二十八
希羅に少し出て来るからと言い、念の為見られないように山の中に入った洸縁は、自身の胸元から手のひらに収まるほどの小さな壺を取り出して蓋を開けると、むわりと緑色の煙がその場に立ち込め、その煙は徐々に丸く形作られていく。
丸い球体の名は『鬼喰い』。
希羅の父である柳と洸縁が希羅に憑りつかせていた妖怪である。
鬼の気を発する希羅の身体は人間の血肉が通うので、希羅は生まれた時から巨大な鬼の力に非力な身体を圧迫され続け、床から起きられる日など稀なほど衰弱していた。
様々な処置を施したがその甲斐なく。
このままでは死ぬかもしれないと途方に暮れる中、鬼喰いの存在を知ったのだ。
この妖怪は名の通り、鬼の巨大な力を喰らって生きる寄生虫のような存在だが、一方的に益を貰うだけではなく、時には鬼も手に余るその力を喰らうことで、鬼の力を制御する役割を担っていた。
だが柳が捜し出した鬼喰いは人を脅すことに生きがいを感じる性質の悪いやつだった。
それでも、娘の命を守る為ならば、と、彼は娘に憑りつくように、娘を守ってくれと、地べたに頭を擦りつけて頼み込んだのだ。
憑りつかせることに一応の了解をした自分はだが、この鬼喰いが気に喰わなく、何とか鬼の力を拡散させる方法を探しだし、早くこの鬼喰いに頼ることのないようにしたかった。
師匠である玄武にも頼み込み森の中で、自分もまた各地に赴き、治療法を探し続けた。
自分が脅し、また陰陽師である柳や梓音が傍に居たからだろう。鬼喰いは予想に反して何もせず、ただ鬼の力を喰らうだけで、希羅は元気に遊び回れるまでに回復した。
柳が、梓音が亡くなりさえしなければ、その平穏は続くはずだったのだ。
彼らが居なくなり、自分もまた旅に出ていて、自身を制御する者が居なくなった鬼喰いは本性を見せ出したのだ。
自分が数年かけて治療法を探しだすまでずっと、希羅の心を脅かし続けていたのだろう。
例えば夢で人を殺させる。
例えば動物の血を身体の部位に付けさせる。
反吐が出る脅しをずっと。
脅しをかけ、自分が傍に居る時は大人しくし、居なくなればまた脅す。
傍に居続ければいいのではと思いもしたが、それでは根本的な解決にはならない。
それではずっとこの鬼喰いを頼り続けなければならない。
唯一頼りにしていた修磨も、命に危害が無いならとわけの分からないことを言い、鬼喰いを放置していた。
修磨が梓音に会ったのは、彼女が死ぬ間際だったらしい。
梓音は一目見るやその正体に驚いたが、修磨自身にはその記憶はなかった。
だが娘の希羅を守ってもらいたいが為に賭けに出たのだ。
秘密を知っている。娘を守り切ったら、母に訊けと。
その賭けは勝ったとは言えないながらも、修磨はこっそりと希羅を守り続けた。
全く、おかしな話だ。鬼食いは放置しながらも、家を狙う輩からは希羅を守る。
だがそれは修磨が狭間で揺れ動いていた何よりの証拠だったのだろう。
「よくも希羅ちゃんを痛め続けたな」
これ以上ないくらいに怒り、凄味のある声音を出した洸縁は宙に浮く鬼喰いを睨みつけた。
幾ら頼らざるを得なくても、やはりこいつにだけは頼むべきではなかった。
そう幾度思ったことか。それでも、他に術はなかった。
「俺が居たから、あの娘は死なずに済んだ。そうだろ?」
怯えた鬼喰いは声が震えた。
威圧感ある目の前の男、否、妖怪に。
「そうやな。君が居てくれたおかげであの子は死なずに済んだ。けどな。あの子を死なそうとしたんは君や」
死のうとしたのは確かに。
家族が居なくなったことが一番の要因なのだろうが、実は此方の方ではなかったではと思い始めたのは、情けないが、つい先程だ。
それほどまでに追いつめられていたのだ。
人を殺したかもと怯え続けたあの子の心情は計り知れない。
どれだけ傷つき続けたのだろう。
どれだけ。
だが。
もう、苦しませはしない。
洸縁は冷めた目つきで鬼喰いを見た。
こいつにすべきことはただ一つ。
けじめを付けさせるだけだ。
その場の温度が急速に冷え切って行く。
鬼喰いは身の危険を察し逃げようとしたが、叶わなかった。
小さな爆発音がしたかと思えば、鬼喰いの姿は消えていた。
「俺も、殺したいほどに憎んでるんだろうな」
事の次第を見つめていた修磨は洸縁の前に立った。
希羅や海燕に、人に見せることはないであろう、別人のようなその冷たい表情を幾度見せられてきたか。
それでも当時の自分は何とも思わなかったが、今となっては。
後悔している。
言葉にすれば簡単だ。
鬼だ人だと拘り続けた結果、希羅を苦しませ続けた。
痛めさせ続けた。
傷つけさせ続けた。
どれだけ悪逆非道な行いを続けてきたのか。
姿を見せられる資格は、生きろと言う資格など、微塵もなかったのだ。
今なら真実、そう思えるが、だから何だと言う話だ。
「希羅ちゃんから離れるんは、罪悪感からか?」
これもぞっと身震いするほどに、冷たい声音。
それでもほんの少し丸みを帯びているのは、修磨が変わったからか。
「それもある。が、それだけじゃない。この気持ちが本当なのか。離れてみないと分からないこともある。だから」
「僕がそれを赦すと?」
「ああ。自分勝手だってのは、百も承知だ。だが、その時は、俺も自分の気持ちに背きたくはない」
刹那、視線が交差し、先に沈黙を破ったのは修磨だった。
自分をそれこそ憎悪の念を抱いている洸縁は何故、希羅の傍に居ることを許してくれたのか。
疑問を口にした修磨に、洸縁は単なる気紛れだと言い放った。
「僕もずっと傍に居れるわけではなかったし、ずかずか入り込めなかった。その点。君は自分大好き、な妖怪やから。そんな人の気持ちなんて考えずにずかずか入り込んでいったやろ?希羅ちゃんにはそう言った荒療治が必要やないかな思ってな」
本当はそれだけではないのだが、まだ語る必要はないのだろう。
否。本当は。
(梓音。柳。僕は)
洸縁は開いていた手を軽く握った。
修磨が自分から希羅に近づいたことで、ようやく時間が動き出した。
彼が目覚める時、もう一人の少年も目覚めると言うこと。そしてそれは。
修磨と言う存在が居なくなる、と言うことだ。
だがそれはまだ当分、先の話だろう。だからそれまでは。
(もう少しくらい、楽しんでもええよな)
洸縁は希羅の前でしか修磨に飄々とした態度を取ったことはなかったが、存外彼をからかうのを楽しんでいた。
それに。
「ま、不甲斐ないんはお互い様やしな。そん時は、一応認めたるわ。けど」
彼だからではない。修磨自身を認めてもいいと思い始めたから。
「そう決めたんなら、今度こそあの子を守り切れ。いいな」
飄々とした物言いになったかと思えば、一変した刃物のように鋭く尖った声音、視線を自身に向ける洸縁に、修磨は目を逸らすことはせず、受け止めた。
洸縁は満足そうにふっと笑みを浮かべその場を後にし、修磨もまた、今度こそこの地から居なくなった。




