一の十
翌日の早朝、俺はまた一人で走らされる羽目になる。
「今日こそ逃げずに走ってください。私はココアとこれからについて相談しているので」
と仁王立ちをしたリルカに送り出される。
ココアは俺とリルカの間をおろおろと視線を彷徨わせていた。
そうして走り始めたわけだが、前日の無茶のせいで全身筋肉痛の体で走りながら、俺はそれでも少し爽快な気分になってくる。
そうなると足取りまで軽くなり、俺は町外れ、木々が茂っている気持ちのいいコースを軽快に走り抜ける。
『何が嬉しい?』
だって、リルカには仲間ができて、魔王がいることも分かって、魔族と魔人三人と出会うって死地からも全員生還できた。
考えうる限り、最良の結果って言えるんじゃないか?
生きている、そして誰も死ななかったというのは素晴らしい。命があるって素晴らしい、と歌いだしたくなるような気分だ。
『生還、できたと言えたのならな』
不意に、フォイルの声が緊迫する。
「え?」
いきなりの不吉な言葉に、俺は足を止める。
「どういうことだ?」
『あの死地は、まだ終わっていない』
終わって、いない?
『運が良かったな』
何がだ。全く意味が分からない。
『方向的に真上だ。装着しろ』
瞬間、全身の毛が逆立つ。
何か分からないが、とにかくまずい。
「魔鎧フォイル、装着」
叫んで鎧を纏ったと同時に、
『跳んで、蹴れ』
指示が出る。
ほとんど反射的にその通り全力で地面を蹴ると、一瞬で俺は空中高く飛び上がっている。
「うわっ」
そして、ちょうど俺の目の前に、巨大な影がそこにある。真っ赤な影。
気が付けば、フォイルの指示通りに蹴りを繰り出している。
大気揺れる衝撃と轟音。
俺とその影は、お互いにそのまま地面に落下する。
「ちぃっ」
蹴った俺の方が四肢を使って無様に地面に着地する。一方の赤い影は、優雅に足先から着地した。
「お前は……」
俺は絶句する。
赤い影の正体に。
魔人だ。
見ただけで分かる。魔鎧だ。
フォイルの暗いものとは違う、鮮やかな赤の装甲。薄く赤い鋼の刃を全身に張り付けたようなデザインの鎧。特に腰回りから下へと長く広い刃が隙間なく覆い、まるでフリルスカートのようだ。
直感的に理解する。
この魔人は、あの貴婦人じみた女だ。
「邪魔を」
予想を裏付けるように、魔人はあのダンジョンで聞いた貴婦人と同じ声を出す。
長い牙の生えた口をモチーフとしているらしい面を付けている。
「血」
その魔人はそれだけ言う。
「は?」
「あの少女、清らかなあの少女、剣をもったあの少女、穢れなきあの少女、大犬に立ち向かっていた美しいあの少女」
リルカのことか?
「あの美しい少女の血を飲みたい、浴びたい、啜りたい、食べたい」
どこか上の空の声色で赤いドレスの魔人はそう言う。
なんだこいつ、いかれてるのか?
『魔人は程度の差こそあれ皆そうだ。妄執の塊となって生まれ変わるのだからな』
はあ?
そんなこと聞いていないぞ。じゃあ、俺も?
『お前は妄執を持っていなかっただろう』
そうだ、そうだった。未練がないのが未練、なんて状態で死んで生まれ変わったんだった。
『強い魂の持ち主ほど、死の直前には強烈な未練が、妄執が、理想が、欲望がある。魔人として甦ったものは、その未練を、妄執を、理想を、欲望を滾らせ、それに支配された状態で甦る。程度の差はあれな』
「血、血を浴びたい、あの娘の血を浴びたい」
譫言のように魔人は繰り返している。
どうやら、この魔人の目当てはリルカらしい。リルカを襲うために跳んでカミサに向かおうとして、俺に蹴り落とされたということか。
だとしたらなおさら、ここから進ませるわけにはいかない。
「血、血を浴びたい。美しくなりたい」
おぞましい内容を繰り返す魔人。
『ゴドー。タイムリミットがあることを忘れるな』
みしみしと体が千切れそうな音を立てる。
『身体への急激な不可と再生によって耐性ができ、お前の装着可能時間は格段に伸びてはいる。とはいえ、まだまだ長時間装着しているのは危険だ』
「らしいな」
呟いて、俺は一歩踏み出す。
「血が、欲しい。苦痛と血が」
ぶつぶつと呟く魔人はこちらを見ようともしない。
「駄目だ。お前はここを通れない」
宣言して、渾身の力で地面を蹴る。
そこで、唐突に気づく。
この魔人は、魔族の少女にエルジェーベトと呼ばれていた。そして、血に対するこの執着。
あいつだ。
バートリ・エルジェーベト。血の伯爵夫人。処女を殺し、その血を浴槽にためて浴びていたシリアルキラー。吸血鬼伝説の貴婦人。
ネットや歴史本の世界に転がっている、世界の残酷物語に登場するあの女。それがこいつの正体か。
反応もしないエルジェーベトに、俺は爆発的に近づく。
やれる。
『まずい』
だがフォイルは逆のことを言う。
「う」
そして、側頭部、胸、腹に衝撃。
フォイルを装着しているというのに、生身を思い切りバットか何かで殴られたような衝撃と痛みだ。
「ぐあっ」
踏み込んでいたスピードのまま、転んで地面に突っ込む。そのスピードが今度は俺へのダメージに変わる。猛スピードで殴られたようなものだ。
目の前に星が瞬く。全身が痺れる。
くそ、不意打ちってこんなに効くものか。
『油断した。二対一か』
「俺の運を返してもらう」
両手から煙をたなびかせながら木々の隙間から現れたのは、寸胴のような魔人。カスターだ。
「く、そ……」
ふらふらと立ち上がろうとしたが、突然膝から力が抜けてバランスを崩す。
「な、に?」
そして、驚愕する。
腹から出血しているのが感覚で分かる。別に驚くようなことじゃあない。カスターに思い切り撃たれた場所だ。多少、鎧の下で出血していてもおかしくない。
問題は、鎧の腹の部分から、赤い霧が出現していることだ。
その霧は、エルジェーベトへと吸い込まれてく。
「何だ、これは」
俺の体から力が抜けていくのが、この霧と無関係とは考えにくい。
「ああ、あの少女を、引き裂きたい」
血を吸っている当のエルジェーベトはこちらを気にしてもいない。
『吸血能力。それが奴の魔鎧の能力か』
フォイル。どうなってる?
『魔鎧装着中は常時自己再生が行われる。だが、傷がふさがらない。それどころか、傷口から血が霧状になって噴き出し、あの魔人へと吸収されている。全身の脱力はそれによるものと推測される』
意見は一致だ。それで、どうする?
『無理矢理にでも、エルジェーベトの方へ攻撃を仕掛け、この脱力状態を脱するのが最善だろう』
ここでも一致だ。
それしかないだろうと俺も思っていた。
「くあっ」
脱力する体を奮い立たせて、こちらを気にすることもなく町の方の空を見上げているエルジェーベトに突撃する。
「ファイア」
カスターの砲撃。
ここだ。
俺は、あえて今回は全速力では突撃していなかった。
砲撃の音が聞こえた瞬間、更にもう一歩、今度は全速力で踏み込む。
更に加速した俺は砲弾をぎりぎりで避ける。
今度こそ、捉えた。
至近距離に近づいた俺が拳を叩き込もうとしたその時、
「邪魔よ」
声と共に、エルジェーベトの目がようやくこちらを向いたのを感じる。だが、もう今からでは反撃も防御も回避も間に合わない。
だが。
「ぐ」
最初に感じたのは、冷たさ。
一瞬のうちに、エルジェーベトの鎧についた無数の刃が、鋭く尖り、逆立っていた。ハリネズミのように。ハリセンボンのように。
その刃のほとんどは鎧によって防がれていたが、数本が鎧を貫き、あるいはちょうど鎧の隙間を通り、俺の体を串刺しにしている。
「ぐ、あ」
太股と肩、わき腹を貫かれている。
また一瞬のうちに、刃は元に戻り、俺はその場で倒れる。
新たにできた傷から大量の霧が出現し、エルジェーベトに吸い込まれていく。
『不覚。勝負を急ぎすぎたか』
「うぐ」
自分の体からどんどんと力が、そして熱が失われていくのが分かる。体が冷えていく。
同時に、装着自体が負担になって、体が鎧に砕かれ、千切れそうになる。、
これで、負けか? 俺は死ぬのか。
『こうなっては、仕方が無いな』
朦朧としていく意識の中で、フォイルの声が響く。
血の霧が止まらない。
『ゴドー。死にたくはないだろう?』
死にたくない。せっかく生き返ったのに、死にたくない。
何よりも、あの魔人はリルカを狙っているみたいだ。ここで死んでリルカが殺されるなら、俺は一体、何のために生まれ変わったんだ。
『ならば代われ。あまりお前のためにはならんが、今回は特別だ』
何をだ? 何を代われっていうんだ?
『お前をだ。お前自身を、代われ』
意味が分からない。けれど、死ぬくらいなら、何にだって縋ってやる。
だが、問いに答える前に、事態は急変する。
気付けば、俺からの血の霧は止まっている。
「そうか、お前がいたんだったな」
悔しげなカスターの声。
何とか倒れたまま顔を起こせば、エルジェーベトとカスターは同じ方向を向いている。
その方向に眼球を動かすと、そこには一人の女性が立っている。
まだ若い女性だ。
濡れたように艶のある長い黒髪、整った顔には細い眉と糸のように細い眼。地味なシャツとロングスカートという格好。
だが、その穏やかそうな女性からは、朦朧としていた意識を戦慄によって一瞬で覚醒させられるほどの圧力が発せられている。
魔人だ。
俺はまた確信する。
この場に、新しい魔人が乱入してきたのか。
『あの魔人、相当の遣い手だ』
フォイルの声も、戦慄している。
「ぐっ」
固唾を飲んでいるうちに、体が軋む。
『まずい、ゴドー』
分かってる。
「解除」
俺は鎧を解除する。まだ傷が治りきってはいないが、これ以上装着していては命に関わる。
「ぐあっ」
生身に戻った俺は、全身の痛みに呻いて転がりながらも、必死で三人の魔人の方に目を向ける。
「邪魔をするの?」
ぞっとするようなエルジェーベトの声に、女性は動じる様子もなく、
「依頼は、この周辺で魔族か魔人が暴れたら打ち倒す。ただ、それだけ」
と涼やかに言う。
「依頼は何時までだ?」
半分諦めたかのように、覇気の無い声でカスターが質問する。
「今日まで」
女性は簡潔すぎるほど簡潔に答える。
「そうか、くそっ、国境近くだってことを忘れてたぜ」
舌打ちをしてカスターは、
「明日にするぞ、エルジェーベト。明日になれば、契約が切れる」
「どいつもこいつも邪魔を。血、血が欲しいのに」
促されて、エルジェーベトは呻きながら、それでもそれに従って下がっていく。
「魔人フォイル」
最後に、カスターが俺に顔を向ける。面に覆われているが、物凄い目つきで俺を睨んでいるのが分かる。
「運のいい奴だ。やはり、俺の運を奪ったな。返してもらうぞ、近いうちに」
カスターもその声だけを残し、消えていく。
意味が分からない。運を奪ったとか何とか、言いがかりもいいところだ。
やがて、それを見送っていた女性も、ちらりと俺を見た後、去っていく。
三人とも消えたのを確認してから、俺は起き上がる。
「いてて」
傷は、どれも半分以上塞がっている。フォイルを装着していたからだろう。ゆっくり動く分にはそこまで支障はなさそうだ。
「うっ」
だが、立った途端に立ち眩む。血が失われているのが堪えたらしい。
『大丈夫か?』
「フォイル」
だが俺は、心配するフォイルに心を許すことなどできない。
「さっきのは、何だ? 俺に何をしようとしていた?」
代われって、どういうことだ?
『大したことじゃあない。一時的に、我にお前の体の全てを操るように主導権を渡してもらいたかっただけだ』
何だと?
『我なら、あの魔人二体相手にも勝てる』
どうして分かる?
『分かるのだ。記憶はないが、分かるのだ。記憶がなくとも、一時的にお前を操って殺気を飛ばすことができるのと同じように』
それ、代わった後にずっとお前が俺に成り代わるなんてこと、ないだろうな。
『ない。我を信じろ』
分かった。というか、納得せざるを得ない。どっちにしろ、フォイル、お前がいないと何もできないんだ。
それで、これからどうすればいい?
『歩け』
「はあっ?」
どういう意味だ?
『そのままの意味だ。歩け。気分は相当悪いだろうが、それでも歩いて中心部まで戻り、きちんと走りこみをしたことにするのだ。リルカには何も話すな』
「馬鹿な」
どうしてそんなことをする?
何か、何かとてつもなく不味い状況のはずだぞ。
『だからだ。我とお前は、相談しなければならない。むやみに事態を動かすよりはな。だから、今は走れ。途中でポーションでも買って飲むがいい』
くそ、くそ、くそっ。いいのか、それで? 本当にそれでいいんだな、信じるぞ。
俺は脳内で喚きながら、また足を動かし始める。
『そうだ。それでいい。今のお前には、気を落ち着かせることが必要だ。大きく深呼吸をしながら、ゆっくりでもいいから歩け』
最悪のコンディションのまま歩き出したが、不思議なことに必死で足を動かして中心部へと向かっているうちに、さっきまでのどうしょうもない焦燥感が少しだけ薄れてくる。
深呼吸をしているうちに、心がゆっくりとだが冷静さを取り戻す。
『そろそろ、状況を整理するか』
ああ。
俺は足を止めず、ゆっくりとではあるが歩き続ける。




