九
(行きたくないな)
何時の間にかそのまま眠りに就いていたようで。居間に射し込む光が顔に当たる希羅は億劫な身体をゆっくりと起こした。
すんと鼻腔から全身に空気を送れば、或る匂いで落ち着きを頂く。
腰を上げて歩を進め土間に下りれば、何時もの光景は見られずに、匂いだけが漂う。
お玉を手に取り、鍋の中の味噌汁を掬い、こくんと一口啜る。
「苦いや」
その後、用意されていたおにぎりを食べて仕事に行く支度をして家を後にした。
(身体がだるい)
あまり眠れていない為か。町へ下りた希羅はゆっくりと道を一歩一歩進ませていた。
(洸縁さんと海燕にも、ちゃんと言わなくちゃ)
「希羅ちゃん、よね」
「あ。原さん。おはようございます」
目の前に現れたのは千歳の母親の涼夏で。何処か険しい顔をしている彼女に、会釈をして去ろうとした希羅は引き留められた。
「あの」
「顔色が悪いわ」
「一気に本を読んでしまって寝不足なだけですから、大丈夫です」
「休みなさい。私が草馬のとこに伝えておくから」
有無を言わさぬきびきびとした物言いで告げた涼夏は、いきなり希羅に背を向けるや中腰になった。
「帰るの大変でしょう?少し私のところで休んでいきなさい」
「いいえ。大丈夫ですから」
「あなたに訊きたいこともあるの。千歳のことで」
息をのんだ希羅に、涼夏はそのままの体勢で、されど声音は柔らかく変質させた。
「あなたが負ぶさるまで私はずっとこのままよ。かなり間抜けな体勢じゃない?」
「…分かりました。ですが一人で歩けますので」
知りませんと突っ張り退けることが出来ず。希羅は渋々涼夏の後をついて行った。
辿り着いた涼夏の家は二階建てのこぢんまりとした大きさで、一階の居間へ案内されたかと思えば、涼夏は素早く布団を敷き、希羅は問答無用で横に寝かされた。
「今滋養のつく飲み物を持って来るから、おとなしくしてなさいよ」
「…はい」
逃げ出すと思っているのか。再度念を押した涼夏は奥の部屋へと歩を進めた。
(見えるから逃げ出すなんて無理なのに)
間仕切りがない為、涼夏の後ろ姿はばっちりと見えており、しかもちらちらと此方を見られている状況だ。どうやって逃げろと言うのか。
(酸っぱい)
「私の元気の素。もう一つは千歳」
「そう、ですか」
一口含んだ後、一気に飲み干した希羅から湯呑を受け取った涼夏はそれを手に持ったまま口を開いた。
「無理は、してない?」
「はい」
希羅はきっぱりとした物言いで答えた。
これは嘘ではない。無理など、誰が。
「可愛くない顔してる」
そう告げるや、涼夏はおもむろに片腕を伸ばし希羅の頬を優しくつねった。
それは添えられている程度の力加減で。
「はっきり言う。希羅ちゃんは無理してる」
「そんなことないです。まだまだなんです。私は。もっともっと、頑張らないといけないくらいです」
「それは一人だから?」
思わぬ問いかけに、希羅は口を噤んだ。
(一人、だから?)
「梓音や柳、家族が居てもそう思えてた?」
「両親は居ないので、分かりません」
思わず噛みつくような口調になる。
「原さんの言う通りです。私は一人だから、強くならなくちゃいけないんです。一人で生きていけるように」
「どうしてそんなに一人になろうとするの?」
穏やかな水面のように静かな口調。
まるで道理を知らない子どもを諭そうとするようで。
「一人じゃ生きていけないことぐらい、あなたは知っているはず。なのにどうしてそんなに一人を強調するの?」
まるで一人にならなければいけないみたいな物言いで。
(どうしてそんなに苦しそうな顔をしているの?)
(どうして放っておいてくれないの)
「ごめんね。お節介なおばさんたちで」
希羅の表情の機微を読み取ったのか。涼夏はあのねと言葉を紡いだ。
「梓音と柳の二人にはこの町の皆は全員と言っていいほどに面識があって、それでほとんどの人が恩を感じている。あなたにとっては見知らぬ人でも、私たちにとってはよく見知った顔になるの。勝手に親近感を覚えているのね。二人がよくあなたのことを話していたから。万が一自分たちに何か遭ったら、お願いしますって」
きっと思い出しているのだろう。懐かしげで、それでいて寂しげな表情を浮かべる。
「二人は夜空を輝かす大輪みたいな存在だったわ。周りを元気づかせた。それにこの町の皆が他の町の人に比べて妖怪への嫌悪感、警戒心が薄いのも二人のおかげ。まぁ、草馬のとこの海燕みたいに積極的に、と言う人は中々居ないけれど」
涼夏はくすくすと笑った。
声音から、表情から、雰囲気から。
どれだけ両親が慕われていたかが分かる。
娘にとってこれほど、誇らしく嬉しいことはないだろう。
だが、両親が素晴らしい人間だったからと言って。
「ありがとうございます。両親のことを其処まで言って下さって。けれど」
「千歳が迷惑を掛けてごめんなさい」
話の腰を折られ紡ぐはずの言葉を告げられずに、希羅はただいいえと告げた。
「一緒に遊んでいるだけですから。私も楽しいですし。迷惑なんかじゃないです」
「父親捜しを手伝うのも遊びの内?」
声をのんだ希羅は表面上冷静さを保ちつつ、どう誤魔化そうか脳漿を絞ったが。
「気付いていましたか」
「礼子、あ。私の夫の妹なんだけど。彼女から千歳に色々訊かれているって聞いてね。口止めされていたらしいんだけど。それに私が居ない時にこっそり家捜ししていたみたいで」
「千歳ちゃんに何も言わないのはどうしてですか?」
協力しようとしないのは分かるが、何故止めさせようともしなかったのか。
「私は未練がないけど、千歳はね。やっぱり父親だし、会いたいって思うのが普通だから」
さばさばした物言い。希羅にはその言葉が本音だと思えるが。
「実は今この町に来ている帆須徒無の『緑柳紅花』に仁夛と名乗る人が居て」
人相や体格を告げた希羅に、多分と、涼夏は何処か言いにくそうに言葉を紡いだ。
「あの帆須徒無が来てから数日してあの人を見たのよね。だから、本人だと思う」
全然変わっていなかったと淡々と告げた涼夏に、希羅は口を開いたが直ぐに閉じた。
「ごめんね。自分勝手な都合だけど私は会わない方がいいと思ったの。関わらない方がいいって。あの人の為に」
「…千歳ちゃんも、一緒に暮らしたいとは言いませんでした。ただ会いたいと。お母さんの気持ちを察しているのでしょうね」
問いかけたいことは他に幾つもあるが、希羅が千思万考した結果がこの言葉で。
「仁夛さんは、千歳ちゃんに会いたくないのか、忘れているのか。涼夏さんの名前を出しても無反応で」
本人である可能性が高まった今、仁夛さんの確認を得ずともよくなったわけだが。
「二人を会わせていいのか、迷っています」
詳しく事情を訊けば何か糸口になるかもしれないが。
(こういう時、二人はどうするんだろう?)
きっと、いや、必ず、三人にとって最良の答えを導き出すに違いないが。
(私は本当に無力だ)
目の前に居る人たちを会わせることすらできないなんて。
「涼夏さん。私は、千歳ちゃんの願いを叶えたいです。会わせてあげたい」
「私は、協力できないわ」
何時の間にか頬から手を離していた涼夏に、はいと告げた希羅は足を整え真正面に身体を向けた。
「一つだけ、お訊きします。千歳ちゃんにとっては会わない方がいいでしょうか」
答えは分かっていたが、きちんと問い掛けてみたかった疑問に、涼夏は希羅の考えた通りの想いを口にした。
「おまえ。何をしているんだ?」
「えと。かっこういい人がいっぱいいるって聞いて」
午後の時刻だった。修磨が店から出ると、その前でうろちょろしている女の子が目につき。
今まで声をかけなかったが、単なる気紛れなのか。初めて声をかけたのだ。
「ませた子どもだな。俺に会えたことを幸運だと思って、あと十年は待つことだ。いいな?」
「はい。ごめんなさい」
しょぼんと落ち込む姿に、されど修磨はくるりと背を向けスタスタと戻って行った。
が。
戻って来たかと思ったら、千歳の前に一枚の紙を差し出した。
「ほら。どいつがいい?一人だけなら会わせてやる」
「ほ、本当?」
思わずのけ反りそうなほどに喜色満面の表情を浮かべた千歳に、修磨はふっと笑みを浮かべた。
「疑い深いやつだな。俺の気が変わらない内に早く選べ。一・二「じんた!!さんて言う人がいい」
その名に不穏な空気を発せられそうになるが、奥底に引込める。
(子どもに好かれやすい顔なんだな。忌々しいやつ)
見た目だけで好かれていると勝手に解釈した修磨は待っていろと告げるや、また店の中へと戻って行った。
千歳は渡された紙を丁寧に折り畳んで物入れに直し、シャンと背筋を伸ばして行儀よく待った。
ドキドキと早鐘のように心臓の音が鳴る。
(お父さん)
違うのかもしれないという考えは、どうしてか、思い浮かばなくて。
何度も何度もどう挨拶しようかを回想する中、此方に向かってくる話し声が聞こえてきたら。
「そんなに引っ張らないでくださいよ。焼売……さん」
「お父さん!!」
どうしても待ち切れなかった千歳は弓矢の如く仁夛の元へと駆け寄った。
向日葵のような満開の笑みを浮かべて。
「お父さん。あのね。私「お嬢ちゃん。ごめんね。僕は君のお父さんじゃないんだ」
しゃがみ込んで真直ぐに見つめられて告げられた言葉に、千歳は首を左右に振った。
「違わない。だって、じんたっていう名前「うん。けど、同じ名前の人はこの世の中に一杯居て。だから。ごめんね」
その否定の言葉に、今にも泣きそうな顔で何度も口を開閉させた千歳だったが。
「おじさん。はらすずかっていう女の人、知らない?せんこう花びしょくにんの」
「うん」
「おじさん。私の、お父さんじゃ、ない?」
「ごめんね」
「そう、なんだ。そ、っか。私、間違っちゃった」
勢いよく頭を下げた千歳が顔を上げた時には、笑みを浮かべていて。
「おじさん。ごめんなさい。間違っちゃった」
「ごめんね」
「ううん。いいの。じゃあ。私、帰らなきゃ。しゅうまい、さんも、ありがとうございました」
「おい」
修磨の呼び掛けに応じることなく、背を向けた千歳はその場を勢いよく駆け走って去って行った。
何が何だかいまいち掴めないが。
「おまえさ。本当にあいつの父親じゃないのか?」
「はい。あの子には、可哀想なことをしました」
きっぱりと断定した口調だけは、本音に聞こえるが。
「…ふ、ん。ま。どっちだろうが俺には関係ないけどな」
俺はまた眠ると告げた修磨は何故か不機嫌そうな足取りで戻って行った。
「…ごめんよ」
「いらっしゃいませ。今日は早いですね」
一時そのまま道に棒のように突っ立っていた仁夛の前に現れたのは希羅で。
険しい表情を浮かべているのは気のせいだろうか。
「今さっき、例の女の子に会いました。あなたに父親ではないと言われたそうで」
「はい」
「…少し、二人だけで話したいのですが宜しいですか?」
「今から、ですか?」
「はい。ご都合があるのなら申し訳ないですが、此方の方を優先して頂きます」
「いえ。丁度いいです。ああ、僕がそう言う場所を知っているので。此方です」
どうぞと手を差し伸ばされた希羅は仁夛の横に立ちそのまま歩き出した。
(二人で何処行くんやろうか?)
「ご苦労様、洸縁君」
「!?」
振り向く間もなく突如意識を手放されその場に崩れ落ちる直前に洸縁の耳に残ったのは。
「ごめんね。邪魔しないであげて」
以前にも聞いたことがある女性の声だった。




