一の四
クエストの紹介が載った紙を片手に、俺はコボルトの目撃情報があった場所まで歩いていく。
親切にマスターはメモまでつけてくれていた。そのメモには、ナイフと皮の鎧くらいは買って装備するように書いてあるのだが、結局何も買っていない。そもそもそれを買うような金がないからクエストを受けたわけだし、更に言えば買ったところで俺がそれを使いこなせるとは思えない。
「結局のところ、フォイルが使えるかどうかだけが生命線だよな」
獣道を歩きながら呟く。
『確かにな。そして、我と共に戦うならば、コボルトなぞ相手にもならんだろう』
大した自信だな。
けど、俺が魔人なんだとしたら、それも当然か。人間の能力を遥かに凌駕する、魔族とも対等な力を持っているわけだから。
全然実感がないけど。
『当然だ。お前は今のところ、普通の人間と大差ない。他の魔人とは違う』
え、何で?
『元が凡人なのだから仕方なかろう』
そう言われると返す言葉はないが。
『少し、右に首を傾げろ』
「え?」
唐突なフォイルの言葉に、考えるよりも先に言われた通りに首を右に傾げる。
その瞬間、首の左端をかするようにして、何かが通る。
「っと」
何だ、今の?
いや、本当は薄々気付いているが、脳が凍りついたようにその正解を意識させてくれない。
『矢だな』
フォイルが丁寧に教えてくれる。
『避けねば刺さっていた。コボルトの方が先にこちらを見つけたらしい』
がちがち、と音がする。
何の音だ?
草を掻き分けるようにして、遠くからいくつもの小さな影が寄ってくる。
これは。
『コボルトだな』
例えるなら、二足歩行の犬。それが、粗末ながらも剣や弓を持ち、鎧をまとって集団でこちらに近づいてきている。
コボルト。それがどんなものかはこの場所に来る前に町にある図書館で一通り調べた。
犬型の二足歩行モンスター。知能は低いが、剣や弓といった武器を盗みあるいは奪って使う。大して強くはなく、熟練の冒険者なら相手にもならない。
だが、コボルトは常に集団で行動し、多対一で襲ってくる。それゆえ、油断をしていれば中級以上の冒険者でも殺されることがあるという。
がちがち。
またか。何の音だ?
『武者震いか?』
その問いかけでようやく気付く。
奥歯だ。俺の奥歯が鳴っている。もちろん、武者震いじゃない。単なる、恐怖だ。
死ぬ。このままじゃあ、死ぬ。
また、死ぬ。
あの時の喪失感が勝手に蘇ってくる。
早く、早く教えてくれ。
どうすればいい?
どうすれば、お前を使えるんだ、フォイル。
『我の名を呼び、装着と叫べ。それだけでいい』
とうとう、コボルト達が臨戦態勢に入る。弓を持った数体が、俺に向かって矢をつがえる。
「魔鎧フォイル、装着」
大声で俺が叫ぶのと、矢が射られるのが同時だった。
瞬間、世界が裏返る。色と音が失われる。
時間が広がり、空間が流れる。俺の体の領域が無限に広がっていき、中からめりめりと音を立てて何かが出現する。鎧だ。おかしい。とてつもなくおかしい。身に纏うはずの鎧が、どうして俺の内部から出てくるのか。この世界に転生した時に感じた痛みと違和感が、全身を襲う。いや、全世界を襲っている。それは一瞬のようにも感じるし、無限に続いているようにも感じる。おそらくそのどちらも正しい。全ては拡散し、流れ去り、そして。
一点に収縮する。
時間が流れ出し、空間が広がる。世界に色と音が戻ってくる。
そうして。
自分の体を見回すまでもなく、今自分があの髑髏の面の全身鎧を身に着けていることが、瞬時に感覚的に理解できた。
「……これは」
まさに、生まれ変わったような気分だ。俺が纏っている鎧は、ただの鎧ではなかった。生きていて、俺の体と一体化していた。俺の皮膚よりも皮膚であり、骨よりも骨であり、五臓六腑よりも五臓六腑だ。うまく説明はできないが。
いくらなんでも、こんなことになるのか。
戸惑っている俺の顔と肩に、放たれた矢がいくつか命中する。
木の先に鉄の鏃をつけた、生身ならば大怪我をしかねない危険なものだ。
しかし、それらの矢は、俺にろくな衝撃すら与えないまま、魔鎧に跳ね返され、地面に呆気なく落ちる。
「ぎ?」
犬の顔をしたコボルト達が、戸惑った様子を一瞬だけ見せる。
だがすぐに気を取り直したように、弓を持っていたものも剣に持ち替え、全員が斬りかかってくる。
まだ、自分が自分でないような気がして、その攻撃に反応できない。
コボルト達が殺到し、その剣が俺の体に叩きつけられ。
そして、その剣のどれもが、砕け散った。
俺には軽い衝撃だけが伝わる。
『当然の結果だ』
全身に降り注ぐ剣の破片を浴びながら聞くフォイルの声は、幾分か誇らしげだ。
「うっ」
だが、突如として俺は痛みに襲われる。
激痛。全身が引き裂かれるような、これは。
『む、もうか。ゴドー、早く倒して装着を解除するぞ』
「何?」
『我の装着にお前が耐え切れないのだ。鍛えていない肉体、一般人の魂ならば当然か』
嘘だろ、じゃあ、このままだと俺は死ぬのかよ。
『我の見立てでは、あと二十秒』
冗談じゃない。
俺は身構える、が。
武器はないし、攻撃方法も分からない。
『コボルト相手にそんなものは不要。手刀でなぎ払えばよい』
よし。
まずは、近づく。
刃の砕けた剣を持って後ずさるコボルト達に向かって俺は踏み込む。
「うわっ」
突然、爆発的な速度で俺はコボルト達に突っ込むことになる。気がつけばコボルトが目の前にいる。
「なっ、こっ」
その勢いにバランスを崩しながらも、フォイルの言う通りに右手に手刀を形作り、水平になぎ払う。
訓練なんてしていないから、構えも何もない、適当な手刀の一撃だ。
「おわっ」
適当になぎ払ったその一撃は俺の目でも捉えられない速度ではしり、激痛と共に右手がみしみしと音を立てる。腕がすっぽ抜けそうだ。
そのまま、独楽のように回転して、俺は地面に激突、全身に衝撃を受けながら世界が回っていく。何度も、何度も。
一瞬の意識の空白。だがすぐに意識を取り戻す。
まずい。どのくらい意識を失っていた? どうなった? 命中したのか?
『早く解除しろ。解除と叫ぶんだ』
体が鎧に食われてしまいそうだ。鎧が俺の体を、締め付け、食いちぎろうとしている。
「解除!」
死への恐怖から、考えず言われるままに叫ぶ。
目眩。
「う」
気付けば、俺は地面に無様な格好で倒れている。鎧は、いつの間にか消滅している。
『無様な。まあ、何の鍛錬もしていなければこんなものか』
「うるせえよ、痛っ」
ぼやいて起き上がろうとして、全身の筋肉が酷使されたような痛みに叫ぶ。
だが、はっとする。
そうだ、それどころじゃあない。今の俺は無防備だ。
コボルトは?
慌てて見回すと、草むらにコボルトが数体、倒れている。胴体とか首とか、曲がっちゃあいけない部分が曲がっているし、ぴくりとも動かない。
これは。
『初実戦はこんなものか』
フォイルが、無感動に言う。
一方の俺は感動している。全身の酷い筋肉痛のような痛みさえも感動的だ。
生き残れた。今はただ、それだけで嬉しい。
そして、もう一つ。
間違いなく、俺は魔人だ。俺は強い。
フォイルを装着した俺は、まさに人間離れしていた。
『どうやら、何匹が逃げたようだな』
え?
感動に浸っていると、フォイルの言葉で現実に引き戻される。
倒れ地得るコボルトの死体を冷静に確認すると、確かに俺を囲んでいたコボルトよりも少ない気がする。
「ど、どうすれば」
もうしばらくは装着できない。全身が契れそうだ。
『落ち着け』
怯える俺とは対照的にフォイルは冷静だ。
『敵は僅か。おそらく傷を負っているし、心も折れている。今のお前でもうまくやれば倒せるだろう。まずは、そこに転がっているコボルトの持ち物から、マシな剣でも拾え』
「あ、ああ」
よろよろと、半分以上刃が残っている剣を捜して拾う。
「あっ」
そう言えば、モンスターって死んでしばらくしたら消えるって聞いたぞ。確か、倒した証拠としてコボルトの尻尾ってアイテムを持ってくるように言われたから、先に尻尾を回収しないといけないんじゃないか?
『後でいい。どうせ誰もコボルトの尻尾なぞ拾わない。全員倒した後で拾いに戻ればいいだけのことだ』
それもそうか。
俺は、へっぴり腰で剣を構える。重さでぶるぶると剣が震える。
『さあ、いくぞ。我が教育してやる』
躊躇うこともなく、俺は草むらに踏み込んだ。
別に勇気があるとか、覚悟を決めたということではない。
時間がない、という焦燥感と、あまりの疲労のために、頭は靄がかかったようで、ただフォイルの指示に従っているだけだ。
「ぎぃっ」
一匹のコボルトと遭遇する。
草むらで、逃げていたコボルトは弱っている俺を見て、組し易しと見てまた襲い掛かってくる。
『全力で剣を振れ』
技術も何もない、傷を負ったコボルトと、体が限界の俺の剣の打ち合い。
泥沼の戦いになるかと思われたが、意外にもコボルトの攻撃をほとんど受けることなく、俺は一匹めのコボルトを倒す。
「ぜえっ……」
大きく息を吐く。
『武器の状態も、肉体の状態もこちらの方がいい。おまけに今のお前にはちょうどいい具合に恐怖心が麻痺している。こんなものだ』
「麻痺……?」
もう、疲れている俺にはフォイルの言っている意味がいまいち分からない。だが、言われてみれば確かに恐怖を感じていない。
『さあ、行くぞ。あと二、三匹だ』
夢遊病のように、フォイルの声に突き動かされて俺は先に進む。
「おお、戻ったか、兄ちゃん」
ぼろぼろになった俺が、それでも何とかコボルトを倒した証拠となる「コボルトの尻尾」を携えてギルドに戻ると、あの受付の男は大いに喜んでくれた。
「さすがは勇者様の連れだ」
ばんばんと、まだ全身が痛い俺の背中を叩きまくる。
痛い痛い。
「これであの周辺の連中も安心できる。ありがとうよ。ほら、これが報酬だ」
ありがたくマスターから三百ゴールドを受け取った俺は、全身の痛みに耐えながらもほくほく顔で宿屋へと戻る。
いやあ、それにしても疲れた。
まだリルカは戻ってきていないらしい。
俺は自分の部屋のベッドに倒れこむ。
『実戦の数をこなすことが一番の早道だ。経験を積めるし、肉体にも魂にも非常な負担をかけるから、鍛錬にもなる』
疲れのあまりに眠りそうになった俺に、フォイルが語りかけてくる。
おいおい、今日みたいなことをずっとやれって言うのかよ。
『どの道、我と共に生きる以上、戦場から戦場へと歩み続けるしかないのだ』
不吉なことを言う。
しかし、今日はもう動きたくはない。
さっきとりあえず二、三日分の宿代は払ったし、今日のところは何もせず寝ておこうかな。
と、ばたばたと慌しい足音が聞こえる。
「ゴドー!」
部屋に飛び込んできたのは、目を吊り上げたリルカだ。
ずかずかと歩み寄ってきて、寝ている俺の首根っこを掴んでぐらぐらと揺らす。
「ぐええ」
苦しい。
な、何でいきなり。
『無様な』
「あなた、クエストを受けたのですね! さっき、ギルドの方から聞きましたよ」
ぶんぶんと振り回される。少女とも思えない膂力だ。
「どうして、そんなっ、危険なことをっ」
「ぐええ」
答えようにも首が絞まっていて声が出ない。
「そんな、あなたを危険な目に遭わせて、それで私が楽に冒険ができて嬉しいとでも思っているのですか、私は騎士ですよっ」
「ご、ごめん、悪かった、悪かったから、離してくれっ」
何とかそう言うと、ようやく俺は解放されて、ベッドの上で咳き込みながらも息を整えることができる。
まったく、コボルトの時より死を身近に感じた。
「す、すいません」
一方、我に返ったのかリルカは小さくなって、
「つ、つい熱くなって。元はと言えば、私が情けないからだというのに」
「いや、そんなことはない」
慌てて否定する。
リルカのことを情けないなんて感じたことは一度もない。
「あのさ、俺がクエストを受けたのは、金が欲しいからだけじゃない」
俺は言葉を重ねる。
「え?」
きょとんと、歳相応の無防備な顔をリルカが見せる。
「コボルトくらいなら倒せる。それくらいの力はあるって証明したかったんだ。これで、足手まといだから付いてくるな、なんて言えないだろ」
半分言い訳、半分本心から言って俺は微笑む。
しばらく呆然としていたリルカも、やがて、くすりと笑みを零す。
「確かに、一人でクエストを達成して、お金までいただいたあなたに、足手まといなんて、もう言えないですね」
ようやく表情が柔らかくなったリルカを見て、救われた気分になる。
俺が金を稼いでも、強くなっても、リルカにとって負担になったら何の意味もない。俺はあくまで、リルカの旅に付いて行っているんだから。
『ほう、魔人の謎を知るために便宜上付き添っているだけではないと?』
もちろんだ。
俺は、リルカのことを尊敬している。だから、リルカに死んで欲しくないし、力になりたい。
それは、本心だ。