九 戦支度
賀茂のなんとか、と名乗った法眼の言葉が効いたのか、軍を武装解除すべきでないという彼の意見や、その後の策略については驚くほどにすんなりと聞き入れられ、一行は特別顧問のような形で軍に迎えられた。
軍略については主に舟助が提案し、その通りに布陣が取られることになった。
本来駒に過ぎない彼のような立場からの意見が聞き入れられるはずもなかったが、これも繰り返しを重ねて得た経験による説得力のたまものだ。
この街は北を山に、南を海に守られており、主要な進入路は東西にしかない。
南には平氏の友軍がいると言うから、北から入って攪乱し、その間に東から主力を攻め入らせるという義経の戦略はまさに最良の選択肢であったといえる。
これにあたって、北からの奇襲を既に予知している舟助は、そこに数千騎からなる精鋭揃いの一軍を置いた。
原典通りであれば、この時の義経の部隊は百騎に満たないはずである。これが信長の桶狭間におけるそれに置き換わっていたとしても、二千騎弱となる。
軍勢に差があるのは時代背景ゆえに予測しづらいが、元が舟助の知識によるものだから、彼にとって身近な戦国時代の人数を基準に考えるべきだと法眼が助言し、そのようになった。
事実、この場の軍勢ですら今川と平氏が連合を組んでいるように、その兵は相当の数が揃っている。
こうした奇襲への対処によって陣を崩さず、守りの戦を取れるという訳だ。
先に述べたように、平氏にしろ今川にしろ、史実ではどちらも数は勝っている。相手の動きまで読めている以上、浮き足立たねば負けることはない。
念に念を入れた策を練り、その意図を飲み込めない者達にはそれを説明し、一通りが終わると、一行は陣中に作られた仮の宿の一室を借りて一夜を明かすことになった。