十一
「おい!」
修磨は磯女の頭に近い髪を鷲掴んだ。
磯女は痛みを感じるでもなく、短い笑いを織り交ぜながら、彼が欲している答えを述べた。
「ヒ。あれはあの娘がヒッ望んでヒいるコト」
吐き出される息は蛇のように見えた。
「己の身体ヒッから全てのヒャ血液がッハ流れヒ落ちるようにヒとなあ」
「死にたいとヒなあ」
耳につんざく高笑いに景色が一色に塗り潰された。
「し「死ネ」
背筋が凍りつくような声音と共に、磯女の腹を貫くのは、氷の刃。
一瞬にして磯女の爪先から毛先まで氷漬けにされ、亀裂が走る音がしたかと思えば、塵となって消えた。
その瞬間まで、けたたましい笑いを発しながら、磯女は死に絶えたのだ。
洸縁は零に突き飛ばされ、隙あらば希羅を殺そうと様子を窺っている夕映に視線を向けた。
その手に握る氷の刃のように冷たい目だった。
「止めとけ」
洸縁と夕映との間に距離はあったが、彼の射程範囲内。
修磨は持ち上げようとした腕を抑えた。
その手には氷の刃が握られている。
研磨に研磨を重ねて結果、滑らかに、そして鋭利に仕上がった氷の刃『白日』。
使い手は火傷に耐えながら握る手と一体化させるそれを対象に貫かせる。
「あいつは希羅ちゃん殺そうとしたやろ」
「泣いてんだろ」
修磨にそう告げられて視野を広げると、夕映の傍らで涙を流す舞李が居るのに気付いた。
「あいつを殺すとあの娘は一生悲しみに暮れたままだ」
「別にええやろ」
修磨は目を細めた。
洸縁はおもむろに修磨に視線を戻した。
瞳の色はより一層冷酷さが増していた。
「僕らが護るべきは希羅ちゃんただ一人や。他はどうでもいい。違うか?」
その通りだと、修磨は思ったが、気に食わない気持ちが沸々と沸き上がった。
(おまえがそんなこと言ったって知ったら、希羅が悲しむだろうが)
「記憶、消そか」
「は?」
耳に届かず怪訝な顔をして聞き直した修磨。洸縁の異様な姿に張り倒したい衝動に駆られた。
だが、洸縁もまた修磨の声などもう耳に届いていないかのように、希羅だけを瞳に映しながら独り言を繰り出した。そしてその度に口の端が上がって行った。
「そうや。あの子だけやなく梓音と柳の記憶も消せば。希羅ちゃんはもう苦しまんで済む。最初から僕らだけが居たことにしたらいいんや」
「おい」
修磨は洸縁の肩を強く掴んだ。
だが洸縁は全く意に介せず言葉を繰り広げる。
「僕らだけ居たら善い。僕らだけで護れば善い。希羅ちゃんは何もせんで善い。そうや。あれも消さんと。あれもや」
「お「子どもの成長を妨げる親ほど最悪なもんはないのう」
「道具屋」
道具屋は修磨と洸縁の間に割って入り、自然、修磨の手は洸縁の肩と腕から離れて、道具屋と洸縁の二人が対峙する形となった。
「君も、消さんとなあ」
他に対し何の反応も示さなかった洸縁はだが、道具屋だけには別だったようで。彼を瞳に映すと同時に、その脇腹を押し潰すように刃を真横へ叩きつけようとした。
が。
道具屋がその刃を掴んだかと思えば、握り潰した。
粉々に砕け散った刃が細雪のように海中を一時漂い、そして儚く消える中、洸縁は動揺することなく取り出した扇を剣へと姿を変えさせ、道具屋に襲いかかった。
「おーおー。血気盛んなやつだのう」
「その口を閉じろ」
呑気な口調に、要らぬ感情が蒸し返される。
「おい」
洸縁の私闘を道具屋が買った状態。闘いでも戦いでもなく言うなれば。
「穏犬と闘牛士ってかの」
「おまえ…結局来たのかよ」
忽然と姿を現した羅韋に、されど動揺よりも苛立ちが増す。
(違うだろ。今はどーでもいいだろうが)
真っ先に向かうべきは希羅の元であるべきなのに。
何故磯女を優先した?
何故他に目を向ける?
希羅から目を逸らす?
今でさえ、何故?
修磨は額に掌を押し当て、目を強く結んだ。
「修磨!」
悲痛な叫び声に、真っ先に向けられた瞳は、その声の主を鮮明に映す。
その声の主が抱きしめる、
(おまえが……おまえが呼ぶんじゃねえ)
苛立ちが増す。
憤怨が募る。
希羅を一人遺した梓音に。柳に。零に。
その名を呼ぶことさえ赦されるはずもない己自身に。
「希羅!」
咆哮が生んだ風は、それでも微風程度。希羅の髪を軽く揺らすだけ。
ゆらゆらと、風に弄ばれる綿のように。
石は落下を続けていた。
ぬるま湯に浸かっているかのような心地良さを感じながら。
徐々に小さくなって行くのを実感しながら。
思考は完全に遮断されたまま。
静寂と暗闇だけが占める世界の底へと向かう。
だが、永遠に続くかに思えた落下は、世界の崩壊と共に唐突に破れ去った。
幾重もの皿が地面に叩きつけられた時同様のけたたましい音が耳に届き。
暗闇の世界に一筋の光が差した時。
石は確かに叫んだ。
思考の余地なく。
本能の赴くままに。