十四
「申し訳ありません。まだ準備中ですけれど」
――『たんぽぽ』。
昼食を食べに来いと龍太に誘われた希羅が、何時もより早く店に着いて、数分後。準備中の看板が立て掛けられているにも拘らず、小さく玄関の戸を叩く音がしたので、早苗がはいはいと告げて戸を開くと、男が姿を現した。
その男を見た希羅は全身の血の気が失われたように感じた。
男はきょろきょろと店内を見渡し、椅子に座る希羅を見つけると、手を振った。
「なずなちゃん。知り合い?」
なずなととっては知り合いではない。なら、違うと言えばいい。だが。
希羅は微笑を浮かべて、はいと告げた。
「すみません。早苗さん。久しぶりに会ったので二人だけで話したいのです。少しだけ席を外しますね」
希羅は立ち上がって、早苗に近づきそう告げた。
早苗は心配げな表情を浮かべていたが、それならと、二人を見送った。
「演技上手いね。希羅ちゃん」
人込みを割って並んで歩いていた男はそう告げた。
希羅は彼らしからぬ口調と態度に眉根を寄せながらも、警戒心を解くことはしなかった。ただ、誤魔化すつもりはなかった。
「あの家と土地は渡すつもりはありません」
男は目を丸くした後、丸めた拳を手の平に乗せて、あ~そうかと、呑気な口調で告げた。
「うん。それはもういいんだよ。要らないし」
「なら」
「その前に誤解しているようだから、説明しておくね」
「誤解?」
早鐘のように心臓が鼓動を上げ、身体が重く感じる中、希羅は気をしっかり保とうとした。気を抜けば、頭の中が真っ黒に塗り潰されそうだったのだ。
「僕の名前は氷燕。鄒桧の元、式神。だから、姿形が同じなわけ」
眉根を寄せる希羅に、氷燕はこっちと、蕎麦屋の中に入って行った。
「だからね。九年前からちょくちょく会いに行ったのが僕で。半年前に現れたのが鄒桧ってわけ」
昼時で、店内は満席とは行かずとも、ほぼ席が埋まっていた。氷燕はさらしな蕎麦二つねと告げて、空いている奥の六人掛けの席へと知った顔で座り、前の席に希羅も座るように告げた。そして、この店のことを話していた彼は注文した蕎麦が来たら、小葱てんこ盛りの汁につけて、ずずっと豪快に吸い込みながら、話を進めた。
「同じ顔なのに、あの人は怖いけど、僕はそうでもないでしょ?」
にっこりと笑われても、希羅は何も言うことはできなかった。
「う~ん。そんなに警戒しなくてもなぁ。洸縁に何か言われた?」
「何の用ですか?」
希羅は真直ぐに氷燕を見据えた。震える心を悟られないように、毅然とした態度で向かい合ったのだ。
氷燕は瞼をぱちくりと数度瞬きさせた後、嬉しげに微笑んだ。
「大切な弟君の為なら。か」
希羅は心臓に直接氷水を掛けられたかのような感覚に陥った。
「弟に、何か、するつもりですか?」
「好い目だねぇ」
冷え冷えとする心体とは裏腹の、太陽を圧縮させた閃光の瞳。
そう感想を抱いた氷燕は、口の端をさらに上げた。
「大丈夫。何もするつもりはないよ。大体、しようがないでしょ?何したって、死なないもん。ま。儀式が終われば話は別だけど」
「弟には何もしないでください」
「しないってば」
視線を交えて数秒後、息を吐いた希羅に、氷燕は本題に入ろうかと告げた。
「希羅ちゃんさ。声聞こえるよね。誰も居ないのに、頭の中に響くの」
「声…」
何のことかと思考を巡らせた希羅であったが、直ぐに思い付いた。
「やっぱり。でさ。今のその状態でも聞こえたりする?」
否定も肯定も口にしないまま、確証を得た氷燕の次なる質問に、希羅はどう答えるべきか脳漿を絞った。
実際問題。聞こえていない。というよりも、儀式に選ばれて以降、全く聞こえていない状態に遭った。そもそも、声は聞こえているが何を言っているかも、未だにさっぱり分からない。
(もしかして、重要な妖怪の声。なのかな。そして、家と土地と関係ある)
家と土地は要らないというが、必要なかったとは思えなかった。
(私。まだ、知らないことがいっぱいなんだ)
「知りたい?」
無邪気な声に、希羅は目を細めた。
「洸縁と修君は絶対言わないよ。譲り葉も然り。でも、僕なら、ね?どう?」
知りたくないと言えば嘘になる。でも今はそれより―――。
(私の、命。弟にあげて。大丈夫なの?)
不安要素が多すぎるこの命をあげて、弟に何か支障は出ないのか。
希羅は黒い靄が全身を覆って行くように感じた。
思いもしないところで、決意が揺らぐ。
「おじさん。ご馳走様」
希羅の返答を聴かずに、氷燕は立ち上がって、蕎麦と汁を乗せたお盆を直ぐ真横にある返却口に置いた。
「知りたかったらおいで。『平安の雫』の総本山『盤葳』(さらい)』に。全てが終わってからでいいから」
「聞こえてません。この身体では」
立ち上がった希羅は、立ち去ろうとした氷燕の裾を咄嗟に掴んでそう告げた。
「うん。分かってる。やっぱり―――」
氷燕は最後、美味しいから食べてねと告げて、その場を後にした。
希羅は全身の力が急にふっと抜けて、椅子に座り込んだ。
眼前にあるのは、手を付けていない自分の分のさらしな蕎麦。
箸を取って、蕎麦を掴んで、小葱山盛りの汁に付けて、口に含んだ。
「美味しい」
味わって食べてようと、もう一掴みしようとした時だった。店の扉が乱暴に開かれたかと思えば、矢守を抱える着物があちこち破けている洸縁と、なずなを抱える修磨が現れたのだ。彼らは店内を見渡し、希羅を見つけると、一直線に彼女に駆け寄った。が。
「…何で蕎麦?」
「お腹減っちゃって」
照れ臭そうに笑う希羅を見た彼らは、安堵したかのように、床に座り込んだ後、さらしな蕎麦三つと注文した。
「弟君に可能性を信じて託す?」
「いや。やはり、あの娘がいいだろう。が。まだ力が足りん。それに。この件が片付かない限り、声は聞こえないままだろう」
「なら、儀式に手出しする?」
「…いや。傍観でいいだろう。どうせ」
氷燕ともう一人の男は人込みの中に消えた。




