十八
「お願いします。息子さんを私にください」
「この野郎!」
「何でだよ!」
丁度家族五人で夕食を取っている時だった。希羅がいきなり海燕の家を訪れたかと思えば、突拍子な、かつ勘違いされそうな発言をぶちかましたせいで、養父である草馬――竹家具職人で何時も頭に鉢巻を付けている五十代の男性、にぼかりと頭を殴られた彼は、その拳骨の威力の余り頭を押さえ涙目になってしまい。
鼻息を荒くした草馬は情けないと、怒りで身体を戦慄かせた。
「おまえな。希羅ちゃんに言わせやがって。求婚する度胸もねぇ軟弱もんに育てた覚えはないぞ」
「勘違いすんな、親父。こいつが言ってんのは、俺をこいつの家の跡取りとして欲しいって意味なんだよ」
案の定勘違いしまくりの養父に呆れた視線を送った海燕は、痛ぇじゃねぇかと愚痴を溢していると、玄関に突っ立ったままの希羅を養母である和花――目元が柔らかでおっとりとした印象を持つ性格も温和な四十代女性、が床の間へと招き入れた。
「ありがとうね。こんな粗忽な息子を娶ってくれるなんて。嬉しいわ」
「おふくろ!」
希羅の手を握ったかと思えば、はたまた突拍子もないことを言い出した和花に、海燕は冗談じゃないと言わんばかりに声を荒げてしまった。
「だって、跡取りとしてほしいってことは、夫婦になるってことでしょう?私もおばあちゃんか」
心底嬉しそうな表情を浮かべる和花に、この状況を創り出してしまった希羅はようやくやんわかと否定し始めた。
「おじさん。おばさん。それはないわ」
「ああ」
「残念」
一斉に笑い出す三人に、一番の被害者である海燕が不満と怒気をぶつけようと足を床にどすんと踏み占めた時だった。
両肩を労わるように優しく叩き待ったをかけられ、海燕が後ろを振り返ると。
「にいちゃん、落ち着けよ。大人げないぞ」
二歳年下のくせに自分より一歩進んで大人びた雰囲気を醸し出す、何時も冷静な態度の義弟、勉が冷めた瞳で見つめていたのだ。
さらに。
「そうそう。それに、本当に求婚されたら嬉しいくせに」
もう片方の肩に手を置いた、三歳年上で美人という敬称がつく栗色の髪が似合いの、弟たちをからかうのが最早趣味の義姉、遊里が、この状況を面白いと言わんばかりに微笑んでいた。
「勉。俺は落ち着いている。姉上。心底嬉しくないから」
「あっそ。ならいいけど」
「嘘ばっかり」
二人に丁寧な返答を贈るも、素っ気ない態度の勉と未だに微笑んでいる遊里は、とりあえずの用事を済ましたのか。夕食の続きを再開し始めた。
(もう、好きにしてくれ)
賑やかな家族に囲まれ育った海燕は今日も彼らに振り回され疲れ切っていたのだった。
「で?」
「昼の続きをしに」
家に居ては落ち着いて話が出来ないからと、家から少し離れた通称『憩いの場』と呼ばれる、中央にどでかい池がある場所へと向かった希羅と海燕は、椅子の代わりに大きな石に横に並んで座った。
二人の天上には淡い光を放つ、まん丸の月が悠々と佇む。
「あいつは?」
「知らない」
(喧嘩して出て来たってとこか?)
素っ気ない物言いにも隠しきれないのか。
怒気を感じ取った海燕はそれ以上は深く突っ込まないことにしたが。
「幾ら頼まれても、俺は継がないからな」
「どうして?」
千思万考しても断る理由がさっぱり思いつかない希羅は、疑問をぶつけることしか出来なかった。
唯一思いつくとしたら家の外見くらいで。
「確かに。外見は、そりゃあ、貧乏ったらしいけど、隙間風とか全然「そういうことじゃないんだよ」「じゃあ、何よ?」
海燕は横目でちらと希羅を一瞥しながらも、すぐに視線を月へと移した。
「おまえさ。親父の仕事に興味があるだろ?」
「別に」
「嘘つけ」
素っ気ない物言いの希羅に、海燕は不満げに口を尖らせた。
海燕の父、草馬は竹を使った民具を作り、それを母である和花が売っていた。
希羅は母の手伝いとして店の売り子をしていたのだが、商売の方ではなく製造の方に心奪われたのだと気付くのは容易だった。
本人は自覚していないのだろうが、職人の父を見ている時の、瞳を爛漫に輝かせて嬉しそうな、あの顔を見せられては。
その時の顔を思い起こせば、希羅は生きることを楽しんでいるのだ。と実感できるのに。
「苺大福は好きだし。つーか、食べ物に関しては全部か」
食い意地張っているからなと、海燕は少し表情を和らげ言葉を紡いだ。
「桜。向日葵。紅葉。そんな季節を感じさせる植物も。空も。それに、俺も俺の家族も、櫁も、岸哲も居る」
「何が言いたいの?」
意味がまるで分からない希羅は顔を海燕に向けたが、海燕は月を見上げるだけ。
ぽつりぽつりと当たり障りのないように言葉を紡いだ海燕は、言いあぐねて一時押し黙ってしまった。
―――家族が居なくちゃ生きていけないのかよ。
頭の中ではそう問いかけたくとも、実際に口に出すことなど出来ない。
肯定の言葉が怖いのだ。
もしそうだと言われたら、どう答えればいい。
生きていて欲しいのに。
不意に脳裏を過るは家族を喪った直後の幼い頃の希羅で。
人はこんなにも涙が出るのだと、初めて思い知らされた。
声を荒げながら泣いて。
息を殺しながら泣いて。
疲弊しながらも泣いて。
一日中泣き尽くして。
それでも希羅の眼からは止めどなく涙が滴り落ちて来た。
泣くこと以外の活動を拒むかのように、泣くか寝るかを繰り返す生活が数日間続き。
希羅は一人、『死人の森』へと足を踏み入れたのだ。
家族の元へ行く為に。
『師匠!行かせてくれよ!』
大人が居る時は力ずくでも止められると思ったのか。希羅が動き出したのは同じく幼い自分が傍に居る時だった。
頑なに家から離れることを拒んだ希羅を心配して傍には必ず一人の大人が居たのだが、その時に限っては皆、そうすることが出来ずに、自分がその役を任されたのだ。
だけど、そんな時でも生理現象は襲って来るもので。まさか一緒に厠に入れるわけにもいかなかったから、絶対にその前で待っているように念を押し、扉を閉めた。
急いで扉を開けようとしたがその前に何かが置かれていたようでなかなか開けることが出来ず、漸く出られた時には希羅の姿はなかった。
何処に行ったかなんて、すぐに分かった。
山の周辺は此処から先、出入り禁止だと即座に分かるように、朱鷺の血で染め上げた水蓮と言う火に燃えず頑丈な、小さな紅の花を咲かせる植物で編み込まれた紅色の注連縄が横方向に奥も上下も何重にも囲まれて、さながら強固な壁のように立ちはだかっていた。
希羅の家から森までは走り駆ければ幼い足でも、ものの数分で辿り着くこと出来る。
凹凸のある注連縄に手を伸ばそうとした時だった。
後ろから肩を掴まれ振り返ると、其処に居たのは、自分が師と仰ぐ洸縁だったのだ。
『希羅が!死んじまう』
激昂にも悲鳴にも似た声音を吐き出した自分は恐怖と疑問で顔が歪む。
それでも、行かせまいと、師が肩を掴む手を緩めることはなかった。
『希羅ちゃんなら大丈夫や』
『大丈夫なのは妖怪だけだ!』
人である希羅が中に入れば死ぬだけだ。
なのに。
顔をほんの少し上に上げて睨み付けると、振り解こうとしても微塵も動かなかった手は肩から頭に移り、師はやるせなさそうに、何時もの人をおちょくるようなものとは違う、ほんの少し寂しそうな笑みを浮かべながら口を開いた。
師の言うように。希羅は数日経ってから森から帰って来て。
その日から、生きる為に必要な最低限のことをし始めた。
朝昼晩の三食を取ること。その為におふくろに料理を教わった。
部屋の掃除や洗濯、食器洗い、買い物の仕方などの家事全般も。
金を得る為におふくろの仕事も手伝った。
人との交流も欠かすことはなかった。
好物を見つけ、生きる楽しみも捜した。
『家の跡取りを見つける』という生きる目標も掲げた。
そう。
全ては最低限のことだけを、し続けている。