十六
「君にお母さんをあげたかったんだ!」
幾ら呼びかけても止まらなかった身体がピタリと留まり、数秒の静寂の中では小さな羽ばたきの音だけがその場を占めるが。
「何よそれ。あげる?物扱い?どんだけ女性を莫迦にしてんの、あんた」
沈黙を破ったその声音に籠もる怒気は膨らむだけで。
消えてはくれない。
「違う。話を聞いてくれ」
「…いいわ。聞きましょうか?どうせこれが親子の最後の時だろうし」
背を向けた姫叶の瞳には、月明かりに凍りついた父親の表情が映り。
一定の距離を保った隼哉はゆっくりと言葉を紡ぐ。
想いが届くようにただ、心を込めて、ゆっくりと。
「咲夜が、君のお母さんが亡くなって。僕は再婚を何度も勧められた。女の子には絶対母親が必要だと。でも僕は必要ないって突き返し続けた。咲夜以外の女性が妻にと、考えられないのもそうだったけど。僕が居れば十分だって。僕が愛情を注げば十分だって。けどそれは思い上がっていただけなんだ」
或る朔夜の晩に、君が声を上げながら泣いているのを聞いた。
お母さん、と。
何度も何度も呟く震える声を。
忘れはしない。
父親に心配をかけまいと、こっそりと隠れて。
月夜の光に照らされない日を選んで泣いている娘の姿に。
胸が潰れると思った。
「だから、咲夜に似ている人をお母さんにって。彼女は人間だったから新しい母親も同じ種族にしようと。どうやって選ぼうかと仲間に相談したら、帆須徒無の案が出て。各地を回って色んな人と触れ合って。僕たちの術にかからない人を第一候補に、今度はその人たちを一箇所に集めて、二人切りで話して。それで捜そうって」
吸血鬼の人口でも減ったのか理由は定かではないが、数百年前に人の女性を嫁に迎えて以降、人の血が交じる世代は吸血鬼から吸血羇へと名を変えた。
異種の存在の人と交わった遺伝子は食料として血を必要としない子を生み出したが、男の吸血羇だけは違った。彼らは寂哀の感情を持つ人の女性を自らに引き寄せ心を奪う化学物質をまき散らすという特異な体質を持ったのだ。
寂哀の感情を持たない生物など稀で、ほぼ全ての女性は彼らの特異な体質、術にかかった。だがその稀な女性、寂哀の感情を持たずに幸楽に満たされている者。また、その感情を持っていたとしても彼らの術にかからないほどにその感情に支配されている者は、術にかかることはなかった。と、彼らは長年の調査からそう推測した。
隼哉は一族の長でもあり、術の効果も他の者より強力であったが、妻の咲夜はその術にかかることはなかった。
その原因は分からずじまいだったが、結婚を申し込んだのは、彼女からであった。
無論、隼哉が妖怪の一員、吸血羇だと知って。
「噂で色々流れているのは知っていた。記憶を失って戻って来たとか。でも、僕たちは非道なことは何もしていない。ただ……吸血羇だと告げただけで」
(希羅ちゃんには、申し訳ないことをしてしまったけど)
恐怖に慄く表情を見るのは辛い。
だがそれ以上に娘に早く母を見つけたいと言う意思に支えられ、仲間に支えられて、捜し続けてきたのだ。
「今さっき、一人の少女と会っただろう?実は昔会ったことがあって。彼女なら大丈夫だと思うんだ。咲夜に、少し似ているし。勿論、姫叶が気に入らなければ「嫌よ」
今まで黙って耳を澄ませていた姫叶は組んでいた腕を下に下ろし、この時になった口を開いた。
その声音にはまだ、怒気が含まれているが。
「嫌よ。だって。私のことばっかり。父さんの気持ちは?父さんは再婚したいの?」
「姫叶?」
「父さんが再婚したいなら、私は別に誰でもいいわ。父さんを受け入れた人となら、私は上手く付き合うわよ。けど。話を聞いてても、そうしたいって父さんの気持ちが伝わってこない…もし私の為に無理して捜そうとしているんだとしたら、全然嬉しくない」
「母さん、欲しくない?」
「…分かんない。ただ友達が父さんと母さんと一緒に居る姿を見て、羨ましいなって、母さんを思い出して泣いた時もあった。母さんが、咲夜母さんが恋しくて泣いたの。母親が欲しいからじゃない……一言、訊いて欲しかった。母さん必要かって?そしたら答えたわ」
笑みを浮かべる。ほんの少し大人びた、綺麗な微笑を。
「父さんが必要なら、って。父さんが寂しい。ううん。違う。母さんと同じくらい好きになった人と一緒になりたいって想える人ができたなら。私は喜んで受け入れた。ねぇ、父さん。さっきの女の子に恋した?一緒になりたいって思った?なら私は反対しない。応援するわ。フラれたら、ヤケ酒にでも何でも付き合うわよ」
そう問われて初めて気づく。
自分の気持ちは何処にあったのかと。
娘の為だけ?
いや。
「僕は、あの娘なら、僕を受け入れてくれると思った。けど、それはきっと恋とかじゃなくて。計算じみた考えで」
「うん」
「僕は今でも、咲夜が、母さんが一番で」
「うん」
「忘れなきゃって。そうしないと進めないんじゃないかって。姫叶の為だけじゃなくて、自分の為にも。自分のこともちゃんと考えてのことだった」
「うん」
「でも。やっぱり母さん以上の人はいなかった。無理なんだ。忘れられない。この気持ちを抱えたまま、他の人を好きにはなれない……なりたくないのかもしれない」
「辛くない?」
「分からない。でも、姫叶が居るから、僕は大丈夫なんだ…姫叶、は?」
恐る恐る問い掛けた疑問は、一番勇気が要ることだったのかもしれない。
隼哉は下に俯きかける顔を必死に上に向け、娘の顔から視線を外さなかった。
そうしてはいけないから。
(莫迦だな、父さん)
どれだけ辛い目に遭って来たかは、容易に想像できる。
拒まれることほど、胸をえぐられることはないのに。
その可能性が高い人の女性の中から妻を、自分の母を捜そうとするなど。
(莫迦だよ)
姫叶が告げた言葉に耳を欹てた隼哉の目はこれでもかと見開き、くしゃりと顔を歪め、呟く。
愛していると。一生愛し続けると。
「姫叶~!」
「抱きつくな!莫迦父!」
怒気を含ませた物言い。だけどそれだけなのかは、姫叶だけが知る。




