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弱小。BL野球部  作者: 一般人凡人
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第九章 弱小。祭りの後

第九章 弱小。祭りの後


 龍示との試合が終わった後、野球部のメンバーは部室でうなだれていた。

「だぁ~……負けたぁ~……。藤田龍示のご奉仕プレイが…………」

「誰か、行き場を無くした俺の性欲を受け止めてくれぇ。ムラムラしてしょうがねえんだ」

「「「「……疲れてるからヤダ」」」」

「あぁ……」

 全員、意気消沈。メンバーは床やベッドに死体のように寝転がって体を休めていた。

「……うぬら、そんな調子で大丈夫なのか? 明日からは我が契約者の奴隷となって厳しい野球の練習が始まるのだぞ?」

「「「「今それ考えたくない」」」」

「フン……。せいぜい頑張ることだ。我は帰る」

 イチローは制服に着替えると早々に部室を後にした。

「野球……か。それもあいつと一緒になんてよ……」

 ワイシャツのボタンを通していた影人は薄く笑みを浮かべた。

「負けたってのに、嬉しそーだな。影人」

「木原…………」

 隣で同じくユニフォームから制服に着替えていた明嗣が影人に声をかけた。

 影人は苦笑して、

「まぁな……。野球に未練が無かったかって聞かれたら、正直、無いなんて言えねぇしな。今日試合してみてハッキリした」

「……ふっ、やっぱおまえもか」

「……ったりめぇだ」

 明嗣も影人も心は同じ。

「影人」

「ん?」

「いつだったか、おれとおまえのバッテリーは無敵だ、みたいな話したの覚えてるか?」

 明嗣の言葉を受け、影人の懐かしい記憶が掘り起こされる。あれはそう、

「……中二の冬頃だな。オレがスライダー覚えたとき。最後の夏の大会で世間に大旋風を起こしてやろうって……」

「それそれ。……結局、出場停止喰らって出られなかったけどよ……今からでも遅くないんじゃないかって。今日、久しぶりにおまえの球を受けて改めてそう思った」

「木原……」

 普通の者と違ってスタートラインが一年ちょっとも遅れておいて、それでもまだ遅くないというのか。ブランクを埋めるにしたってどれだけの時間がかかるか分からない。ましてや、高校野球という舞台で勝ち上がっていくとなると、更に大きな力をつけていかなくてはならない。時間はいくらあっても足りない。頭では分かっている。

「………………」

それでも明嗣は自分を信じてくれる。自分達のバッテリーは未だ無敵になれる可能性を秘めていると。そんな言葉をかけられたら、自分も信じてみたくなってしまう。

「もちろん、改善点は山のよーにあるけどな。クイックは相変わらず下手だし、スタミナだって全然だ。ストレートの伸びも後半はボロボロだったしな」

「うぐっ……!」

 明嗣の言葉により再び現実に引き戻される。事実なので何も言い返せない。影人は悔しそうに呻く。

「逆に言えば、成長できる余地が山のよーにあるってわけだ。安心しろ。おまえは高校野球の舞台でも十分に通用する」

「偉そうに上から物言いやがって……」

「ははっ」

 制服に着替え、帰り支度を終えた明嗣は去り際に、

「っ」

「!?」

 影人の唇に軽くキスをした。

「じゃーな。明日からの練習気合入れていこーぜ、相棒」

 顔を真っ赤にしてテンパる影人を面白可笑しそうに見てから、明嗣は部室を後にした。

「あの野郎……! ちっ!」

 自分には想いを決めた人がいるというのに。明嗣はそれを分かっていても、こんな具合にからかってくる。厄介で仕方が無い。なぜだか嬉しく思ってしまうから、尚更。


***


 現在は夜の七時。龍示チームの面々は学校の近くのファミレスで祝勝会を催していた。一旦家に帰ってからの催しなので、皆の格好は私服だ。

「皆、グラスもったか~!? よし! そんじゃあ、我々の勝利を祝して! かんぱーい!」

「「「「かんぱーい!」」」」

 乾杯の音頭を龍示が取り、一同はドリンクバーのグラスを周りの人と打ち鳴らして、本日の試合の勝利を改めて喜び合った。

 龍示はゴクゴクとグラスの中身を飲み干し、

「ぷはーっ! HAHAHA! 俺様の力を思い知ったか! ゲイどもめが! 正義は必ず勝つのだ! HAHAHA!」

「いや、兄さん全然活躍してなかったじゃん! 今日の試合、ゲイの人にボールぶつけた場面しか思い出せないんだけど!」

 確かに、龍示の活躍は地味だった。リリーフで三者三振に仕留めたのは見事だったが、ホームスチールを許してしまった失態の方が圧倒的に大きい。

「確かにな。今回の試合のMVPは深山と沖田じゃないのか?」

「いえ。確かに桜ちゃんも沖田君も凄かったですけど、それだけじゃありません」

 武山の言葉を、沙希が否定する。

「そもそも、初心者組がこの短期間で守備をマスターしてなかったら試合にすらなりませんでしたから。三つ子君の守備も、和ちゃんのミスの無い捕球も、先生の……あの……そうだ! デッドボールも! 全員が全員MVPです!」

「「「そうそう! 皆頑張ったってことで!」」」

 一同はお酒で酔った様に上機嫌な面持ちで、それぞれ近くの人と談笑を楽しむ。

 少しして、龍示が沖田と三つ子に真面目な話を切り出す。

「おまえら、これからどうするんだ?」

「「「「?」」」」

 龍示の問いに、四人は首を傾げる。まだ意味が分からないといった具合だ。

「試合に勝ったことで、野球部が新しくなるわけだ。だからなんつーか……良かったら、これからも一緒に野球やっていかないかってことなんだけど……どうだ?」

 ます、三つ子の答えは、

「「悪いけど僕らは保留で」」

「僕はオッケーだよ」

 意見が割れた。

「誰だ!? オッケーって言ってくれたやつ!」

 三つ子の内、一人が手を上げる。

 手を上げた腕の所には『一』のタトゥー。本日、影人からヒットを打った一男だ。

「うぉおお! マジか! ありがとう、一男! 心強いぜ!」

「「あの……一男、マジ?」」

「いや、だって……」

 一男はなぜだか龍示の方をチラリチラリと見て、

「……?」

 龍示が首を傾げて一男の方を見ると、

「っ! (ポッ……)」

 一男はなぜか頬を赤く染めて、龍示から視線を逸らした。

「ま……まさかな……。まぁ、いい。これからよろしくな、一男」

「う、うん。よろしく」

 龍示の脳裏に嫌な予感がよぎり、本能が警鐘を鳴らす。『今の妙な態度を追及してはいけない』と。龍示は会話のターゲットを沖田に変える。

「沖田はどうだ? 野球部、入らねぇか?」

「う~ん、どうしよっかなぁ~?」

 正直、沖田には是が非でも入部してもらいたい。奴隷となった野球部の面々は下手クソばかりなのだ。まともな経験者の数は一人でも多く欲しい。

「やっぱ……ダメか? 面倒だもんな……。部活なんて……」

「ううん、そういうんじゃなくって……。藤田君のお願いの仕方次第かなぁって。ふふっ」

「……? なんだよ、それ……」

 沖田は小悪魔チックに笑って、龍示を困らせる。

「ボクのこと……必要?」

「ああ。必要だ」

 龍示は真面目に頷いて答える。しかし、沖田はそれに満足せず、次なる質問を投げかけてくる。

「奴隷になった野球部の人達よりも……必要?」

「……まぁな。気心の知れたやつの存在はでかい」

 これから、龍示はゲイに囲まれて野球をする日々が続いていくのだ。自分の言いなりにできるようになったとはいえ、そんな連中に囲まれて心が休まるはずもない。まともな人間である沖田の存在はオアシスそのもの。

「一男君よりも……必要?」

「あぁ、当然だ。一男なんかよりも全然必要だ」

「ちょっと藤田君!? もうちょっとオブラートに包んでくれない!?」

 一男は龍示の答えに憤慨するが、龍示はというと一男に視線一つ寄こさず、真っすぐに沖田の瞳を見据えていた。

「頼む、沖田。俺と一緒に野球部やってくれ。おまえが必要だ」

 そこで、ようやく沖田は、

「うんっ、いいよ。これからよろしくね? 藤田君。えへへっ……」

 満足そうに笑って龍示の手をギュッと握って握手をしてきた。

「お、おう! ありがとな!」

 小さくてプニプニした柔らかい手。龍示は沖田の女の子っぽい感触にたじろいだ。

「………………」

 一男が何やらジーッと物欲しそうな視線を向けてきているようだが、あえて龍示は無視する。『追及してはいけない』という本能の警鐘。

「そういや、冷房で体冷えてきたな。俺、ちょっと外出てくるわ」

 龍示は一男の妙な視線から逃げるように、席を立って外へ出て行った。


***


「あぁ……あったまる……」

 普段なら鬱陶しくてたまらないジメジメと熱気のこもった空気が今は心地良い。龍示は冷房で冷えた体を夏の外の空気で暖め、出入り口の近くにあったベンチに腰かけた。

「あぁ……人生最大のピンチだったんだよなぁ……」

 龍示は改めて、今日の一世一代の勝負に打ち勝てたことにホッとする。

「まさか……一男までゲイに…………いやいやいやないないない」

 あの妙に熱のある一男の視線を思い出し、龍示は首を横にブンブンと振ってそれを頭から追い出す。

「にしても……沖田は反則だろ……。さっきの手……超プニプニだったし……実際、顔も超可愛いし……」

 顔だけじゃない。無防備で人懐っこいところも心をくすぐられてしまう。

さっき握手された時もそうだったが、子どものようにあどけなく笑いかけてくると、正直ドキドキしてどう返せばいいのか分からなくなってしまう。

「いやいやいやいや! あいつはそんなんじゃないから! あいつはそういうんじゃないから! あいつはノーマルなんだ! こっちがドギマギしてどうすんだ!」

 沖田がゲイではないということは龍示が一番知っている。男からアプローチを受けて困っていると、沖田から相談されたことも一度や二度ではない。その時の沖田は本当に気味悪そうにしていたし、そっちの気があるなど到底ありえない。

 龍示はふと、とんでもない仮定にぶち当たる。

「……沖田にドキドキするってことは……俺……ゲイなのか……?」

 まさか。あれほど気持ちが悪いと思っていた野球部の連中と、自分が同族だったというのか。

「いやいやいやいや! 俺はノーマルだ! 沖田は例外! ありゃ例外だ! だって見た目が美少女なんだから! そりゃ仕方無いよ!」

 例えばの話だ。八〇過ぎのおばあちゃんと沖田のどちらかを抱かなければならないという状況になれば、男は誰だって沖田を選ぶはずだ。だから自分はアブノーマルなんかではない。あんな野球部の連中と同族であってたまるか。龍示は必死に自分に言い聞かせた。

 そろそろ体も温まって、外の空気の熱が段々と鬱陶しくなってきた。龍示は腰を上げて店の中に戻ろうかと思ったところに、

「藤田君」

「鷺咲……さん?」

 龍示と同じく外へと出てきた沙希は挨拶代わりに柔らかく微笑み、こちらへと寄ってきた。

 龍示は気になって尋ねる。

「どうしたんですか? 外になんか出てきちゃって」

「私も体が冷えちゃって。ちょっと休憩です」

「へぇ……。と、隣、座ります?」

「はい。じゃあ、お邪魔して」

 沙希はゆっくりとした動作で龍示の隣に腰かけ、ホッと息をつく。温かい空気が心地良いみたいだ。

「さっきの……嘘です」

「え……?」

 龍示は何が嘘なのかが分からず、間の抜けた感じで聞き返す。

「本当は、藤田君が外に出て行くのが見えたから追いかけてきたんです。ほら、こうやって二人で話す時間があまりありませんでしたから」

「そ、そういえば、そうですね」

 全然『そういえば』ではない。試合の終わり、沙希はずっと桜や千郷といった女子集団と仲良く話しをしていたため、龍示は沙希との二人の時間が無くてずっと悶々としていた。

「………………」

「………………」

 二人きりの静寂。少し離れた道路を行き交う車の音、ドアを隔てて店の中からかすかに聞こえる客や店員の喧噪。小さな雑音のBGM。

「いざこうして藤田君と二人っきりになってみると、何を話していいのか分からないです」

「(グサッ!)あ、あの……もしかして俺って接しづらいですか……?」

「いえいえいえ! そういうことじゃなくって! 話したいことがありすぎて何から話していいのか分からないっていう意味です!」

「話したいこと……ですか?」

 沙希は『はい』と頷いて肯定する。そして、どれから話したものか、と少し悩む素振りを見せてから口を開く。

「藤田君……。なんていうか……藤田君は私の恩人なんです」

「恩人……ですか?」

「はい。私……今まで毎日がつまらなくて仕方がありませんでした」

「……!」

 意外だった。甲子園について語る時、あんなにも目をキラキラとさせていたような人間の口から『つまらない』という言葉が出てくるなんて。それも毎日という言葉にくっついてきているのだから尚更だ。

「昔から私は人と接するのが苦手だったんです。だから今まで、一緒に遊べるような友達もいなければ、クラスに馴染むことすら満足にできませんでした。腹を割って話せる相手は家族だけ。同年代では妹の岬だけです」

「……なんとなく分かります。俺も中学のときは浮いてたんで。寂しさの辛さに慣れるのも大変でしたけど、ようやく慣れたと思っても、別に毎日が楽しくなったわけじゃないんだってことにも気づきました。その時は妙に虚しかったです」

 龍示はかつての沙希とかつての自分を重ね合わせる。沙希と似た経験とまではいかなくとも、沙希と似た辛さなら自分も味わっている。

「藤田君は強いですね……。私は藤田君と違って慣れませんでした。寂しいのが辛いのは今でも変わらないです」

 沙希が苦笑して言った。

 別に自分は強いわけじゃないと龍示は思う。そして沙希が弱いとも思わない。単に心が麻痺しているだけのことだ。

「中学の時に野球を知って、夢中になれることが見つかったのは嬉しかったんですけど、同時に話を分かち合える人がいないっていう寂しさは辛かったです。唯一の話し相手の岬は野球に興味は全くありませんでしたから。毎日の根本がつまらないことには変わりなかったんです。高校に入っても一緒でした。相も変わらずクラスメイトとは馴染めず、つまらない毎日の連続でした」

 要は全て自己完結してしまう毎日だったということだ。自分の中であった出来事は自分だけのこと。誰に影響を与えるでも、誰からも影響を受けることのない人生。言葉にすれば軽く聞こえるが、これがどれだけ虚しく、また辛いことであるかは龍示にも分かる。心が麻痺したからといって、辛かったときのことを全て忘れたわけではないから。

周りからすれば、本人がそう感じているだけで事実はそうではない。知らずの内に誰かから支えられているという事実に本人が気づいていないと一蹴してしまうかもしれない。

しかし、そうではない。そんな優しい人間が実在していても、心の擦り切れた人間の視界には入ってこない。認識できない。すなわち、そんな優しい人間などいないも同然なのだ。

そして、周りの言う的外れな事実など本人にしてみればクソの役にも立ちはしない。心が擦り切れてボヤけた視界こそが本人にとっての事実なのだ。

故に、自己完結の世界が出来上がってしまう。沙希は幼い頃からその世界の中で苦しんできた。しかし、

「そこで、藤田君の登場です」

 沙希はピッと龍示を指差し、言う。

 龍示は少し困惑しつつも、沙希の言葉を待つ。

「私のつまらない毎日を壊してくれた、私のモノクロの人生に楽しい色をつけてくれた、私のヒーローです」

「ヒーロー……ですか……? 俺が……?」

「はい。藤田君は最初に私と友達になってくれました。私の好きな野球の話を一緒にしてくれました。私の夢を聞いてもらいました。桜ちゃんと和ちゃん、いろんな人と友達になれました。恩の数を上げればキリがありません」

「……それは全部、鷺咲さん自身がやったことです。鷺咲さんが俺と友達になってくれて、鷺咲さんが野球の話を持ちかけてくれて、鷺咲さんが夢を話してくれたんです。桜と和と仲良くなれたのも鷺咲さん自身です。残念ながら、俺はそんな大層な人間じゃないですよ」

「あんな無茶な勝負をしかけておいて、よく言えますね。というか、そこまでいくと謙遜というより責任逃れみたいですよ?」

 沙希はクスクスと笑って言う。

「責任逃れ……ですか?」

「はい。私の毎日を楽しくしてくれた責任です。この責任はしっかり取ってもらいますからね?」

「……具体的にはどういった方法で?」

「えっと……なんていうか……わ、私ともっと仲良くなってもらいますっ!」

(なっ……! なんですとぉお!?)

 願ってもない話だ。これでこそ命を賭けた甲斐があったというもの。差し当たっての問題はどのようにして沙希と仲良くなるのかというところ。龍示の脳内にピンク色の妄想が駆け巡る。


***


『藤田君……まずは手始めに、手を……繋いでみませんか?』

『ふふっ、いいですよ鷺咲さん(キリッ)』

 互いの指と指が絡み合い、互いの手が結ばれる。

『わぁ……藤田君の手……大きいです……。大きくて、ゴツゴツしてて……男の人って感じです……』

 沙希が握っている方とは逆の手を使って、両の手で包みこむようにして龍示の手の感触を確かめられる。なんだかくすぐったい。

『そういう鷺咲さんこそ。小さくて柔らかくて、可愛い手ですよ』

『か、可愛いだなんて……(ポッ)』

 頬を赤く染めて視線を外す沙希。龍示はそんな沙希が可愛くて笑みがこぼれる。

『こうしていると、お互いの心が流れてくる感じがしませんか?』

『そんな……大げさです。じゃあ、私はどんなこと考えてると思いますか?』

 イタズラっぽく笑って沙希が問いかけてくる。

『そうっすね……。手を握ってると落ち着くって感じですか?』

『くすっ。ぶっぶーです。全然違います。藤田君、全然分かってないじゃないですか』

『えぇ? 本当ですか?』

 可笑しそうに笑う沙希。しかし、段々と言葉と表情が尻すぼみになっていく。

『全然……分かってないです……』

『鷺咲……さん?』

 (しお)れた花のような笑顔で沙希が言った。今にも散ってしまいそうな、儚い笑顔。

 そんな沙希の表情に龍示は戸惑う。なんだか、今の沙希は見ていて心が締め付けられる。

『ほら』

 沙希が短く口にすると、繋いだ手が沙希の胸の膨らみに押し当てられる。

『さ、鷺咲さん!?』

『私の胸……藤田君と手を繋いで、すごくドキドキしてます……。全然、落ち着いてなんかいないです……』

『鷺咲……さん……』

『今度こそ伝わりましたか……? 私の気持ち……』

 沙希は首を傾げて龍示に尋ねた。

『はい。もちろんですよ』

 そこで互いに笑みが戻る。

『じゃあ……もう一度、藤田君に問題です』

『……?』

『私は今、何を考えているでしょう……?』

 沙希が『もう、分かりますよね?』と笑みを見せる。そして、沙希は両の目蓋を閉じ、桃色の唇を龍示の前に、無防備にさらけ出してくる。

『………………』

 もう言葉はいらない。龍示は沙希の華奢(きゃしゃ)な肩を抱き寄せ――――


***


「でゅふふふふっ。くくっくぁっかかっかか。じゅるりっ」

「あ、あの……藤田君? ちょ、ちょっと大丈夫ですか?」

「へ……? えっ!? あ、あぁ! すみません! ちょっと意識飛んでました!」

 ピンク色の妄想から現実へと引き戻される。

いつの間にか口元から垂れたいたよだれを慌ててシャツの袖で拭う。

「あの……ドラッグとか……?」

「やってません! 大丈夫ですはい!」

 頬をパンパンと叩いて脳内のピンク色の風を追い出す。意識がはっきりしてきたところで、自分は話のどこぐらいからトリップしていたのだろう、と記憶を手繰り寄せる。

「私の話、どこまで覚えてますか?」

「えっと……確か、鷺咲さんと仲良くなろうってところまでは現実ですよね?」

「そうなんですけど……あの……本当に幻覚とか見てませんよね?」

 龍示はとりあえず沙希の心配をなだめる。ドラッグをやっていて頭がおかしくなったわけではないと。ドラッグをやるまでもなく頭がおかしいだけなのだと。

「姉さんの戻りが遅いと思ったら……あんた、姉さんに何してんの?」

 二人の背後から岬の声。

「げっ!」

「み、岬!?」

 二人はビクンと肩を震わせて岬の方に視線を向ける。

「姉さん、変なことされてない?」

「う、うん、大丈夫」

 岬は龍示を蔑むように見て、

「あんた、姉さんに変な気起こしたら殺すから」

「起こしてねぇよ!」

 ダウト。

「ふん、どうだか。どうせ姉さん本人を前にしてエロい妄想とかしてたんじゃないの?」

「おまえ……エスパーか……!?」

 一度否定したというのに岬は核心をついてきた。その恐ろしさに、龍示は一筋の冷や汗を垂らす。

「やっぱ起こしてんじゃんバカ! 死ね! 下衆野郎!」

「うるせぇ! 男なんだからしょうがねぇだろうが!」

「はぁ? うざっ! マジ、キモいんですけど!」

「ちょっ……おま、本当それ傷つくよ。女子からの『キモい』は本当に傷つくよ」

「やったじゃん。まともな感性が働いてるのが分かって」

「嬉しくねぇから! おまえ、もうちょっと俺に優しくしてくれてもいいんじゃない!? ほら! 俺の心はもうボロボロだ!」

「いっそ全部壊してあげよっか? あしたのジョーのカーロス・リベラみたいに」

「古っ! つーか、今おまえ全国のパンチドランカー敵にまわしたぞ。分かってんのか?」

「うっ……失言だった……」

 岬は気まずそうに反省した。そんな岬の隙を、龍示は逃さない。

「失言? 言葉には責任が伴われるってこと分かってねぇのか? あん? おまえのその安易な発言に全国のカーロス・リベラさんの頭はカンカンだ。ほら、謝れよ。ほら」

 龍示はネチネチと岬を責め立てる。

「くっ……! す、すみませんでした……!」

「復唱しろ『全国のカーロス・リベラ様』」

「……全国のカーロス・リベラ様」

「『不肖、わたくし鷺咲岬は』」

「不肖わたくし鷺咲岬は」

「『健やかなときも、病めるときも、喜びの時も、悲しみの時も、富めるときも、貧しきときも、藤田龍示を愛し、藤田龍示を敬い、藤田龍示を慰め、藤田龍示を助け――』」

「それ誓いの言葉じゃん! つか、なんでわたしがあんたと結婚することになってんの!?」

「DVにはモーニングスターを採用」

「わたしトカレフ」

「ぐぬぬっ……! 口の減らないクソ女が……! とことん生意気言いやがって……!」

「は? 生涯童貞の方、何か言いましたか?」

 カチン。

「上等だボケぇ! 立てやコラぁ! 正座しろ正座ぁ! そこ座れぇ!」

「うっさい! 黙れ変態! 前からあんたのことは気に喰わなかったんだから!」

 カーン! 龍示と岬の争いのゴングが鳴る。

「変態っつったらおまえの方が変態じゃねぇか! 野球部男子の着替えとか盗撮してるって話聞いたぞ!?」

「あんた全然分かってない! いい!? BLは文化なの! この世における最高の芸術なの! 野球部の人達の崇高なる愛の営みはカメラにキッチリと収めるのが、わたしの義務ってもんでしょうが!」

「そんな義務背負わなくていいから! つーか盗撮の内容が着替えよりも一〇〇〇倍エグいんだけど!? おまえ、それでよく他人に変態なんて言えるな!」

「いくらでも言ってやるっつーの! 死ね変態! 口だけ男! 試合でなんも活躍できなかったくせに!」

「はぁ? 大活躍だったし! 言っとくけどな? 桜も沖田もつれてきたのは俺だぞ? あの試合は俺の人徳で勝ったようなもんだろうが!」

「それ他人の活躍だから! 馬鹿じゃないの?」

「んだとコラぁ! 馬鹿に馬鹿って言われる筋合いはねぇだろうが!」

「赤点補習野郎が何か言いましたか? ちなみに、わたし期末の一教科平均九〇超えてるけど何か?」

「…………え?」

 どうやら岬は勉強ができるらしい。意外だ。

「馬鹿って人を見る目も無いんだね? また一つ勉強になったわ。あっはっは」

「ぐぬぉぁあ! クソぉ! マジむかつくんですけど! こいつマジむかつく! なぁ? 頼むから一発殴らせてくれ……。金ならいくらでも払うから……!」

「は? 女に暴力とかマジ最低。死ねば?」

 龍示の額は血管の青スジだらけ。対して岬は嘲笑の笑みを満面に浮かべている。勝者がどちらなのかは言うまでもない。

 そこへ、

「岬ばっかりずるいです……」

「「?」」

 今まで黙っていた沙希がポツリと呟いた。

「藤田君、私ともっと仲良くしてくださいって言いましたよね?」

「え? は、はい」

 沙希の様子が少しおかしい。

(鷺咲さん……微妙に、怒ってる……?)

「なのに……さっきから岬ばっかりと楽しそうにして……」

「全然楽しくないですから!」

 沙希の見当違いな誤解を解かなくては、と龍示は、

「こんなにストレス溜まって抜け毛がホラ!」

 ブチィ! と髪を一房引きちぎって沙希に見せる。しかし、沙希には伝わらない。

「どうでしょうか? 岬にしたって私意外の人とあんなに楽しそうにしているの初めて見ますし」

「いじめって楽しいもんですからね! やられる方はたまったもんじゃないですけど!」

 プンプンと擬音が聞こえてきそうな具合にスネる沙希。この調子だとどう言い繕っても無駄な気がする。

「言っておきますけど、私の方が藤田君と一緒にいる時間は岬よりも長いんですからね? ちゃんと分かってますか?」

「いや、そ、その……鷺咲さん?」

 ズイッと無防備に顔を近づけてくる沙希。沙希の愛らしい顔立ちのアップと、女子特有の、ほのかな甘い香りが伝って、龍示の心臓の鼓動を激しくさせた。

「……『沙希』……です」

「へ?」

「これから、私のことは下の名前で呼んでください」

「ま、マジですか……?」

 嬉しいことこの上無い申し出ではあるものの、如何せんハードルが高すぎる。憧れの女子を下の名前で呼ぶなど、チキンの龍示には恐れ多い。

「ほ、ほらっ! 岬のことは下の名前で呼ぶのに、私が名字っていうのは変じゃないですか。なんていうか、よそよそしいです」

「そ、そうですか? そんなつもりは無いんですけど、鷺咲さんがそう言うんなら」

「ブーッです。今、『鷺咲さん』って言いました。もう一回です」

 沙希は人差し指でバッテンを作って警告。

「……分かりました。さ、沙希さん」

 実際に『沙希さん』と口にした瞬間、何とも言えない気恥ずかしさが満ち溢れた。胸がドキッと高鳴り、頭が熱でクラクラする。

「むぅ……まだ『さん』付けですか……」

 いくらなんでも下の名前を呼び捨てはできない。別によそよそしくしているつもりではないのだが。

 それでも、まだ少し不満そうにする沙希に、龍示は意趣返しをしてやろうと切り出す。

「それはそうと、さ、沙希さんは俺のこと、下の名前で呼んでくれないんですか?」

「へ!? も、もちろん呼ぶに決まってるじゃないですか! 話の流れからして当然です!」

 言葉とは裏腹にテンパりだす沙希。考えてなかったらしい。

「じゃあ、呼んでみてください。俺のこと」

「じゃ、じゃあ……」

 コホンと可愛らしく咳をしてから、緊張した面持ちで正面に向き合ってくる。

「「!」」

 視線と視線がぶつかり、二人の間で妙な気恥かしさが生じる。

 くすぐったさに負けてはいけない、と沙希は意を決したような表情で口をゆっくりと開く。

「りゅ……龍示……君……」

「っ!」

 羞恥で真っ赤に染まる頬。恥ずかしさから逃げてはいけないと健気に頑張る顔。自分にだけ向けられている真っすぐな視線。そして、振り絞った勇気によって桃色の薄い唇から紡がれた、儚くて小さい甘美な響き。

(ヤベぇ……)

 なんだ。この破壊力は。なんだ。この可愛すぎる少女は。

 龍示は無意識にゴクリと喉を鳴らす。

「…………!」

 抱きしめたい。目の前の少女をこの腕で包み込みたい。優しい温もりをこの胸で感じたい。

 龍示は沙希の魅力に抗うすべも無く酔ってしまう。

「沙希……さん……」

脳が溶かされ、思考がボヤける。龍示の腕が意識とは関係無く、沙希の方へと伸びていく。

「死ねぇええええ!」

「は!? ごふぁあっぷぉあ!?」

 龍示は岬の飛び蹴りをモロに受け、キリモミ状になって飛んでいく。そして地面に叩きつけられ、痛みに悶える。

「黙って見てたら何? あんた人の姉に何しようとした? あぁ?」

「痛ぇ……! はっ! 俺は何を……?」

「『何を』じゃない! 死ね! セクハラ男!」

「え!? うそ!? マジで!? セクハラしちゃった!?」

「させるか馬鹿っ! 未遂に決まってんでしょうが!」

「岬! 変な言いがかりつけないのっ! 龍示君に謝って! やりすぎだよ!」

「はぁ? むしろ感謝してほしいんだけど? わたしの飛び蹴りが一歩遅かったら、こいつ性犯罪者の仲間入りだったんだよ?」

「それに関してはありがとうございます。岬様」

 龍示は岬にペコリと頭を下げた。

 岬に止めてもらわなかったら自分は何をしていたか分かったものではない。場合によっては金輪際沙希と関わりになれないくらいに気まずい事態に陥っていたかもしれない。今までの暴言を許せるくらいの感謝だ。

「ふん……。わたし、戻る」

「ちょっと岬!」

 沙希の制止の言葉も待たず、岬は店内へと戻っていった。

「「………………」」

 残された二人の間で妙な沈黙が流れる。

「……俺らも戻りましょうか、沙希さん」

「……そうですね。龍示君」

 互いに苦笑して、二人も店内へと戻っていった。そして、再び仲間達と騒がしくも楽しい夜を過ごすのだった。


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