希羅に襲いかかり、希羅は気が付けば、黒い毛髪で頭部を除いた身体を巻き付けられるという危機的状況に陥っていた。





「旨い匂いがする」






 身体が強く締め付けられる中、解こうと抵抗する希羅の前に現れたのは―――。




磯女いそおんな





 乳から上が人間で下の方が幽霊のように流れており、その長い髪で生血を吸い人を死に至らしめる妖怪であったが、本来、海岸沿いに生息しており、また、襲うのは船に居る人間に限られていた。



 こんな深い海に居るはずのない磯女の登場に、混乱と動揺が渦巻く。



 希羅が黙視する中、磯女は髪の毛の動きを一旦止めて彼女の傍に近寄り、頭部に鼻を押し付けて匂いを嗅いだ後、歓喜の溜息をゆるりと吐き出すと同時に、興奮した物言いで独り言のように言葉を繰り出した。



「万…いや、もっとかねぇ。ひひ。久方ぶりの飯にこのような極上物にありつけようとは…いや。しかし。此処まで待ったんだ。今暫く……今暫くは……待てるねぇ」



 生温かい鼻息が顔に当たる度に、心臓を直接舌で舐められているような感覚に陥る希羅。恐怖で蝕まれた身体は瞬きさえ許さなかった。



 時間はそれほど経っていなかったかに思える。



 ふと、独り言が止んだかと思えば、希羅は身体の締め付けから解放された。



 好機の状況にも拘らず、嫌な予感だけが増幅して行く中。



 希羅は握りしめていた笹にさらに力を籠めて、長方形の籠を創り出した。



 地面に食い込み、また、全身をあまねく囲った今回の籠は隙間がなく、自身と外界を完全に遮断したまさに牢獄。



 暗闇の中、されど磯女は舐め回すようにそれを眺めた後、カハッと、歓喜に満ちた一笑を溢し、目の前に居るであろう希羅を凝視した。



 籠によって切断した好機を逃さず、自身に巻きついていた髪の毛を引き剥がした希羅は荒い息を深く、されど短く吐き出しながら、粘りつくような視線を感じていた。



 籠によって磯女は完全に動きを封じられたはず。



 にも拘らず、嫌な予感が膨れる。



(早く、知らせないと)



 だがどうやって?自分は式神を作れない。離れた相手と連絡を取る手段が、ない。





「相手を傷つけたくないんだねぇ。優しい子だ」





 糸が弾かれた弓のように、瞼が持ち上げられる。



 ゆったりと、優しげに、緩やかに遅行する毒のように、身体が蝕まれていくような、そんな声音だった。



「だが、その身の内に宿るモノは、そうではないようだねぇ」



 キヒヒと、悦楽した笑いを出す。口の端が上がって仕様がない。



「消し去ろうと努力したようだが、無駄だよぅ。血ってのは、幾ら洗っても、吸われても。その身にこびり付いて離れない。幾万。いや。数百万の血に塗れては尚のこと」


「何の、こと?」



 訊いてはいけない。訊きたくない。だが、口が止まらない。



「知らないんだねぇ。優しい誰かに、記憶を封じられたのかねぇ」


「教えて。私の身体は、」



 でたらめなことを告げて恐怖心を煽っているだけなのかもしれない。


 それでも、




 希羅は眉根を寄せて、言葉を紡いだ。




「何の血に、塗れているの?」





 震えているだろう娘を想像するだけで笑いが止まらない。





(いい娘だ。格好の餌食だよぅ。むすめぇ)






 数百万の血にまみれる身体に、恐怖で蝕まれて行く心。




 懸命に繋ぎ止めようとしているのは、人間の尊厳?




 人は人を殺してはいけないという、不文律?




 否。




 人が人であろうと、もがきながらも保つ、くだらない自尊心だ。





(揺さぶれば、それは目覚める。しかも、中途半端な形でねぇ)






 滑稽なほどにそれにしがみつく娘に。






「どれだけの時間を費やせば」






 焦がれるように。






「どれだけ効率よく動けば」






 おちょくるように。






「それ程の人間を殺せるのか」






 慰めるように。






「教えて欲しいものだよぉ」






 媚びへつらうように。






 腹の底から沸き上がる感謝の念を、その一言に籠める。






「むすめぇ」












 けたたましい高笑いは。






 全ての景色を一色に塗り潰した。












 石で叩きつけられるように痛む頭に目が眩み、腹の底から込み上げて来る何かを身の内に留めんと、口元を強く抑える。






「嫌だ」






 瞼を閉じれば、否が応にもその時の光景が映る。






 本能的にそう察知したからこそ、渇きで痛みが走ろうが、頑ななまでに瞼を持ち上げているのだが。








『殺して』








「いやぁぁぁぁ!」








 心臓が一つ高く打たれると。






 強制的に遮断された意識が。






 浮かぶことを許されない石のように。






 底なし沼へと落ち続けて行く。
















「綺麗だ。綺麗だよぉ」




 術の効果が消え去り、牢屋から出た磯女の瞳に映るのは。




 煌々とほとばしる、炎の柱。




 全てのものが焦がれる、命の色だ。


 


 視線をそれが発するものに向けると、その手に若竹色の短刀を握っている娘が見える。




「死にたいのに、死ねないんだねぇ」




 刀先を心臓の真上の衣服に隠し、その辺りを紅く色付かせた娘が見える。




「今、その苦しみから解放してあげようねぇ」




 子守歌を唄うように優しくそう告げた磯女は大きく開いた口から涎を滴り落としながら、縦横無尽に張り巡らせていた髪の毛を、一点に圧縮させた。


















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