十五
「お見苦しいところをお見せしましたね」
梅雨が明けた数日後の晩だった。萌恵に元に戻してもらったなずなは今、約三週間ぶりに帰って来た自分の家の前、滝の傍で、修磨と並んで立ち、恐怖に苛まれて微動だにすることができなかった自分を思い返してそう告げた。
「まだまだですね。私も」
「怖い思いさせて悪かったな」
「あら。一応、負い目を感じてはいるんですね」
「恨むなら俺だけ恨め」
なずなはほんの少し目を見開いた後、口の端を上げた。
「本当に修磨さんは、残念な人ですね」
「どーゆー意味だよ?」
「黙っていれば冷静沈着な流麗男性なのに、口を開いた途端、まるでがさつで熱血な子どもになるんですもの。本当に残念な人」
なずなは声音とは裏腹に、嬉しそうな表情を浮かべていた。
「でも、あそこまで臆せず人を想える人はそうは居ないと思います」
初めて自分が修磨を見たのは、彼が希羅と共に道を歩いている時。自分が毛嫌いする希羅の隣りを通り過ぎようとする時だった。何気なしに希羅の隣りを歩く彼を見た時、衝撃を受けたのを今でも覚えていた。
目を奪われるほどに幸福に満ちた笑顔だった。そして視線を下げれば、彼に対して気後れしている彼女もまた、少なからず彼と同じ想いを持っているのだとも、気付いた。
だからこそ、余計に、彼女が嫌いになってしまったが。
この想いは、本当に―――。
なずなは修磨の名を呼んで、身体の向きを変えて、修磨に向かい合った。修磨もまた彼女に向かい合った。
緊張のあまり、心が震える。
こんな感情は知らない。
何時だって、冷めた感情が付きまとっていたから。
あの両親にさえ。
自分に迷惑を掛けてと憎むよりも、ずっと憐れんでいた。
酒とお金に堕落した生活を送って、どれだけ無駄な人生を生きているのだろうと。
だから死んだと聞いた時。よかったのではないかと、思ってしまった。
あんなに人生を楽しめない不器用な人たちだったから、このまま生きていても苦しいだけだと。
偶然の縁によって娘になっただけで何の義理も恩もないけれど、それでも娘として、せめて借金だけは返そうと思った。
両親を悪く言う人たちにも、反発はしない。その通りだからだ。
だが、それで、自分が縮こまる必要があるとは、到底思えなかった。
幼馴染の遊里にも、一緒に住まないかと誘われたが、無論断った。
彼女とは対等の立場で居たかったから。
たかが、自分とは無関係の両親の不祥事で、同情を得たくなかった。
自分と両親は世間で言う親子とはかけ離れた存在。自分と両親は無関係な存在。そう思っていたのに。
何故借金を返していいと思えたのだろう。
娘だから返せと借金取りに追い立てられたから?
娘だから親の借金を返すのが当たり前という世間体を気にして?
違う。『せめて』返してやろうという気持ちだった。
そう。憐れな両親への手向けとこの世に存在させてくれたお礼だ。
両親に対して、こんな風に思う娘はそうは居ないだろう。
何時も冷めている自覚はあった自分は時折、両親の気持ちが分かるようにもなった。
彼らのようになりたくなくて、心の底から楽しめる何かに、夢中になれる何かを捜し続けた。
そして、見つからないまま、彼に出会った。
惹かれたのはきっと、似ているのに自分にないものを持っていたから?
分からないし、今となってはもう。理由などどうでもいい。
「好きです」
修磨は仄かに頬を赤らめるなずなを、真剣な表情で見つめた。
「俺には希羅以上に大切な存在は居ない」
「知っています」
「二番目でもいいってか?」
「それは嫌です」
眉根を寄せるなずなの態度に、修磨はだよなと笑みを溢した。
「おまえは俺に負けないくらい俺様で、希羅に負けないくらい、自分で何でもしようとする。大した女だよ。おまえは」
「そうですよ。逃したら。後悔するんですからね」
「後悔はぜってーしないだろうが。そうだな。一つだけ、俺の秘密を教えてやってもいい」
聴くかと意味深な笑みを浮かべながら告げる修磨に、勿論ですとなずなは答えた。
修磨は後悔するからなと前置きすると、なずなに耳打ちした。
「どうだ?」
答えを待つ修磨の笑みに、なずなは自分が軽く見られたような気分になって、ひどく気分を害した。
「鬼だから何ですか?怖がって欲しかったですか?生憎。お莫迦なあなたしか見てませんから、それは無理ですね。それとも、その程度で私が諦めるとでも?」
まくし立てるなずなに、修磨は噴き出した。
「おまえ。やっぱ、大した女だよ」
彼女だけのはずの笑みを向けられたなずなの鼓動は一気に高まった。
(え、何。これ)
なずなは戸惑う中、これが恋なのかと、実感したが。
(今は、この気持ちに真っ正直に行動できる時期ではないわね)
冷静な自分は健在かと、ほっと安堵したなずなであった。
溺れるのは快楽と充実感をもたらすが、同時に、自分を見失わせる。
そんな無様な状態になるのはまっぴら御免で、溺れる自分を楽しむくらいの余裕がない今の状態では近づくべきではない。
「これからどうするつもりですか?」
浮ついた気持ちを引き締め直したなずなはそう尋ねた。修磨はゆっくりと真顔になった。
「やることは、一つだけだ」
その冷たい表情に、なずなはそうですねと、微笑を浮かべて答えた。
(全部を手に入れられるのに、中途半端だから嫌い)
修磨を見送った後もその場に佇んでいたなずなは、希羅に対する今も昔も変わらない感想を心の中で呟いた。
(嫌い。大嫌い。虫唾が走るのよ)
弟の為に死ぬなら勝手に死ねばいいのに。
その刻まで、弟だけを想って生きていればよかったのに。
(中途半端なのよ)
『なずなさん。すみませんでした』
蕎麦屋ですでに気を取り戻していた自分に、頭を下げた彼女。
言いたいことは山ほどあったようで、あまりないと思えたから、気にしないでと涼しげに告げたが、近づけば近づくほどに、嫌悪感が増していく自分に気付いた。
きっと彼女が何をしたところで、どの行動も気に食わないに違いない。
希羅に対する感想が今暫くは変わることはないと、なずなは確信していた。
(全く。二人揃って私の心を乱すんだもの)
「厄介な二人」
なずなは呟いた後、背伸びをして、誰も待たない我が家へと戻って行った。




