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帝国海軍三式中間練習機

作者: 山口多聞

 大日本帝国海軍の中間練習機と言えば、「赤とんぼ」の愛称で親しまれた九三式中間練習機である。この機体は複葉布張で固定脚と言うスタイルであったが、安定した飛行性能を誇り、ヒヨッコパイロットを育てるには打って付けの機体であった。


 しかしながら、九三(昭和8年)式とあるように、日進月歩で飛行機の性能が向上しているこの時代にあっては、いつまでも満足できる性能ではなかった。


 そこで帝国海軍は中小飛行機メーカーの一つである渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に、輸入したアメリカ製のBT9型練習機を模倣した新型中等練習機の製作を命じた。


 こうして完成した試作機であったが、その性能は海軍の期待を裏切るものであった。練習機である以上、飛行性能が低いのは仕方がない。しかしながら、この試作機体はそれ以前の問題を抱えていた。安定性能が悪いと言う、練習機として致命的な欠落を露呈してしまった。


 加えて、この機体はモデルの機体から変わらず固定脚のままであった。既に時代は引き込む脚へと移りつつある時代の中では、例え欠落を改修した所で明らかに時代遅れな面が否めなかった。


 そうしている間に、1941年12月8日、日本はアメリカを中心とする連合国に宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。パイロットの育成は急務であり、早急な時代にあった練習機の配備が望まれた。


 そんな中、開戦直後に吉報が入った。隠密裏にインド洋に展開した仮装巡洋艦が、米国からオーストラリア向けの練習機を運んでいた輸送船を拿捕したのである。この船はインド洋の秘密基地を経由して、四月に日本本土に回航されてきた。


 同船に積まれていたのは、分解された30機あまりのT6テキサン練習機であった。この機体は奇しくも日本海軍が新型練習機の参考機としたBT9型の発展型改良機であった。


 日本海軍では早速この機体を組み立て直して、試験飛行を開始した。すると、この平凡な外見の練習機が恐るべき潜在性能を持つことが判明した。


 脚は引き込み脚であるため、現在の主流をなす飛行機と同じである。また飛行性能は平凡であるものの、日本側の試作機の安定性不良とは程遠い、安定性の良さ。さらには機体強度が高いため、軽度な任務ならこなすだけの潜在性があった。


 実際にこの機体は連合国側では練習機だけでなく、救難や沿岸部の哨戒任務などに使用されており、カリブ海ではUボートの撃沈記録さえ保持していた。また五大湖に浮かべた外輪船改造練習空母で発着艦練習にも利用されていた。


 T6の練習機ならびに汎用機としての性能に着目した海軍は、ただちに再び渡辺鉄工所に対して、この機体のコピー生産を命じた。


 失敗した企業に再設計をさせたのは、前回失敗した分経験を得ていると考えられたからだ。実際、渡辺鉄工所はアメリカ製機のコピー生産に挑んだ分、T6型機を比較的早期にコピーし、試作機を製造することが出来た。なお、選定された発動機は九六式艦戦にも使用された「寿」であった。


 同機体はコピーでありながら、異例の短期間で完成し、昭和18年2月11日の紀元節に初飛行が行われた。その飛行結果は前作と打って変わって何ら問題ものとなり、その後一月あまりの試験飛行の末に同機は三式中間練習機として採用された。


 なお失敗作に終わった前作機にも二式陸上中間練習機という正式採用名が付けられたものの、こちらは試作機とその欠点を改良した量産型も含めてわずか20機あまりの生産となった。


 三式艦上中間練習機が採用された昭和18年中頃は、既に日本にとって戦局が大きく不利になっている時期であった。特にミッドウェーに続いて、ガダルカナルをめぐる戦闘で航空兵力を大きく消耗した後である。


 ちなみに艦上と付与されているのは、実際にフックさえつければ艦上での運用が可能ゆえであった。


 帝国海軍では九州飛行機(渡辺鉄工所より改名)の尻を叩いて三式中練の生産を急がせた。海軍の思惑では初等練習機をドイツより輸入したユングマンのコピーである四式初等練習機、中等を三式、高等を実用機で行く腹であった。


 ところが、三式中練の量産期が配備され始めた昭和19年初頭には、戦局はそれ所ではない所まで差し迫っていた。中部太平洋の島々が次々と陥落し、明日にもマリアナに敵が来そうな状況であった。


 配備された三式中練は、練習任務に使用され始めたが、実施部隊が隣接する飛行場などでは、対潜哨戒などに即投入された。


 練習機ゆえに、速度性能や航続性能はパッとしないものの、操縦は素直で二人乗り。対潜爆弾を搭載する程度のペイロードはあるから、近海の対潜哨戒には充分に使えた。むしろ、練習機ゆえの低速のおかげで、対潜哨戒には好都合な面もあった。主翼に機銃(7,7mmを2基)を搭載しているので、浮上中の敵艦への機銃掃射も可能だった。


 それから、前述したようにアメリカ海軍では空母への離発着訓練にしようしたように、空母への着艦もフックさえ取り付ければ可能であった。


 日本海軍も同様に、三式中練に空母発着用のフックを取り付け、艦上での運用を企てた。しかも、その目的は訓練のみに留まらなかった。


 昭和18年に入り、「ガトー」級潜水艦の就役と、魚雷の改良によって米潜水艦による通商破壊戦が活発化し、その被害はうなぎ登りとなった。


 この事態に、日本海軍は船団方式の採用や護衛艦の建造を進めると共に、対潜用の航空機と航空隊の整備を急いだ。


 日本海軍では対潜哨戒専用の機体である「東海」の開発を進めていたが、昭和18年中頃時点では、まだ影も形もなかった。そのため、対潜哨戒に用いられるのは主に旧式で一線から外れた機体となっていた。九六式陸上攻撃機や九七式艦上攻撃機である。


 しかし、これだけではまだまだ不足である。そこで白羽の矢が立ったのが、三式中練であった。三式中練に着艦フックを装備して、爆装可能なように小規模改造をした機体の生産が行われた。中には、練習機としてロールアウトした機体を改造した機体もあった。


 そして、これらの艦上機仕様の三式中練を主に搭載したのは、商船改造の小型空母であった。これらの空母は低速で小型のため、大型機の運用が難しく、サイズとしては比較的小柄な三式中練は搭載機として打って付けであった。


 こうして昭和19年の1月には、軽空母での運用が開始される。元が練習機であったので、若輩のパイロットでも操縦し易く、三式中練は旧式化して対潜哨戒に回された九七艦攻以上に現場からは歓迎された。


 そして、米潜水艦にしてみるとこの三式中練は厄介な敵となった。というのも、この機体には前方機銃が装備されていたからだ。


 電探を搭載する米潜水艦にとって、接近する航空機を探知して先に潜航できなくはなかったが、低空を飛んでくると探知が出来ず、奇襲を許すことがあった。そしてこの奇襲を許した時に、三式中練は前向きに機銃を装備していることが、役に立った。


 潜水艦にとって、航空機による機銃攻撃は、実はバカに出来ない。何故なら例え小口径の機銃であっても、艦の潜航に必要なタンクに被弾すると潜航不能に陥る可能性が非常に高いからだ。


 また一部では主翼の機銃を外して、ガンポット式に13mmや20mmと言ったより大きな口径の機銃を搭載した機体もあった。


 米軍側の公式記録によれば、昼間浮上中に潜水艦が奇襲された案件の内、3件は確実に三式中練のものとされている。また別の機種となっているが、前方機銃を撃った記録や当日の日本側の記録から、他にも数件、米潜水艦への奇襲攻撃に成功した模様である。


 三式中練による敵潜水艦の撃沈記録は残念ながらないが、米潜水艦艦長には一定の脅威と見られ、その動きに多少のプレッシャーを与えたのは間違いないようである。


 ただし、商船改造空母は昭和19年末までに「海鷹」を残して戦没し、さらにその「海鷹」も昭和20年に入ると日本本土から動かなくなったので、三式中練の艦上機としての使命はこの時集結した。


 陸上基地での練習ならびに哨戒機としての任務は終戦まで行われ、どこの基地でも重宝された。またアメリカ生まれの機体をモデルにしていたため、次のような面白いエピソードもあった。


 昭和20年以降激化した日本本土空襲において、度々米機動部隊の艦載機が空襲を行った。その際に、米軍機は練習機であろうと容赦なく攻撃を仕掛けてきたが、三式中間練習機が発見されて撃墜される確率は低め(地上撃破は他の機体と同じ程度あった)であった。


 飛行中のシルエットが、米パイロットたちにとって見慣れたものであり、誤認されたからとも言われている。さらにスゴイのは、三式中練による撃墜戦果も確認されていることだ。


 この珍事は、昭和20年2月の関東周辺への米機動部隊の空襲による時に起こったもので、空中退避した厚木基地配備の三式中練が、F6F戦闘機と遭遇した時に、米戦闘機が三式中練を自軍の機体と間違えて前に出た所で、三式中練による銃撃を受けた物である。


 この時後ろに付いた三式中練は、この頃には非力な7,7mm機銃しか装備していなかったが、乗っていたのがベテランの教官だったのが幸いした。銃弾はF6Fの補助翼を直撃し、吹き飛ばした。この結果同機は飛行が困難となり、パイロットは機を棄てて脱出した。


 この機体は地上に墜落して残骸も確認されたため、世にも珍しい練習機による現用戦闘機撃墜戦果は、公式戦果となった。また新聞などにも痛快事として取り上げられるなどした。


 ただし、当然ながらこれは例外中の例外で、空中退避した所を敵機に襲われて撃墜された三式中練の方が遥かに多かった。


 そんな三式中練も、特攻が始まると当然特攻機に使用されることとなった。しかしながら、実際に特攻機として使用されることは、終戦まで終になかった。これは様々な面で使い勝手の良い同機を特攻に使用することを、航空部隊が嫌ったからとされている。


 もちろん、それだけではなく単に運用の都合や悪天候が上手く噛み合った結果でもあったのだが、これもまた同機の珍しいエピソードの一つだ。


 そして1945年8月15日の日本の敗戦に伴い、連合国は日本に対して飛行禁止令を出し、これによって日本人による航空機の開発と保有が一切禁止された。三式中練もその例外ではなく、進駐軍によって焼却などで処分されるのを待つだけと思われた。


 しかしながら、意外な運命が三式中練に待ち構えていた。手頃な汎用機であったこの機体は、本土のみならず各地にもそれなりの数が配備され、激しい戦闘に出なかった分、意外と稼動機体が残されていた。


 そして、これらの機体の内で外地にあったもの、特に中国大陸や独立運動が激しくなったアジア地域に残されたものは、現地勢力に次々と接収されて使用された。練習機でありながら、武装もあり軽攻撃機として使用できるのであるから、現地では重宝された。


 また練習機として使う際には、現地残留の日本人パイロットによる指導も行われ、特に指導教官不足であったインドネシア空軍やべトミン空軍、中国共産党政府空軍においては、彼らの働きなくしてはその戦力化は不可能であっただろう。


 ちなみにこうした創世記空軍の装備は機体のみならず、飛行服の装備まで日本製で固められており、特に中国共産党政府空軍は、生徒が中国語を喋らなければどう見ても日本軍の航空隊に見えたという。


 さらにスゴイ来歴を辿ったのは、日本国内に残された三式中練の一部であった。前述したように、航空機不足に喘いでいた一部の国々では、こうした機体は貴重であった。そのため、中華民国では日本国内に残された機体の一部を、艦艇と同じく賠償として譲渡するよう、進駐した連合国最高司令部に申し入れた。


 米国としては、蒋介石の中国に対して航空機ならアメリカ国内に余るほどあると伝えたが、自占領地域内に多数の機体が残されており、そのパーツ取りの意味からも譲渡して欲しいと重ねて要請があった。


 結局、蒋介石の要請が受託され、日本国内に残された三式中練は一端アメリカ国籍へ変更の上、連合国軍に接収された築城や板付と言った九州の飛行場へと集められた。この作業にはその操縦に慣れた日本人パイロットが動員された。


 そうして蓄積された三式中練は、本来であれば再整備の上で沖縄を経由、もしくは船便で中華民国領になった台湾へ運ばれる予定で、実際最初の内は予定通り運ばれていた。


 しかし空輸パイロットの不足(空輸パイロットは中華民国担当だったが、渡洋出来るパイロットが不足)に加えて、船便も数が少ないために、徐々に遅延し始めた。さらに共産党政府との内戦が激化すると、余計にスローダウンした。


 当初は1年もあれば全て引き取り完了の予定が、2年が経過した昭和23年になっても終わらなかった。それどころか、中華民国側の旗色が明らかに悪くなり、引取られるのかわからなくなってきた。


 こうなると、米国としては無駄に在庫を抱えても仕方がないので、機体を処分する……かと思ったら、今度はお隣の朝鮮半島に出来た大韓民国から、新生空軍の練習用機体調達の以来があったため、今度はこちらに送られることとなった。


 ところが、韓国の方もパイロットの不足から一斉受け取りができず、少しずつ運んでいる間に、昭和25年の朝鮮戦争開戦を迎えてしまった。これにより、韓国空軍には米本土から大量の機体が直接供与されてしまい、またも三式中練の在庫がだぶついた。


 三式中練は九州へ集められた後、一部の機体は格納庫に収容されたが、ほとんどの機体は防錆塗装をしてカバーだけ掛けられていた。そう長くは保管しておけない。今度こそ、年貢の納め時……


 しかし、朝鮮戦争の勃発による日本の再軍備化を命令したGHQが、今度は着目した。この頃アメリカ軍では、旧軍のパイロットを日系人部隊に擬装して朝鮮戦争に送り込む計画も存在しており、日本の再軍備と併せて、パイロットの養成や再訓練が必要と見られていた。


 本国からT6型機などを供与するのが簡単だが、せっかく日本の飛行場に練習機が残されているなら、それを使わない手はない。


 早速、九州に残されていた三式中練の再整備がスタートした。この作業には三菱など日本企業が、航空機整備ノウハウの再習得のために動員された。なお、米軍からの依頼に際しては、書類上T6型練習機の修理とされた。


 この偽装T6型練習機は、1951年夏までに50機近くが順次整備を完了し、国内の各メーカーから飛行場へと戻された。この整備の際に、多くの機体がオリジナルの「寿」から米製のプラット&ホイットニーに変更されている。また、塗装も当然のことながら日本軍時代の橙色から、米軍の黄色へと変更されている。


 こうして整備を完了した機体は順次日本人パイロットの訓練用に転用されたが、結局のところ日本人パイロットの投入は、米空軍戦力の充実と、朝鮮戦争終結のため見送られてしまい頓挫した。


 しかし、この頃には日本の再軍備計画が本格的にスタートしており、その中には空軍にあたる組織の建設も含まれていた。


 三式中練は、今度はこの新生空軍たる航空自衛隊、さらには海上自衛隊と陸上自衛隊の航空部隊に引き継がれることとなった。


 こうして、日本が独立した昭和27年から順次創設された保安隊練習航空隊にアメリカから貸与機(後供与に変更)として、日本側に続々と引き渡され、昭和29年までに完了した。さらに、不足分として本家のT6型機も相当数引き渡された。


 自衛隊に引き渡された三式中練は、基本的に米供与のT6と共通運用された。大戦終了から15年経つ頃には、旧式化した練習機となっていたが、それでも初期のパイロット養成に大きな貢献をした。


 その後、後継の練習機の投入に伴い、機体は次々と自衛隊より除籍されていったが、一部の機体は米軍への返還、そして民間への売却と言う道を辿り、当時隆盛を極めた戦争映画の撮影用や、自家用機として21世紀の現代でも飛び続けている物もある。


 日本においても、航空自衛隊と海上自衛隊にてそれぞれ1機ずつが動態保存されているが、この内海上自衛隊小月基地に残されたそれは、原型の「寿」エンジンを搭載した正真正銘旧海軍製の三式中練であり、数少ない帝国海軍の生き証人として、余生を送っている。。

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 日本版テキサンをリアリティある形で描いています。 [一言] テキサンは好きな飛行機の一つです。まあ、練習機一つとっても全然アメリカの技術、生産力にかなわなかったことは明白なんですが…… テ…
2015/02/07 19:17 退会済み
管理
[良い点] 太平洋戦争が終結したところで終わりかと思ったら、戦後にバラエティーに富んだ活躍をしたのが面白かったです。
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