十五
「?どうしたんだ」
「あ、ちょっと、包丁で切ってしまって」
朝食の支度を終え、前日のように修磨を起こした希羅の片手には包帯が巻かれていて。
「そうか。なら後で怪我に効くいい薬を河童から貰って来てやる。あいつらの薬は天下一品だからな」
「あ、ありがとうございます。あの、私も今日、町に出かけるんですけど」
「俺は森の方に行くからな。…じゃあすぐに行って来るからちょっと待っててくれないか?」
「え、あの」
「守護神だからな。すぐに戻る」
そう言うや、すぐにその場から駆け走って行った修磨の背を、ただ黙って見つめるしかできなかった希羅はその背が見えなくなって後、手に視線を移し戦慄く唇を強く噛み締めたら、血が口の中に漂った。
「おい。まだかよ?」
「はぁ。礼儀のなってない子どもだな。今作ってんだろ?」
「遅い」
「まだ、一時間も経っとらんわ」
―――山の中の湖沼にて。
其処に辿り着いた修磨は大声で河童を呼び出すと、沼地から皿だけを見せながらゆっくりと修磨の居る陸に近づき、ゆっくりと手を地面に掛け、ゆっくりと上がろうとしたら、修磨に引っ張り出されたのだった。
緑色の身体の背には土色の甲羅、菜種色の鳥のようなくちばしに、透明な白に近い皿を頭に乗っけた河童は、齢千年は生きている大妖怪中も大妖怪なのだが、何故か人の中では胡瓜を盗むだけしか取り柄のない妖怪としか知られていない、ちょっぴし残念な妖怪ではあった。妖怪の中では『先生』と呼ばれるほどに医術に長け、また物知りな素晴らしい妖怪として、広く敬われていると言うのに。
だからこそ、河童からしてみれば自身に対しぞんざいな言動で接する修磨のような相手は久しく相見えることはなかった。それは修磨がただの礼儀知らずなだけか。それか。
「おまえ、生まれて何年になる?」
河童の偉大さを知る由もない生まれたてのひよっこか、だ。
「二百余年」
「威厳持たせようと嘘つくなっての。まだ、数十年ってとこだろ」
(いや、もっと若いか?しかし、こいつ。鬼の気は発しているが)
「おまえの親の名は何と言う?」
「あのな、俺は薬を貰いに来たんだ。あんたと質疑応答する為じゃないっての。後でちゃんと相手してやるから」
河童は思った。こりゃあ、両方だな、と。ひよっこ、かつ礼儀知らずなだけだと。
薬を急かされた河童は修磨の頭の先から足のつま先まで、ざっと検診したが。
「何処も怪我しとるようには見えんが。ああ、莫迦を治したいのか?ならそう言え。今、開発中でな」
そう言うや、河童は背に負う甲羅を地面に下ろし、パカリと蓋を開いた。実はこの甲羅。身体の一部にも拘らず取り外し可能なもので、河童たちにとっては道具入れのようなものであり、其処に採取した薬草やら医術道具やら薬やらを収めていたのだ。
一方、お目当ての薬を未だに貰えないどころか、莫迦呼ばわりされた修磨の苛々は頂点に達した。
「早くしろ」
「礼儀をわきまえろよ、ひよっこ」
飄々とした口調を一変させた河童は地面に落ち着かせていた腰をゆったりと上げた。
威圧感のある態度に、されど、血気盛んなひよっこは立ち向かった。
「偉い偉い。これで満足か?」
「わしをおちょくっとんのか、おまえは」
自身の皿を撫で声で撫でる修磨に、されど河童は声を荒げることはなかった。だって、千才だし。腹を立てる、なんて、浮世から逸脱したこの偉大な自分がそんな邪道なこと、するわけがないじゃないか。あはは。
「?何だその手は」
「金」
「……は?」
「薬ができたから金を寄こせって言ってんだよ」
河童は目を点にする修磨に差し出した手を上下に動かし、金を催促した。何時薬ができたって?腰を上げる少し前だよ。
「早く欲しいんだろう?…まさか、金持って来てないとか、ふざけたことを「言う」
河童はにこやかに微笑み、深く息を吸い、深く怒気を吐いた。え?怒ってなんかないよ。
「おふくろからは、この『境界の護森朴』に住む河童は崇め奉られるに相応しい妖怪だって聞いていたのにな。まさかこんな金欲にまみれた、まぁ、妖怪も千差万別だからな。いいんだよ、そのまんまのおまえで」
肩に優しく手を置き、尚且つ憐みの視線を向ける修磨に、河童はにごやがに笑った。
相手はひよっこ相手はひよっこ。自分は天才。自分は偉大。自分は大人。その差は天と地球の奥深くに存在する核まで有する。
河童は両腕を大きく開くと同時に、この山の新鮮な空気をその身に宿らせ、胸の前で交差させると同時に、子どもな感情を吐き出した。生き物は何年経っても俗世の感情にまみれているのさ。けど、自分は違うよ。
「何やってんだ?」
「運動だよ。年を取ると身体を動かさなくなるからね。君も良く覚えておくといい」
「…何を?」
「運動こそ、長生きの秘訣だってことをさ」
「わかった」
河童は穏やかに笑った。
良い子じゃないか、素直だし。欠点ばかり見ていたら、つまらないよ。はは。
寛闊な河童は金は後払いでいいと言い、笑顔で薬を渡し修磨を見送った。
「ったく。おまえの息子だろ?あれ」
「元気で素直な子でしょう?」
「身の丈知らずの莫迦正直って言うんだよ」
河童は樹の枝に留まる一匹の夏の空のように真っ青な小鳥を見つめた。この声の主はこの式神を通して河童に話しかけたのだ。
彼女の名は『譲り葉』。修磨の親ではあるが、鬼ではなく人、しかも貴族出の陰陽師であり、またこの名は代々継承されていくものでもあった。
河童とはその名を受け継ぐ為に此処を訪れた時に出会ってからの付き合いであった。
「べ、別に、修磨が家を出て行ってから、今も気付からないようにこっそりと追いかけている最中とか、そんなことないわよ。そんな、子離れできない、かつ異常な親みたいな行動は全然とっていないからね」
「わし、引いたわ」
何も訊いていないにも拘らずに口早矢にそう告げた譲り葉、正確には青い小鳥に、河童はげんなりとした表情を向けた。
「あなたも親になったら分かるわよ。子を手放し難い親の心情ってのが。もう、辛いんだからね」
「あ~。偉い、偉い。其処までの経過はどうであれ、一応、手放せてんだからな」
旅に出ることを許したところが、一応、手放せていることにもなるのだ。こっそり付け回ろうとも。……手放せているのか?
「ふふん。でしょう?」
拗ねたような涙声から一遍、誇らしげな声音になった譲り葉に、河童は嘆息を一つ吐いた後、口角をほんの少し上げた河童の脳裏には、この山で出会った複数の少女の姿が浮かんでいた。
その内の一人は『譲り葉』継承人候補だけが袖を通すことを許される白装束に身を包む、この山に全く物怖じせずに闊歩する五歳にも満たない幼い人間の少女。
一人は農民の出とすぐ分かる身なりで泣きじゃくりながら彷徨う十歳にも満たない少女。両者とも、その身一つで人の世では『妖怪の棲家』別名、『死人の山』に足を踏み入れたのだ。
妖怪の世では『境界の護森朴』と称されるこの山は妖怪だけを受け入れる場ではあるが、或る儀式
時のみ特定の人の子が入ることを許される。
『譲り葉』継承人候補が山に認められるかどうかの機会を得る、と言うことである。
通常、『譲り葉』継承人候補以外の人の子がこの山に侵入すれば、例外なしにかつ、容赦なく殺される。
妖怪にではなく、山、否、『――』にだ。
だが、その子らは両者ともに生き残り、一人は一年後に、一人は数日後に無事にこの山を去って行った。
つまりは、山に認められた、と言うことになるが、その理由は二つしか考えられない。
一つは『譲り葉』として認められたから。もう一つは。
妖怪として認められたから。
一人の少女の名は『譲り葉』、もう一人の名は、希羅。
どの世の理にも、例外は存在するのだろうか。