二
「早く孵らねえかな」
「修磨君。まだ二日しか経ってないから。焦らない。焦らない」
翌日。「竹の湖」を訪れた修磨に少しだけ焦燥の色が見えたが、同時に何故か彼が母親のように見えてきた遊里は彼の了解を得て着物越しに卵に手を当てた。
「希羅ちゃん。早く会いたいから、出て来てー」
「希羅。早く会いたいぞー」
修磨と遊里は小声で告げたが何の変化も見られない卵に、修磨の気分はどんどん沈んで行った。
「このまま、孵らなかったら。一生、希羅に会えない」
気弱な態度の修磨に、遊里は目を丸くした。
(え?どうしたの?)
「子どもが無事に生まれるかな~とか。大丈夫だと思ってても突然不安になったりして妊婦さんの感情の揺れ幅は大きいの」
修磨の有り得ない状態を告げた遊里は和花からそう告げられた。遊里は状況が似ているから妊婦の状態に当てはめてもおかしくはないと思ったが。
「でも、何時も自信満々の俺様の修磨君が他人に愚痴を溢すって、相当気弱になってると思うの」
「それだけ希羅ちゃんの存在が大きいってことね」
和花はにっこりと笑った。
「大切な人ができると、身体の真ん中に揺るがない一本の芯ができたみたいにしゃんと背も伸びるけど、情緒不安定にもなるのよね。修磨君は口に出さないだけで結構不安に思っていると思う。それに今回は希羅ちゃんをこんな目に遭わせたって負い目もきっと感じているから、何時も以上に気弱になっちゃってつい溢してしまったのね」
「そうね。何時も護るんだって口にしてるし」
和花は遊里の背に手を当てた。
「希羅ちゃんは大丈夫。だから遊里まで不安がっちゃだめ。ね?」
「うん」
遊里は母親の助言を受けて修磨の元へと戻り、懸命に彼を励まし(時には叱咤も加えながら)続けた。その甲斐あってか。気を取り直した修磨は店子として働き始めた。
「希羅。寂しいぞ~。早く、希羅の飯が食いたいぞ~」
居間で卵に覆い被さって温めていた修磨は出来得る限り明るく軽快に告げた。今日で七日目。家と仕事場を往復する変化のない日常が続く中、卵にも変化が訪れることはなかった。
「希~羅。明日は五月五日だぞ~。粽と柏餅が食べられる日だぞ~」
今日は五月四日。明日の子どもの日に向けて、二週間ほど前から町の中のあちこちで鯉のぼりが天空を悠々と泳いでおり、家の中には立派な兜が飾られ、この季節の植物の紫色の文目もまた、地面に生い茂っていた。
「早く出て来ないと、食べられないぞ~」
自分の声だけが空しく部屋の中に響く。静まり返る部屋の中に居ると、賑やかだった以前の生活が夢のように感じた。
「洸縁からは連絡ねえし、おふくろに式神送って訊いても温めるしかないって」
修磨は自嘲的な笑みを溢した。
「俺、こんなに弱かったか?」
おふくろと暮らしていた邸から離れて悠々自適な旅に出た。仲間である鬼にも会えたら、と思わないでもなかったが、別段それが理由で旅に出たわけではない。単なる暇潰しだった。人と関わるのも、妖怪と関わるのも。全てが単なる暇潰し。
大事なものなど一生得られないかもしれない。ふとそんな考えが過ったがそれで好いとも、漠然と思った。
大事な者の為に(自分以外の事で)四苦八苦するなど御免だったから。
「ったく。らしくねぇ。何だ。このウザったい気分は」
修磨は髪の毛をがしがしと掻き回して両頬を強く叩き、立ち上がって外に建ててある保管室へと向かった。
「旨いもんの匂いを嗅げば希羅も出て来たくなるだろ」
修磨は腕をまくし立てて何を作ろうかと思案しつつ材料を見つめていると、不意に卵が動いたように感じ、急いで着物を開いて卵を腹巻から取り出して注意深く見ると、卵の表面に微かに亀裂が走っているのが見えた。
「孵る、のか?」
徐々に亀裂が深くなり、小さな卵の欠片がぼろぼろと地面に落ちて行く。
修磨は座って卵を地面に優しく置き、喜色満面の笑みを浮かべようとしたが、すっかり忘れていた洸縁と悪魔の言葉が頭を過り、汗が滲み出て来た。心臓も強く脈打ち、全身の血管が激しく自己主張を始める。
「いや。こんなんで、お父さんって呼ばれたって、嬉しくないしな。うん。悩むべきことではない」
修磨はわなわなと震える手で洸縁から手渡された手鏡を右胸の物入れから取り出し、固唾を飲んで希羅が生まれるのを待った。時が流れるのがいやに遅く感じる中、その瞬間は来た。卵の頂上が割れて希羅の頭の天辺が見えたのだ。修磨はすかさず希羅が前を向いている方へ鏡を向けた。大小交じり合う卵の欠片が地面に崩れ落ちて希羅が徐々に姿を現し、そして、終に全身が現れたのだが―――。
希羅の全体像を見た修磨は全身に異常はなく、また、裸でないことに安堵しつつも首を傾げた。
孵ったら卵にされた時と同じ姿で孵るはずなのだが、卵から孵った希羅は徐々に身体が大きくなるも、自分の身長の四分の一ほどの大きさでその成長が止まったのだ。年齢で言えば、恐らく六、七歳ほど。
手鏡の方にじっと顔を向けていた希羅は無反応であった。修磨は言葉を発していいか分からずに、希羅の反応を待った。
十数分ほど経っただろうか。希羅は両手を握っては開くという動作を幾度か繰り返した後、修磨の方に身体を向けた。修磨は希羅の顔を見て、思わず口を手で覆った。
(…すげー、可愛い)
身長だけではなく、実際に六、七歳の幼児の姿で成長が止まったようだ。
(いや、十七の希羅も勿論可愛いけどよ。なんつーか。すげー、愛くるしいっつーか。もふもふっつーか)
「修磨さん、私はどうしたんでしょうか?」
修磨の熱い視線が注がれる中、希羅は口を開いた。修磨は記憶まで後退していないかと言う危機はないことに若干不服、否、再度安堵しつつ、状況がいまいち掴めていない希羅に説明し始めた。
「多分、妖蚊に歳を吸われてから、子想鳥に卵にされたんだと思う」
「そう、ですか…あ。洸縁さんは?」
「あいつはそいつらを追ってる。あいつなら大丈夫だ。玄武に診てもらえば希羅も元に戻るだろう」
(…まぁ、そのままでも俺は構わない。つーか…何考えてんだ!俺は!)
修磨は自分の邪な考えを超速急で追い払った。
(あぶねー。子どもの希羅は危険だな)
修磨は額の汗を腕で拭った。希羅は百面相をする修磨に首を傾げつつ、彼の衣を引っ張った。それに気づいた修磨が下に顔を向けると、仰ぎ見る(この行為だけでもかなりの破壊力)希羅の愛くるしさ顔が見えた。修磨は火山のように一気に爆発しそうな父性(本能)を鉄拳(理性)で叩きつけて抑え込み、しゃがんで希羅に視線を合わせた。
「ど、どうした?」
「私、玄武さんのとこに行って来ます」
「分かった」
「……修磨さん」
希羅の為にと気持ちを入れ替えた修磨はしゃがんだまま希羅に背を向けた。希羅は彼のその行動の意味を悟り、大丈夫ですと告げた。だが修磨もその申し出を棄却した。
「今の姿じゃあいつのとこに行くのにえらい時間がかかるぞ。早く元に戻りたいんだろ?」
意固地を貫き通すか。迅速な問題解決を図るか。どちらにする?
そう問われた希羅は葛藤の末、お願いしますと頭を下げた。
「悪いが妖蚊の被害が甚大でな。薬はおろか、材料さえ今はない」
二人は森の中の沼に辿り着いたが、上機嫌な修磨に反し、早く戻る為の我慢と恥ずかしい思いで一杯だった希羅は辿り着いた矢先の玄武のその言葉にそんなぁと不満を口にした。
「どうしてそんなに妖蚊が増えているんですか?この妖怪は普通の蚊と同じで夏だけ出没して他の季節は眠っているって聞いたのに」
「恐らくは温暖化の影響だろう」
座っていた玄武は立ち上がったかと思えば、甲羅に色々と物を詰め始めた。
「何時くらいに薬は出来ますか?」
「薬草が生えてある場所も覚えがある。恐らく三日後には出来るが、もう先約が居る「え、じゃあ「一週間経てば自然に戻る。それまで辛抱しろ「そんな」
余りにも失望した希羅の反応に、玄武は眉根を寄せた。
「幼児化しても働けるだろう。何が不服だ?」
「それは……」
遠慮がちに向けられた視線の先には崩れきった莫迦の顔があった。玄武は一抹の同情を感じつつも一週間など瞬く間に過ぎるから我慢しろと告げた。
「もしくはこの機に莫迦の行動を如何に躱すかでも探究しろ」
「玄武」
「何だ?」
真顔に変化した修磨に、玄武はようやくましな顔になったかと思って彼の発言を待ったが。
「俺に父性を抑える薬をくれ」
「…何だと?」
莫迦だ莫迦だと常日頃から思っていたが、今日ほど痛感した日はないだろうと、玄武は思った。
(莫迦よりももっと莫迦を指摘する適切な単語はないだろうか?大を付けるだけでは足りん)
玄武の呆れなど知る由もない修磨は真顔のまま言葉を紡いだ。
「希羅が可愛すぎて、俺は、俺でなくなる」
「そうか。なら、大暴走をしてあいつに嫌われることだな」
しれっと言い放った玄武は、これ以上は付き合いきれんと言わんばかりに颯爽と去って行った。
「修磨、さん」
玄武が立ち去った後、希羅は微動だにしない修磨を仰ぎ見た。名を呼んでも反応がないので、裾を引っ張ったがそれでも反応なし。必ず反応する効果覿面な単語が浮かばないでもないが過去の経験からそれは使わないことにした。
(でも、どうしよう。このままってわけにはいかないし)
「修磨さん。帰りましょう」
反応なし。
「ご飯食べましたか?まだなら、作りますから」
反応なし。
(ご飯でもだめなんて。他には思い付かないよ)
嘆息をつこうとした希羅だったが、その前に自分の腹の虫が盛大に鳴ってしまった。
「お腹減ったな」
力も出なくなってきた希羅はその場に座り込んだ。辺りを見渡しても鬱蒼とした木々が映るだけ。
夕日が徐々に姿を消し暗闇が世界を包もうとしていた。夜は妖怪が最も力を発揮できる時間。しかもここは妖怪が棲む森の中。悪さをする妖怪だけではないと分かってはいる。が。
春の季節にも拘らず、寒気を感じ身震いした希羅は目元に力を入れて立ち上がり、再度修磨の裾を引っ張った。
「修磨さん。私、修磨さんを嫌いになったりしませんから」
この時になって初めて修磨に反応が見られた。錆びついた鉄の扉を開くような擬音語を発しながら膝を屈して希羅に視線を合わせた。
「本当に?」
「はい」
(大暴走するのは止めて欲しいけど)
一時、二人は無言で目元に力を入れて見つめ合っていたが、修磨が突然両頬を幾度か叩いたかと思えば勢いよく立ち上がり、拳を作って腕を曲げた。身体中に力を籠めているようだ。
「希羅」
「はい」
修磨は身体中の力を抜いて、再度、希羅に視線を合わせた。
「嫌いになった時は、ちゃんと言ってくれ。我慢させてまで、一緒に居たいとか、全然思わねえから」
修磨は小指を立てた手を希羅に向けた。
「約束」
希羅は丸めていた手を広げて少しだけ動かし、もう一度だけ丸めたかと思えば、小指を立てて修磨の小指に絡ませた。
「約束します。だから修磨さんも約束してください。無理はしないって」
「何を?」
「何でも」
「…ふ~ん」
意味深に笑う修磨に、希羅は何か下手なことを言ったかと首を傾げた。
「あの」
その笑みについて尋ねようとした希羅だったが、修磨に頭の上に優しく手を置かれて口を閉じ、目を丸くして修磨に視線を向けた。とても温かく柔らかい笑みを浮かべていた。
「無理しなきゃいけない時もあるから、約束はできねえ。けど。そうだな。一つ約束する」
修磨は頭の上に乗せていた手を希羅の右頬に添えた。
「無理する時は無理するって言うから。だからそん時は、無理しないでって言うよりは、頑張ってって。応援してくれないか。て。悪い。俺ばっか約束させてんな」
修磨はふっと笑った後、不意に真顔になった。希羅は彼が告げる言葉を聞きたくなくて耳を塞ぎたくなった。が、腕が動かなかった。
「希羅。俺は」
(聞きたくない!)
希羅は固く目を瞑った。と同時に、ボンと言う聞きなれた音が耳に届き、恐る恐る瞼を開くと。
「な、なんじゃこりゃ!」
幼児化し、わなわなと身体を震わせる修磨の姿があったのだ。




