二十六
待ち伏せして驚かせようと、岩陰に隠れていた時だった。
無武装平和主義の父はそれでも、そう易々と殺される人物ではなかったのに。
女の人に前から切りつけられて、前のめりに倒れた。
出て行ったのは、鄒桧が梢と呼んでいた人が居なくなってから。
一瞬だけ垣間見たその人の表情は、歪んでいた。
それから岩陰から出て最初はのろのろと亀のように動いた足は、一気に駆け走る。
父の傍で座り込み、お父さん、と呼びかけると、父は笑みを向けた。
そして一言だけ告げたのだ。
喉が潰され、声に出すのが最早苦痛なほどに掠れた声音で。
生きろと。
それから数日経って。
弟が、母が流行り病に罹った。性質の悪いものだったのだろう。
赤子の弟は元より、風邪一つ罹ったことがないと自負する母でさえ、呆気なくこの世を去った。
母は父と違い、二言残した。
家と土地を守ってと。
生きてと。
時間軸は過去から現代へと一気に駆け抜け、景色が一変する。
希羅は二つの世界に迷い込み、一つの世界で母と再会し、一つの世界で何かを目にした。
一つは、春の陽気に包まれた、淡い桜色の花が舞い散る世界。
母との距離を縮めることはできず、ただ一緒に連れて行ってと。
声の限り叫ぶと。
母はほんの少しだけ手を動かそうとしたが、押し留まり、一言も発さず、ただ今にも泣きそうな笑みだけを。
自分に贈ってくれたのだ。
一つは、深海のように光りが一切届くことのない、ただ深淵の闇だけが支配する世界。
あれが何かは分からない。
鶏の卵くらいの球体のその内側で眠っているようにも、封じ込められているようにも見えた。
どちらにせよ声など届くはずもなかったのに、何を言っているのかさえも分からない声にもならない声を。
希羅は今、真っ白な空間の中を、身体を丸め込ませて宙に浮いて漂っていた。
(一緒に、連れて行こうとは、してくれてたんだ)
あの時、母は確かに。
自分に手を指し伸ばそうとしてくれた。
それは、自分に死んでもいいと言ってくれているようで。
ゆるゆると、頑なだった心は、解けて行く。
希羅の耳に届くは、修磨の声。瞼を閉じている彼女は分かっていた。
瞼を開けると言うことは。
生きる、と言うことだと。




