二 撮影所
何かを期待した訳ではないが、一言二言でも話ができたらと思った。
赤い傘をさす彼女の後を急いで追ったものの、運悪く車の波に足を止められ、なかなか追いつくことができない。
じめじめとした雨が一也に走らせることを拒む。
そうこうしているうちに、彼女の姿は見えなくなってしまう。
初めのうちは、辺りの角を曲がれば赤い傘と共に彼女の後ろ姿を見つけられたが、徐々にその姿はおぼろげなものとなっていく。
周囲の風景も雨の中、霧に包まれたようになり、金と銀のきらめくような光が見えたかと思えば、竹藪や、アスファルトでは無い土の道路、見知らぬ風景が時々現れる。
それでも、前を行く灰色のかすかな影が、一也が目的とする人物である確信だけは何故か揺るがなかった。
いつの間にか雨は小降りになり、気が付くと止んでいた。
傘を閉じた彼は、今もなお変わらぬ薄暗さを持つ辺りの風景を見回す。つい先程まで目の前にいた灰色の影は完全に見失ってしまっている。
ここは、どこか池沿いの街道のようだ。
周囲はそのほとんどが森か、あるいは池の水かで、その隙間には廃屋としか思えない木造の小さな家が、片手で数えられる程度見え隠れしている。
遠くから音が聞こえる。耳を澄ますと、それは何かの足音だ。
別にやましい事があった訳ではないが、本能的に慌てて近場の森の影に身を隠して眺めていると、なんだか小さな馬に乗り、時代劇のような鎧甲冑のフル装備をした二人の武者が現れる。
二人の武者は、馬上でなにやら言葉を交わしているようだ。
「舟助や。そちは鎧に何か細工をしたであろう」
「いえ、普段の通りに御座います」
「鎧とは、これほどに重いものじゃったかのう」
様子を伺う限りでは、二人は上司と部下の関係で、何があったか気落ちしている様子だ。
そういえばそんな物語をどこかで読んだ気がする。雨で周囲を見失ううち、どこかの撮影所にでも紛れ込んだのだろうか?
「それは心の重さに御座います」
舟助と呼ばれた、二十代ぐらいに見える若い男が、どことなく芝居がかった調子で言う。
「なに、出戦に敗れたに過ぎませぬ。国元へ戻れば再起も出来ましょう」
どうやら上司を励ましている様だ。
「そちは何もわかっておらぬのじゃ」
舟助は上司と話しながらも少し後ろに馬をつけ、歩みを止めがちな上司を無理矢理に前進させているようだ。
その二人が一也の潜む目の前を過ぎようかという時、ひゅっと鋭い風の音を感じたかと思うと、舟助を乗せた馬の尻に矢が突き立った。
馬は大声を上げて、尻の矢を抜き取ろうとでもするのかのように、己の体をぶんぶんと振り回し、敵の出現に慌てて弓矢を構えようとしていた乗り手をも振り落とす。
上司は一刻も早く敵から離れるべく、脇道を選ぶべきだとでも考えたのか、街道ではなく池の中へ向かって馬を走らせた。
しかしその池は案外深く、しかも沼地のようにぬかるんでおり、なかなか足が進まない。
気が付くと馬が足を絡ませ、池の半ばで立ち往生してしまう。
そこへ敵方から放たれた矢が容赦なく首筋を貫き、彼は自らの鎧の重みと共に水中へと没した。
「誰々討ち取ったり!」などと叫ぶ声が聞こえ、犯人と見える幾人かの騎兵が池の死体のもとへと飛び込んでいく。
一方の一也は、落馬した舟助とちょうど鉢合わせしてしまい、彼の短刀を首筋に感じながら、二人で草むらの中に潜んでいた。
「貴様、忍びか」
舟助は意味の分からないことを言った。
「すみません、撮影中だとは知らなくて……」
一也も意味不明の回答をした。
「撮影? 何を言っている」
舟助は一也の首筋から短刀を離すと、それをしまいながら、明らかに困惑した様子でつぶやいた。
「この展開は変則的だ。
それにその姿。拙者の知るような敵ではあるまい」
一也は特にオシャレに興味のない高校生が休日に着るような、ごく普通のTシャツにジーンズ、スニーカーにかばんという出で立ちで、要するにこの時代劇にはそぐわない。
舟助もそれを察して、彼が部外者であることを認めたのだろう。
しかし、この男、生死を賭けて戦っていたはずの先の場面より、こうして自分の姿を認めてからの方が感情豊かだ。役者失格である。
「まずはここを離れよう。貴様の事を聞きたい」
舟助は今も上司の死体に群がっているであろう敵達の様子を少し伺うと、一也に「かがめ」と手のひらで示し、自ら手本を示すように森の奥へと歩んでいった。
これは「撮影の邪魔だ、こっちへ来い。説教してくれるわ」という事だろう。一也はカメラに映らないよう気をつけながら後を追った。