十二
さらに時が流れて現在。七月二十三日。早朝。絆繁草。希羅の家の畑にて。
前日に我が家に帰ってきた希羅が、この土地で唯一食料として手ずから育てている大豆の草花を目を細めて眺めていると、ふらふらと危なげに歩いてくる宗義に気づいて駆け寄った。
「宗義さん。何処か怪我でもしたんですか?」
一見しただけでは怪我をしているようには見えなかったが、顔色がひどく悪かった。加えて気になるのは、
「希羅ちゃん。これ。どうにかしてくれ」
先日の夜に出てくると行ったっきりだった宗義。弱弱しい声音で、腕に抱えていた木魚達磨を希羅の眼前に差し向けた。
「俺。一日に十時間は寝ないと十分に動けないんだよ」
昼夜眠らず目をつぶらない魚は不眠不休を意味することから、修行僧の戒めとして作られた木魚と、不眠の逸話を持つ達磨が合体して付喪神化した木魚達磨は、人に憑りついて、自身が眠れぬ苦しみを同じ不眠という形で与え続ける。
「おまえ。面倒なもんを連れ込むなよな」
「修、靖修」
希羅が振り返れば其処に居たのは、怒りと呆れがない交ぜになった表情を浮かべる修磨だった。彼は言い慣れないながらも特別な名を口にしてくれた希羅を、ちらと一瞥して口元をほんのり緩めて後、さっさと家の中に入れと宗義に告げた。
「琵琶牧々(びわぼくぼく)やないと、木魚達磨を追い払えないわ」
下手な者は鳴らないと言う琵琶の名器、玄象牧馬が妖怪となった琵琶牧々は、頭部が琵琶でそれ以外は人間の姿になって、日本中を行脚して美しい音を奏でて廻る。
木魚達磨は琵琶牧々の音を聴いている時だけは、眠りに就けて、目を覚ました時には満足して姿を消すと言われていた。
家の中に入れば、土間で柳と朝食の準備をしていた洸縁が修磨同様に呆れと怒りがない交ぜになった表情を浮かべて宗義の前に立つや、そう告げて、宗義の後ろに立っていた修磨に、はよ探して来てと言った。修磨の額に血管が浮かんだ。
「はあ?ふざけんな。何で俺がこいつの為に動かないといけないんだよ」
「このままやと、希羅ちゃんも僕たちも不眠になるで」
修磨は閉口し、ギっと宗義を睨んだ。
(きゃっきゃうふふと嬉し楽しい貴重な三日間の幕開けに面倒事を持ち込むやがって)
『蛍火の儀式』が行われる八月七日まで十六日間。うち、三日間は余計なことは一切合切排除して、楽しむと決め込んでいた。あとの十三日間は地球探索、及び己の正体探求に費やすのだから。
(それをこいつは、)
知るか、と、追い出すのは、宗義の身体能力を考えればあまり容易くはないものの、可能ではあった。だが、それをしなかったのはひとえに、希羅が居たから。本物の父親である柳に負けたくなかったから。
『あの子を、忘れてくれ』
『赦さない。ぜってー、殺す』
修磨は舌打ちしそうになるのを寸でのところで食い止めた。
この頃、ふとした瞬間に意識が飛んだかと思えば、見知らぬ声が頭の中で響くのだ。
見知った者でも、梓音のものでも、ない。何処かで聞いた覚えさえない。
しかし、見当は付いていた。
知らない己に繋がる記憶だと。
「ごめん。厄介事連れ込んで。でも、急いだほうがいいかもしんない。これが置いてあったお堂付近の村で、眠れないってやつがいっぱい居たから」
宗義の発言に、洸縁は振り返って柳を見た。柳は頷いて宗義から木魚達磨を受け取っては、希羅の名を呼んだ。
「笥簪の術を使って木魚達磨を囲んでくれないか?その周りを俺がさらに結界で囲む」
「おまえだけでいいだろ」
了承の意を返して、土間に直接置かれた木魚達磨に早速術を発動させようとする希羅を横目に、荒げそうになる声音を調節して、努めて冷静に告げた修磨。俺を差し置いて何を親子共同作業なる羨ましいことをしようとしてんじゃと、嫉妬で燃え盛っている。
「ああ。木魚達磨は通常憑りついている人間一人しか不眠にさせることはできないはずだから、琵琶牧々を連れてきてもらうまでの時間、本当は俺一人で何とか対処できていた。だが、宗義が村で眠れないやつがいっぱい居ると言った。つまりは、力が予想以上に強いことを示している。俺一人じゃ、駄目なんだ。木魚達磨と相性がいい竹の力が使える希羅が必要なんだ」
言われるまでもなく理解していた修磨は口をへの字にしたかと思えば、さっと、衣を翻して、家の外から出ていき、即座に戻ってきた。その手には、土から掘り起こした一本の大豆を持っていた。
修磨は希羅に使えと言った。
「大豆も木魚達磨には相性がいいだろうし、元々竹同様に神聖な力を持つ。役に立つ」
(俺の力も込めているし)
希羅はきっと気づいてないだろう。かつて、力を流したこの大豆を渡したのが自分だと。
それでよかったのだ。気づかないままでいい。あんな非道なことを言ったのが自分などと、気づいて欲しくなどない。
笥簪の術を使ってすでに木魚達磨を竹で囲んでいた希羅が一瞬躊躇しながらも、次には修磨から受け取ろうと手を伸ばすと、修磨は間に大豆の苗を挟んで、やわく、その手を包み込んだ。
「希羅なら大丈夫だ。竹と大豆。うまく掛け合わせられる」
うまくできるか。父に頼んだほうがいいのではないか。弱気な心はお見通しだったのだ。
希羅は指先にだけ少し力を込めて修磨の手に触れた。修磨は歯を見せて満面の笑みを向けた。
手を離した瞬間はきっと同時であっただろう。
「ん~。何があったの?」
眠気眼で起きてきた零に、柳が簡単に説明すると一気に意識を覚醒させて、俺も修磨と一緒に行くと言うなり、手早く着替えた。
「父さん。いいよね?」
「ああ。だがな」
スッと、目つきを鋭くさせた柳に、手早く動いた洸縁以外全員の視線が集まる中、柳は無邪気な笑みを向けて、朝飯を食べようと告げた。
否と言う者は誰も居なかった。
準備を手伝い、と言う洸縁の張り切った声が部屋中に拡散。零と修磨が素早く動き出したのであった。
洸縁が手伝ったわりには、珍しく美味しいと素直に言える朝食を終えて後、木魚達磨に憑かれている宗義と、結界を張る希羅と柳は家に残り、修磨と零、洸縁が琵琶牧々捜索に向かった。
「二手に分かれるで。僕は式神を使って、京都全体を調べる。君たちは京都市を重点的に捜索し。柳が朱儒に要請したから、はよ見つかると思うけど。さっさと終わらせるで」
「ゆずと道具屋、羅葦も居れば良かったんだけどな」
ゆずは戻って来た玄武の手伝いに行き、道具屋と羅葦は親しい者同士で過ごせばいいと言い置いて、共に三日間だけ此処から出て行っていたのだ。
「師匠にも伝えておいたから大丈夫や。ゆずさんも手伝ってくれるやろ。あいつらは姿くらませるのうまいだけあって、連絡は付かんけどな」
(相変わらず敵意満載だな。まあ、分からないでもないが)
希羅が死のうが構わない。言う道具屋に腸が煮えくり返るが、敵意はそう、ない。
鬼として。同族だからこそ分かる。地球を切望しているのだ。
洸縁は修磨から零へと視線を向けた。修磨に肩車してもらっている零はにっこりと笑った。血の繋がりはないはずなのに、幼い頃の希羅を彷彿とさせる笑みだった。
「零に怪我負わせたら赦さんで」
「愚言だな」
不遜に笑い合う洸縁と修磨。じゃあなと言っては、散開した。