二
姫叶は隼哉の前に立って肩を掴み、激しく揺さぶった。隼哉は一時何の反応もなかったが、不意に目を見開かせたかと思えば、風呂敷を抱えて、項垂れた。
「落ち込まないでよ」
「だって。一言も話せなかった。おはようの挨拶さえできなかった」
姫叶はしっかりしてよと、涙声の父親の背中を思い切り叩きたい衝動を必死に抑えた。
(ったく。これで本当に吸血鬼、吸血羇の長なの?)
「お客さんも来てて慌ただしかったみたいだし。大体仕事だって分かってるのにこんなに早くに来た父さんが悪いのよ」
「だって、美味しくできたから早く届けたいと思って。旬の物は傷みやすいって言うだろ?」
「はいはい。分かったから。これからどうする?」
「……直接渡したい」
「分かった。なら仕事が終わるまで『緑柳紅花』に行って皆の手伝いしてよう」
かつて隼哉も働いていた帆須徒無『緑柳紅花』は巡行していたが、今はこの地に腰を落ち着かせていた。
「うん」
ようやく顔を上げた隼哉だったが、憂色が漂っていた。その意味を察した姫叶は背中を向けて歩くなずなを見つめた。
「彼女の色、小さくて、でも、初めて見た。あんなに濃い紅」
吸血羇の男性は、寂哀の感情を持つ女性を引き寄せ心を奪う化学物質をまき散らすという特異体質を持っていたが、女性はその寂哀の感情を炎で見ることができる眼を持っていた。
「希羅ちゃんの炎も、だんだん小さくなっていってる」
姫叶はぽつりと呟いた。
それは喜ばしいことなのに、その声音はそう物語ってはいない。そう感じた隼哉は風呂敷を抱える腕に力を入れた。
姫叶は隼哉の横を通り過ぎ、玄関から出て曇り空を見上げた。
梅雨の空。空気も水分を含んで気分を気怠くさせる。だがこの季節を過ぎれば、清々しい青空と照りつける陽の光が待っている夏が来る。皆と一緒に色々なことをして楽しみたいと、姫叶は胸を躍らせていた。
あの話を耳にするまでは―――。
「父さん。『蛍火の儀式』って、知ってる?」
「確か、人間の間だけで一年に一人、神に選ばれるあれだろう」
耳にしたことはあったが、妖怪ならまだしも人間の間でそんなことが行われるはずはなく、どうせ夢物語か、信仰上必要な戯言だと思っていた。
隼哉はそもそも人が多く信仰する、何かを叶えてくれる『神』という存在自体を信じていなかった。
彼が信じる『神』とは、例えば空気や土、植物、太陽など、自分たちを生かしてくれる自然そのものだったから。
「それがどうしたの?」
隼哉は姫叶の隣に立ち、彼女を見つめた。姫叶もまた隼哉に視線を合わせて笑みを浮かべた。
「うん、ほら。実際に叶えられた人居るのかなって思って。単なる興味本位。日向に蛍観に河原に連れて行ってもらった時に教えてもらったからさ」
「僕は聞いたことはないけど。単なる夢物語で、実際に起こらないと思うよ」
「そう、だよね。うん。分かった。行こっか」
姫叶が歩き出したので、隼哉もまた彼女の隣に立って歩き出した。
小さな石が池に投げられて静かに波紋を広げていくように、今はまだ小さな不安を抱えたまま。




