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弱小。BL野球部  作者: 一般人凡人
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第六章 弱小。ピンチ到来

第六章 弱小。ピンチ到来


 試合は投手戦へともつれ込み、点数は一対〇と拮抗したまま回は進んでいく。

 龍示チームは龍示が度々フォアボールで出塁することはできるものの、本気の影人相手にはなかなか以降の打線が繋がらず、頼みの桜も完全に警戒されており、初回以降はヒットを許されていない。

 野球部チームも、桜の球をバットに当てこそするものの、完全に打たされた球ばかりで良いあたりがほとんど出ない。イチローは頑として眼帯を外さないおかげで『消える魔球(バニシングイービルボール)』に苦しめられ、下手クソ組(松村、一功、モブキャラ軍団)も初回の松村のようなマグレがほとんど出ない。名門組(影人、明嗣)の影人も桜の巧みな投球に苦しみ、明嗣も敬遠によって勝負を許されない状態にあった。

 どちらのチームも点を取るにはもう一手、二手足りない状況が続く。

「どうだ? この試合、もう一回くらいヒット打てそうか? 桜」

 ベンチで桜が水分を喉に流し込んでいるところに、龍示が声をかけてきた。

「正直、ちょっと厳しいかも。回が進んで潰れてくれればどうにか、って感じかな。あの人……相当凄いよ。中学の名門ってレベルじゃない」

「やっぱ、そう思うか。……まぁ、点が取れなくてもこのまま点をやらなければ俺らの勝ちなんだ。一応聞いておくけど……最後までもつか?」

「体力に関しては問題無し。でも……正直、敵がこのまま終わってくれるとは思えないんだよね。一筋縄じゃいかない相手だよ」

「……だな」

 六回の裏。一番打者から始まる野球部チームの攻撃。桜の懸念を表すかのように、試合の流れはここから大きく変化し始めていく。


***


 桜はマウンドに立つと、大きく深呼吸。四番の明嗣の前後の打者は一球たりとも気が抜けない。明嗣の前にランナーを出すということは、明嗣を必ず敬遠する以上、ランナーを得点圏に進めることと同義であり、明嗣の後にヒットを許すということは失点に直接結び付く危険を(はら)んでいるからだ。

 一番打者の銀髪眼帯中二病男のイチローが打席に入る。

「小娘……我は貴様を侮っていたようだ。ここまでのピッチング……見事である。さすがは消える魔球(バニシングイービルボール)の使い手といったところか……」

「………………」

 桜は何も答えない。面倒だから。

「そんなうぬに敬意を表して、ここからは我も全力でいかせてもらう……! 我を本気にさせたこと……誇るがよい……!」

 イチローはとうとう、右目の眼帯に手をかけ――外す。

「ぐっ……ぐぅあああぁああああああ!」

 途端に、イチローは右目に激痛が走ったかのように苦悶に満ちた声を上げ、右目を手でおおった。

「くぅっ……! 魔力の(ほん)(りゅう)を抑えねば……! ぅうあぁああ!」

 パシン!

『ストライク!』

 桜はイチローの魔力の暴走などどこ吹く風で球を投げた。

「うぉおああ……えぇえ!?」

 これにはイチローもびっくりで、思わず芝居を中断してしまった。

 イチローが動揺してる間にも、桜はすでに投球動作に入っており、

「ちょっ……待っ――」

 バシィッ!

『ストライク!』

 これでツーナッシング。イチローは追いこまれた。

 さすがに格好がつかないので、イチローは中二病ごっこを止め、しっかりとバットを構えて無言で桜に対峙した。

「……もう魔力がどうのってやつはいいんですか?」

「ふん……危うく膨大な魔力によって我の存在そのものが呑みこまれてしまうところであった……。されど……だから待って!」

 カン!

 桜の不意打ちも三度目は通じなかった。イチローはカットで逃げる。

「……!」

 桜の顔に、ほんの少しの変化が生じた。

(……当てた……?)

 不意を突いたにも関わらず、だ。バッティングの態勢が満足に取れていない状態だったというのに、タイミングを合わせるための準備すらロクにできていない状態だったというのに、イチローはあっさりとバットに当ててみせた。

「桜。そのアホ……気をつけろ。金髪のセンパイ並にヤバい」

 危機を感じた龍示がセカンドから声をかけてきた。

「……歩かせる?」

「いや、絶対駄目だ。塁に出したら走られまくる。初回の守備見たろ?」

 桜の打球を追った時のイチローの速さは半端じゃなかった。少なくとも、この場にいる全員の度肝を抜くくらいには。

「確かに……。あれじゃあ走るって分かってても刺せそうにないしね……」

イチローを塁に出した場合、下手すれば三塁までタダで進められてしまいそうだ。

「絶対に塁に出しちゃ駄目だ。ここは何としても打ち取ってくれ」

「……分かった」

 桜は今まで球を低めに集め、ほとんどの打者をゴロに打ち取ってきた。しかし、

(ゴロは危険……かな。あの足ならどこに転がっても内野安打にしちゃいそうな気がする……)

 理想は三振。次いでフライだ。

 眼帯をしてくれたままなら今までのように、お得意の『消える魔球(バニシングイービルボール)』で三振にできるのだが。

 肝心の千郷からのサインは、

(アウトローに一旦外すストレート……)

 この球で勝負をつけるつもりだった桜は頭が冷えた。そして、いつの間にか自分は余裕が無くなっていたことに気づく。千郷の慎重な配球を桜は心強く思った。

 恐らく、千郷はこの次の球で勝負をしかけるつもりなのだろう。桜はそう考え、千郷の要求通りにアウトローのボール球を投げる。

「……我の勝ちだ。小娘」

「「「「!?」」」」

 なんと、イチローはボール球に向かってスイングを開始。頭の悪さからは想像すらできない程の、巧みで繊細なバット捌き。

 カキィン!

 イチローのバットは桜の球を流すように捉え、打球はレフト線へ沿うように飛んでいく。

「切れてっ!」

 桜の一縷の望みを託して叫ぶ。

『フェア!』

 判定はフェア。武山は必死に打球を追いかける。

 武山が捕球した頃にはイチローはすでに一塁ベースを蹴って二塁へと進んでいた。

 送球は二塁に間に合わず、

『セーフ!』

 結果はツーベース。

「「「「!」」」」

 龍示チームはノーアウト二塁のピンチを迎えることとなった。

 対して、野球部ベンチはというと、

「うおっしゃぁああ! よくやった中二病! ようやく藤田の綺麗な尻が見えてきたぜ!」

「イッチーやるじゃなぁ~い! 久々に超イケメンに見えるんですけど~! 龍クンの後で抱いてもらおうかしら♪ やぁあん♪」

「うぉおお! チャンスだ! 超チャンスだ!」

 試合始まって以来、初めての大盛り上がり。次に控えている打者は、いずれも良いあたりを出している打者ばかり。試合をひっくり返す場面はここしかないといった具合でメンバーの表情が興奮と緊張と期待とが()()ぜになっている。


***


「あの……藤田君? 大丈夫?」

 ショートの沖田が心配そうに声をかけてきた。

「え?」

「足……すっごい震えてるけど……?」

 龍示は自身の足元に視線を向けてみると、

「!」

 両方の足がプルプルと生まれたての小鹿の様に情けなく震えていた。

「おいおい……ま、マジじゃねぇか……。なんだよ……こ、この震えは……。つーか、口もうま、うまく回らなくなってんだけど……」

「藤田君でもこういうピンチな場面は緊張するんだね。ちょっと以外かも」

「……当たり前だ。こちとら、この試合で人生賭かってんだから」

「……なんかカイジみたいだよね。藤田君にとってのこの試合って」

 沖田は苦笑した。

 あまり緊張した様子の無い沖田とは対照的に、龍示の顔がどんどんドンヨリと曇っていく。そして、半ば(うつ)ろな目で沖田に尋ねる。

「どうしよう……沖田……。今になって超恐くなってきたんだけど……。俺……なんでこんな試合引き受けちゃったんだろう……?」

「今さら!?」

 主人公としてその発言はどうなのだろう。いざ決戦の舞台でこんな心底後悔したようなセリフを吐く主人公がどこに…………ここにいた。

「俺さ……彼女いない歴=年齢なんだよ……。女子と甘酸っぱい空気になったことなんて生まれてほとんど味わったことなんかねぇんだ……。そんな俺が……だ。なんでいきなり男に尻を貫通されなくちゃいけねぇんだよ……?」

 付き合いの長い桜とは甘酸っぱい空気になるはずもなく、沙希といる時は自分が一方的に舞い上がっているだけ。双方ともに意識しあって、互いに照れてはにかむような経験はほとんど、というか、一度たりとも龍示には無かった。

「異性との距離は一向に縮まらないってのに……なんでよりにもよって、むさ苦しい同性が光の如き速さで距離を縮めてくんだよ……? そんなの……あんまりにも理不尽じゃねぇかぁあ!」

「藤田君!?」

 龍示がとうとう、現実に耐えかねて正気を失った。

「俺は! 女子が好きだ! だが、女子は俺が嫌いだ! なんでだ!?」

「タイムタイム! 審判、タイムお願いします!」

『タイム!』

 桜が龍示の異変に気づき、慌ててタイムを取った。

「確かに俺は性格悪いよ!? 性格は悪いさ! けど、街でたまに見るだろ!? 刑務所行くのも時間の問題だ、みたいな頭の悪そうなヤンキー! でもあいつら女連れてるぜ!? 連れてなくても女慣れしてる匂いがプンプンしやがる! どうなってんだよ!? この世の中はよぉお!」

「落ち着いて! 藤田君! 藤田君にも、いつかきっと良い彼女ができるから! もっと自信もって!」

チームメイトが慌ててかけより、必死に龍示をなだめる。

「うるせぇ馬鹿野郎! 無責任なこと言うなクソが!」

 しかし、結果として龍示の怒りを煽ることになる。

「俺は女子に飢えすぎた結果なぁ、守備範囲がもうワケ分かんねぇことになってんだよ! 細木○子くらいなら余裕で抱けるぜ!」

「本当にワケ分かんないことになってる! 兄さん、歳の差いくつだと思ってんの!? 少なくとも半世紀以上あるよ!? というか、公衆の面前で兄の性事情を暴露される妹のアタシの立場を考えて!」

 和のツッコミも空しく、龍示の心には届かず、虚ろな目は一向に晴れない。

「本当……神様ってのはどこまでも理不尽だよなぁ……。なんでこんなに好きなのに……なんでこんなに届かないんだろうなぁ……。なんで話したこともない女子から陰口バンバン叩かれなくちゃいけないんだろうなぁ……」

 今度は龍示は涙目で遠くを見て語り出した。

「くっくっく……! いい気味だ……!」

 武山は面白そうにニヤニヤと龍示の醜態を観察する。

「……『あいつマジ生理的に無理』……『あいつ行動が意味分かんない』……『藤田って感じ悪いよね』……『性格悪そうだよね』……『桜、よくあんなのと一緒にいられるよね』……『空気悪くしてんじゃねーし』……」

 龍示チームの面々は『あぁ、そんなこと言われてたのか……』と居心地悪そうに困惑した。というか、試合中にする会話では絶対にない。

「『この前、藤田に超睨まれたんだけど。超ムカつく』…………睨んでねぇよクソ野郎!」

 和は龍示を正気に戻すため、沖田に声をかける。

「あの……沖田先輩」

「和ちゃん?」

「兄さんに沖田先輩のお母さんを紹介してあげてくれませんか? 沖田先輩のお母さんならきっと美人だろうし、兄さんも喜ぶと思います」

「『はい』って言うと思う!? 和ちゃんって時々突飛なこと言うよね!」

「でも……このまま兄さんの見境が無くなったら妹のアタシが毒牙にかけられる可能性も浮上してくるっていうか……」

「仮に藤田君に紹介してもボクの家庭が崩壊する可能性が浮上してくるから! 同級生が義理の父親とかありえないでしょ!」

 ちなみに、元ヤクルトのペタジーニは友達のお母さんと結婚したという話だ。二五歳差の結婚らしいが、龍示の半世紀差をもカバーする守備範囲の広さを聞いた後では驚きが少なく思える。

「てことは、アタシは沖田先輩の義理のおばさんってことになりますね。なんか面白いかも」

「ボクのお父さんの立場は……?」

 和の提案は棄却された、というか最初から論外だった。

 どうすれば龍示を正気に戻せるだろうかと、龍示チームの面々は四苦八苦する。

「これから先、生きたところで誰も俺のことを好きって言ってくれる女子なんて一人もいやしねぇんだ……。そんなクソみたいな人生の何が楽しいんだか……ゲブラァア!?」

 突然、龍示は奇声を発して地面に倒れた。

 一同は何が起こったのか視線を彷徨わせていると、

「マジありえないんだけど? やっぱ、あんたって口だけ?」

「テ……メェ……!」

 そこには沙希の双子の妹、岬の姿があった。学校にはちょうど今来たところらしく、ずっとグラウンドにいた面々よりも汗の量が少ない。

 岬は今来たばかりということなどおかまいなしに、舞台に土足で上がり込み、試合の役者である龍示に向かって蔑むように言う。

「姉さんとの約束、破るんだ?」

「!」

 龍示は頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。なぜ、こんなにも大事なことが頭から抜け落ちていたのか。ハッとなる。

 岬は龍示の胸ぐらを掴み、真正面から龍示を睨みつけて言う。

「あんた、この試合に勝って野球部をまともな部に立て直すって言ったじゃん……!」

「……!」

「姉さんに任せろって約束したんでしょ!? だったらちゃんと責任取れ馬鹿っ! ピンチだからって正気を失ってる場合じゃないじゃん! あんたは他人のために一生懸命になれる凄いやつなんでしょ!? だったらちょっとは根性見せてみろ! 藤田龍示っ!」

「!」

 龍示の心に、再び一本の軸が通る。それは強く、決して揺らぐことのない軸。もう、たかだかピンチ程度のことでは絶対に乱れない。

「桜。ピッチャー代われ」

「え……?」

「俺が投げる」

「「「「!」」」」

 一同が驚愕で目を見開く中、桜はニッと笑って龍示にボールを渡す。

「任せたよ、龍示」

「おう」

「いやいやいや! 藤田君って肩壊してピッチャーできないんじゃないの?」

 沖田が龍示に問う。

「力のある球が投げれなくなっただけだ。キャッチボール程度の球なら全く問題無い」

「あの……ボール渡したあたしが言うのもなんだけど……そんなんで大丈夫なの? それならあたしが投げた方が良くない?」

 キャッチボール程度の球などバンバン打たれるに決まっている。

「いや、いい。おまえにはまた後で頑張ってもらう。俺が投げる場面はここだ」

 龍示の意思は固い。誰も異論は挟めなかった。

「岬」

「なに?」

「……ありがとう。目ぇ覚めた」

「……フン……世話かけさせんな馬鹿」

 岬は龍示にそう吐き捨てるとベンチへと戻っていった。

「すんませーん! ピッチャー交代お願いします!」

 龍示は審判に告げ、マウンドへと向かった。

 そして桜は入れ替わるようにセカンドの守備位置へ。

「ちょっとちょっとちょっとぉ! 龍クンピッチャーできないって話じゃなかったの!? どうなのよアッキー!」

「おれが知るか。ふふっ……面白くなってきやがった……!」

「ま、マジで投げんの!? ヤッベ! 誰かビデオ! ビデオ取ってこい!」

 野球部ベンチは大慌て。ネクストバッターズサークルに控えていた隠れ龍示ファンである影人はテンションが上がりすぎて顔を真っ赤にしていた。

 龍示はマウンドでキャッチャーの千郷を打ち合わせをする。

「球種はストレートとスプリットと……あとスライダーでいいか……。サインは俺が出す」

「……別にいいですけど……」

 負けた場合の責任は全て龍示がかぶることになっているので、千郷は異論を挟めない。

「よし。パターン一がストレート。パターン二がスプリット。パターン三がスライダーだ。オッケー?」

「分かりました」

 酷く短い打ち合わせを終えると、千郷はキャッチャーポジションへと戻っていった。

「投球練習いらないんで、試合再開してください。尺も無いですし」

 尺が無いならくだらない雑談を控えろという話だ。

『プレー!』

 審判は龍示の要求をすんなり受け入れ、試合再開。ノーアウト二塁。打者は二番の松村来栖だ。

「「「「………………」」」」

 かつて幻のピッチャーと呼ばれていた男は果たしてどんな球を投げてくるのかと全員が固唾を飲んで見守る。


***


 千郷は気が動転していた。まさか、あの藤田龍示の球を自分が受けることになるとは思ってもみなかった。龍示のことは基本的に大嫌いなのだが、野球選手としての龍示は本当に尊敬しているのだ。自然とミットの方の手が震える。

龍示はそんなことなどどこ吹く風といった感じで淡々とサインを出してくる。

千郷は了解のサインを返すと、龍示はさっさとクイックモーションの投球動作に入る。

(……まさか本当にキャッチボール程度の球じゃないよね……?)

 龍示のフォームは腕を四五度の角度で振り抜く、いわゆるスリークォーターのフォームだった。

 綺麗なフォームから放たれた球は宣言した通り、一〇〇キロ前後の緩い球。キャッチボールよりは幾分か速い。

(打たれるっ……!)

 コースがめちゃくちゃ甘い。完全にホームランボールだ。

「もらったぁあ!」

 松村は絶好球とばかりにフルスイング。

 球は松村のバットと正面衝突するかと思われたタイミングで、球は突如軌道を変え、避けるように沈んでいく。スプリットだ。

「「!?」」

 松村のバットは空を切り、ミットを(はじ)く柔らかい音が響いた。

『ストライク!』

「何やってんだ松村ぁああ! 空振りするような球じゃねぇだろ! 緩いストレートじゃねぇか!」

「あんなん俺でも打てるわボケぇえ!」

 野球部ベンチから松村への野次が飛んでくる。

「うるせぇえ! ちょっとミスっただけだ! 黙って見てろクズ共ぉお!」

 龍示が投げた球はスプリットだったのだが、遠くにいる人間から見れば落ちたかどうかすらも分からないくらいに微妙な変化らしい。というか、松村自身も気づいていない様子だ。

 球を受けた千郷は戦々恐々としていた。

(こんなの……ホームランボールじゃん……!)

 あの男は馬鹿なのか。

 こんな変化の小さい球ではほんの少しの手元の狂いでホームランだ。よくもまぁ自信満々にこんな球を投げてくるものだ。

 龍示は二球目のサインを出してくる。

(……もう打たれても知らないもん……)

 千郷は呆れ半分に頷いて了解する。

 二球目。

 またしてもスプリット。今度はアウトローのいいコースに向かっていく。

「むっ……!」

 松村は手が出ないと判断して見送るが、

『ストライク!』

「「!」」

 判定はストライク。

 これでツーストライク、ノーボール。

「打てや松村ぁあ! ふざけてんのか、あぁん!?」

「ちっ……! ボールだと思ったんだよ! 次ちゃんと打つから黙ってろ!」

 しかし、今のコースは絶妙だった。いくら球威の無い球とはいえ、打つのは難しい。

 松村は野球部ベンチの一方的な物言いに鬱陶しそうに顔をしかめる。

「………………」

 千郷は龍示の投手としての力を測りかねていた。球威も変化球も、明らかに桜より劣っている。そのはずなのに。

 考えるのは後にしよう。千郷は龍示のサインを確認する。

(うそ……? 正気……?)

 千郷は龍示のサインを疑った。しかし、龍示は千郷の疑念に構わず、さっさと投球動作に入り――投げた。

 一〇〇キロ前後のインハイのストレート。

「っ!」

 松村は思い切りの良いスイングを見せ、

「!?」

空振りした。

『ストライクバッターアウト!』

「「「「!」」」」

 松村は呆然とした様子で、千郷のミットと龍示の顔を交互に見る。しかし、そんなことで結果が覆るわけもない。

「クルスン気にしないで~♪ ドンマ~イ♪ まだワンナウトなんだから♪」

「死ね松村! 死ね!」

 松村は励ましと野次の板挟みの中、悔しそうにベンチへと戻っていく。

「………………」

 そんな中、千郷は龍示の投球が不思議でしょうがなかった。龍示のような球威の無い投手なら、徹底して低めを攻めて、ゴロを打たせてアウトを取る形がセオリーなはずだ。だというのに、低めに投げたのは三球の内、たった一球のみ。たまたま運良く打ち取れたものの、こんな投球があってたまるか。龍示が何を考えて投球しているのか千郷はワケが分からなかった。今すぐにでも桜と代わってもらいたい。

そんな千郷の気持ちはあくまで気持ちのまま、試合は進んでいく。

三番打者はピッチャーの影人。ワンナウト二塁と、なおもピンチの状態は変わらない。

「こんなピンチな状態だってのに、随分と落ち着いてるみたいじゃねぇか。さっきまで正気を失ってたのが嘘みてぇだ」

 右の打席に入った影人が龍示に言う。

「……今にして思えば、なんで取り乱してたんだろうって不思議なくらいです」

 ピンチの状態は変わっていない。まだ落ち着きを取り戻すのは早いのではないか、と千郷は思う。それは影人も同様のようで、

「いや……負けた場合が場合じゃねぇか。普通取り乱すだろ……」

 強がりにしても言いすぎだ。そんな影人の言い分に、龍示はフッと笑った。

「……?」

 意味が分からない。なぜそんなに落ち着いていられるのか。影人は怪訝そうな顔になる。

「一つセンパイに教えてあげます」

「………………」

 いきなり偉そうな口を利き始める龍示。影人は黙って龍示の言葉に耳を傾ける。

「ピンチってのは切り抜けられる可能性をも孕んでいるからピンチっていうんです。『おしまい』には及ばない」

「「!」」

 龍示の言いたいことがようやく分かった。そして、こうも落ち着き払っていられる理由も。

「……おもしろい考え方だ。けど、どっちにしても絶望的な状況には変わりないと思うんだが?」

「こんな状況、六球で終わらせてみせますよ」

「! おもしれぇ……!」

 もう言葉は必要無い。龍示が千郷にサインを出す。

(ストレート……)

 よくこんなヘボいストレートを投げる勇気があるな、と千郷は思う。さっきのインハイの球を見る限りじゃ小学生でも打てそうなレベルだった。コースをうまくついたとしても、先ほどのようにうまくいくとは思えない。

 龍示はランナーを警戒する様子も見せずに、さっさと投球動作に入り、投げた。

(うぁああ! ど真ん中きたぁあ!)

 終わった。こんな甘い球を見逃す馬鹿がいるだろうか。千郷は目をつむって覚悟をしたが、

 パシ!

(…………?)

自身のミットに球を捉えた感触を覚えた。

目をゆっくり開いてみると、球はミットにおさまっていた。

『ストライク!』

「………………」

 もうワケが分からなかった。

「今のは打てよぉおお! 今のは見逃したら駄目だろぉお!」

 予想通り、野球部からは影人を罵倒する声があがる。

千郷もなぜ影人が見逃したのか分からず、

「あの……なんで見逃したんですか……?」

 思わず打者の影人に尋ねていた。

「いや……。松村が打ち取られてたから、なんか変なクセでもある球なのかって思ったんだが……なんの変哲も無いホームランボールだった……」

 親切にも影人が答えてくれる。

「……ですよね」

 こんな球があと何回通用するだろう。それにこんな球威の無い球では――

「「「「三塁走ったよ!」」」」

 影人への二球目。二塁ランナーのイチローが三塁へと盗塁を仕掛けた。

 確実に成功するであろう盗塁を邪魔するわけにもいかず、影人は球を見送った。

『ストライク!』

千郷は捕球と同時に素早く腰を上げ、三塁への送球を試みるが、

「無理だ! 投げなくていい!」

「くっ……!」

 投げるまでもなく、イチローの盗塁を阻止することは不可能であることは明らかだった。

 これでワンナウト三塁。状況は悪化の一途をたどった。ヒット、もしくは外野フライで確実に一点。下手したら内野ゴロでも一点取られてしまうかもしれない。

「ナイスよイッチー! 後で抱いて!」

「よくやった鈴本っ!」

 イチローの見事な盗塁に野球部ベンチが湧く。

対して、龍示は毛程も気にする様子も見せずに淡々としていた。

「千郷。ホームスチールだけ警戒しといてくれ」

「「「「………………」」」」

 よくもまぁ、こんなピンチで平然としていられる。乗り切ればそれまで、という龍示の言い分は分かるのだが、乗り切れなかったらどうしようと不安にならないのか。千郷は気になって他のメンバーの様子を見てみると、緊張半分、困惑半分といった様子で、これが当然の反応なのだと確認した。

(……普通はこんなピンチの状況だったらピッチャーに声かけて励ますとこなんだろうけど……。当の本人があんな調子だったらどうしていいか分かんないもんね……)

 放置だ。

(これでカウントはツーストライクノーボール……。ツーストライク……ノーボール……?)

 千郷の頭にチラリとした言葉がかすめた。その言葉は次第に頭の中でたちまち大きく膨らんでいく。その言葉はもちろん、かつての龍示の代名詞。

「三球……三振……?」

 気がつけばそう口にして呟いていた。

「!?」

 千郷の呟きに影人は目を見開く。

 まさか本当に三振を取りにくるつもりなのだろうか。確かに、この局面を乗り切るには三振がベストなのだが。

 そんな千郷の疑念に構わず、龍示は投球動作に入る。

(あれ……? サインは……?)

 本来、龍示から出してくるはずのサインが出てこなかった。しかし、そんなことを気にするよりも、もっと予想外の局面がやってくる。

 龍示が投球動作を終える寸前、影人が突如、バントの構えを取ってきたのだ。

「スクイズ!?」

 イチローは三塁を飛び出していないので厳密に言えばセーフティスクイズだ。

 この局面でスクイズなど、完全に予想外だった。

そもそも、この場面でスクイズをする必要が一体どこにあるというのだろうか。こんな球威の無い球なら外野に飛ばすのもヒットを打つのも容易なはずだ。その分、バントをするのも容易ということになるわけなのだが。

「まずは一点! 返させてもらうぜ!」

 龍示の球は影人の胸元インハイに向かっていく。バントをしにくいコースとされているが、この貧弱な球威では、あまり効果がないように思える。しかし、

「なっ!?」

 影人の更なる内へとえぐり込むように、龍示の球が軌道を変えていく。千郷との打ち合わせになかった変化球だ。

(シュート!?)

 影人は予想外の変化球に対応を急ぐが、しかしもう遅い。

 カン!

 球は影人のバットの根っこに衝突し、

「しまっ……!」

打球はあらぬ方向へと飛んでいった。結果は誰がどう見てもファール。つまり、

『アウト!』

 ツーストライクからのバントのファールは三振の扱いとなり、アウトとなる。俗に言うスリーバントの失敗というやつだ。

「「「「………………」」」」

 場が静寂に包まれる。二者連続三球三振。

 これでツーアウト三塁。一時は絶体絶命かと思われた状況はたった六球で五分五分の状況にまで巻き返していた。


***


 これにはお祭り騒ぎだった野球部のベンチもテンションが下がっていき、弱気な発言がチラホラと湧いて出てくる。

「ねぇ……? 大丈夫なの……? ちゃんと点入るわよね? いくらなんでも点入るわよね?」

「これで点入んなかったらヤベぇだろ……。さすがにありえねーって……」

 暗雲が立ち込める野球部ベンチであったが、ネクストバッターズサークルにいた木原明嗣は静かに龍示を見据えていた。

(松村はともかく……影人まで打ち取るとはな……。マグレにしてはできすぎだ……)

 油断などもっての他なのだが、しかし、明嗣はあんな球で打ち取られるなどどうしてもイメージできなかった。ましてや三球三振などあり得ない。

 打席から戻ってきた影人が申し訳無さそうに明嗣の元へとやってくる。

「……悪い」

「気にすんな。それより、なんでバントした? つーか、バントする場面か?」

「……スイングしたら絶対に空振りする気がしたんだよ。どうしてか分かんねぇけどな。だからバントなら確実かと思ったんだが……」

「……完全に読まれてたな。なんでかは知らねーけど」

 悪手を取ってまで意表をつこうとしていたというのに完全に読まれていた。悪手を取ることを読まれた。一体、何をどう考えればこちらがわざわざ悪手を取るという結論が出てくるのか。龍示に対する謎は深まるばかりだった。

「木原……頼んだぞ……! 絶対に油断するな。プロ相手に挑むつもりでいけ……! シュート、けっこう曲がるぞ」

「ふっ……いいのか? 愛しの藤田龍示君を倒しても」

「っ!? う、うるせぇっ! とっととぶちのめしてこい!」

 影人から肩をバンと叩かれ、明嗣は打席へと送り出される。

(……プロ相手……ねぇ……)

 明嗣は右打席に入り、改めて龍示に視線を向けてみる。

「………………」

 ツーアウトとはいえ、三塁にランナーがいる状況でよくもまぁ、あんなに淡々としていられるものだ、と明嗣は呆れ半分に感心する。

 同時に、

(あまり、おれを舐めてくれるなよ……?)

 強大な敵(?)とこうして対峙してみることで、自分の中に眠っていた野球人としての熱が沸々と湧きあがってくるのを明嗣は感じた。中学を卒業して野球を離れて以来、久しく味わっていなかった高揚感。気づけば犬歯を剥きだしにして笑っていた。

「………………」

 全員が固唾を飲んで見守る中、龍示は何を言うでもなく淡々とサインを出してから投球動作に入る。

(……こい……!)

 龍示から放たれた球はインハイの緩い球。

(甘い球……!)

 絶好球。自分は影人のように深読みして見逃すつもりはない。明嗣は遠慮なくホームランを打たせてもらおうとスイングを開始したところで、ふと、違和感を感じる。『この球を振ってはいけない』と。ヒットにできる球を見た時に感じられる『何か』がこの球には感じられない。

「っ!」

 明嗣はギリギリで打ち気を殺して、球を見送る。

『ストライク!』

 審判からストライクの宣告。湧きあがる野球部ベンチの野次の声。しかし、明嗣の頭にはそんなものは入ってこなかった。違和感の正体に気づいてしまったから。

「今のストレートがお辞儀した……ってワケじゃなさそうだな。スプリットか?」

「……ちっ……」

 初めて龍示がマウンド上で忌々しげな表情を見せた。

(高めに沈む球とか……何考えてんだ……? 絶好のホームランボールには変わりねーじゃねーか……)

 落ちる球は低めに投げて空振りを取るのがセオリー。高めの落ちる球など自殺行為も甚だしい。あの変化の小さいスプリットなら尚更だ。

しかし、見送ってよかった。今のは運悪くスイングの軌道から外れていたため、スイングしていたとしても空振りしていたはずだ。

どちらにしても同じワンストライク、と言いたいところだが、見送ったことで得られたものは段違い。なぜならばスプリットの正体に気づけたのだから。あのままスイングしていたらスプリットの正体にも気づけなかったかもしれない上に、甘いストレートを打ち損じたと見当違いな勘違いをしてしまうところだった。そうなればますます龍示の思うツボ。

そう明嗣は思考を巡らせていると、ある根本的な疑問が湧いてきた。

(そもそも……なんであんなスプリットでストライクが取れる……?)

 球種を読み違えたといっても、あの程度の変化と球威ならば強引にヒットにできる。なのに今の球はそれができる気がしなかった。いや、できなかった。自分の対応できる範囲のギリギリ外をいっていたから。もし、だ。『そこ』に向かって龍示が意図的にそういった球を投げているのだとしたら。

(こいつには……何が見えてるってんだ……!?)

 少なくとも、だ。龍示が『そこ』を完全に見切る力があり、狙った所に寸分違わぬレベルの球を投げられるコントロールを有していなければ成せる業ではない。

(『プロ相手に挑むつもりでいけ』……か。冗談じゃねー。正真正銘、こいつは化物だ……!)

 もう、あの球をただの緩い球だとは思わない。本気でバットに当てにいかなければ、あっという間に喰われてしまう。

「………………」

 明嗣は集中力をより一層磨ぎ澄まし、改めて龍示と対峙する。

 第二球目。そこで予想外のことが起きた。

「「「「ホームスチール!?」」」」

 三塁ランナーのイチローが、ホームに向かって盗塁をしかけてきたのだ。

「我が……点を取る……!」

 速い。スタートのタイミングも最高だ。しかし、

「あの馬鹿っ……!」

 さすがに無謀すぎる。その上、

(速球!)

 龍示の投げた球はこれまでの緩いものとは違い、圧倒的に速い。数字にして二〇キロ近い球速差。

(完全に読まれてる!)

 これではただでさえわずかな成功の可能性がますます小さくなってしまう。ウエストに切り替えてくれれば、また可能性が出てくるのだが、放たれた球はインロー。キャッチャーが姿勢を崩すことはない。

「ちっ!」

 明嗣は大きな球速差に見事対応してみせ、カットで逃げようとスイングを開始。タイミングはばっちりだ。

 バットに球が衝突するかと思われた瞬間、球はバットを潜るかのように沈んでいく。明嗣のバットが空を切った。

(スプリットだと……!?)

 これが本来のスプリットの持ち味。ストレートと判別がつかない軌道で球が伸び、打者の手元でストンと沈む。

『ストライク!』

 カットは失敗。イチローの無謀なホームスチールを止める手立ては無くなってしまった。

 イチロー自身はすでにホームの眼前に迫っており、引き返すこともできない。

 捕球した千郷が猛然とホームにダッシュしてくるイチローと対峙する。タイミングは完全にアウトだ。

「怪我をしたくなかったらどけぇえ! 小娘!」

「見くびらないでくださいっ!」

 思いっきり突っ込んでくるイチローに、千郷は怯むことなくタッチしにいく。イチローがヘッドスライディングの姿勢に入り、クロスプレーになるかと思われた時、

「……なんてな」

「!?」

 イチローがニヤリと笑みを見せた。そして、前傾姿勢を解き、外に向かって飛び退くようにして千郷のタッチをかわし、千郷のブロックをかいくぐった。

 しかし、それで終わりではない。進行方向の急激な転換を余儀なくされたイチローはホームベースにタッチすることができず、慣性を殺せずにそのままホームベースを通り過ぎてしまう。

「ぬぅっ!?」

 イチローは足にブレーキをかけ、踵を返して再びホームベースに向かって手を伸ばす。

「させないっ!」

 そこへ体勢を立て直した千郷が再び立ちはだかり、果敢にイチローの伸ばした手に向かって飛びついていく。

「……かかりおったわ……!」

「!?」

 イチローは伸ばした手を引っ込める。フェイントだ。

「しまっ……!」

 千郷のミットが空を切る。タッチの行き場を無くした千郷のバランスが崩れた。

 イチローは千郷の壁が崩れてできたホームベースへと繋がる『穴』に手を通す。

イチローの手がホームベースに触れた。

『セーフ!』

 審判が両手を横一杯に広げて宣告した。

「「「「!」」」」

 一対一。長く続いた(こう)(ちゃく)が崩れ、試合が振り出しに戻る。

 瞬間、

「「「「いぃよっしゃぁあああああああ!」」」」

 野球部ベンチから大歓声が木霊した。

「ぎゃぁあああああああああああああああ! イッチー素敵っ! 超イケメン! 抱いて! あたいを抱いてぇええ!」

「よくやったぁあああああ! 天才だ! おまえは天才だ馬鹿!」

「これでケツ穴はいただきだぜ!」

「はぁ……はぁ……夢にまで見た藤田龍示のご奉仕プレイが現実になろうとしている……! じゅるりっ」

 もう負けはない。後は勝つだけだ。野球部ベンチは自身達の勝利を微塵も疑わなかった。 今日の影人は絶好調。龍示チームが影人からもう一点取ることなど不可能だ。

 対して、龍示チームの様子はお通夜ムード。この一点はあまりにもでかすぎる。

「我が契約者よ」

 イチローはユニフォームに付いた砂埃をパンパンと両手ではたき落としながら龍示に向かって声をかけた。

「カリは返したぞ。…………もっとも、うぬは覚えていないであろうがな……」

「……?」

 そう言い残すと、ゆっくりとした足取りでベンチへと戻っていった。


***


「ごめんなさい……! 藤田君……」

 失点の直後、千郷はタイムを取るなり、マウンド上の龍示の所へとやってきて謝罪した。

「おまえが謝ることじゃねぇよ。あんなん無理だ無理。俺もさすがにあんな走塁までは読めなかったしな」

「でも……!」

「気にすんな。まだ負けたわけじゃねぇんだ」

「千郷の自虐思考は相変わらずだね」

 いつの間にかそばにやってきた桜が声をかけた。というか、全員がマウンドに集合している。

「龍示の空振りを取りにいく投球スタイルが仇になったね。あの場面なら金髪の先輩に素直にカットしてもらった方が良かったんじゃない?」

「……つーわけだ。点を取られたのは俺の責任だ。おまえの責任なんてこれっぽっちも無い。だから……そんな顔するな」

「え……?」

 千郷は自分がどういう顔をしているのか分からず、顔を意味も無くペタペタと触る。それがなんだか可笑しくて、メンバーの顔にほんのりと笑みが戻る。

「よし。千郷以外は守備位置に戻ってくれ。解散だ解散」

 メンバーはもう心配する必要が無いと感じ取って、素直に守備位置へと戻っていく。

 マウンド上に残った龍示と千郷は改めて話を始める。

「……悪かったな。咄嗟の事態だったとはいえ、打ち合わせに無い速い球投げて。よく取ってくれた。さすがは桜のキャッチャーだっただけある」

「い、いえいえ! きょ、恐縮です!」

 千郷はブンブンと首を横に振って謙遜する。

「さっきのスクイズの時も打ち合わせにないシュート投げちゃったし……もう一回サイン決め直そう」

「了解です」


***


 タイムも終わり、試合も再開。

 六回の裏。ツーアウトランナー無し。打者は四番の木原明嗣。現在ツーナッシング。

「そういや、引き分けの場合を考えてなかったな。どうする? 藤田」

「九回までに勝負がつかなかったら…………そうですね。ジャンケンにしましょう」

「いーのか!? おまえそれでいーのか!?」

「しょうがないじゃないですか。延長とか嫌ですし」

「……まーいーか。今ここで点取れば関係無い話だしな」

「……そうなればいいですね」

「ふっ……おもしれー……」

 自然とバットを握る手に力が入る。勝負の世界でしか味わえない独特の緊張感。久しく感じていなかったそれは妙に心地良く、気分が高揚していく。

 龍示が千郷に三球目のサインを出す。

 どんな球を投げてくるのか。明嗣はプレゼントを心待ちにする子供のように笑った。

 明嗣の期待に応えるように、龍示は大きく振りかぶって投げた。

「……!」

 飛んできた球はアウトコースのボールゾーン。

 見せ球? 違う。この男がそんな当たり前のことをしてくるわけがない。

(シュートだっ!)

 この球は絶対にストライクゾーンに切り込んでくる。明嗣はそう確信してバットを振る。

 明嗣の読み通り、球はストライクゾーンに向かって曲がり、

「っ!?」

そして落ちた。

 ミットの弾ける音が響く。

『ストライク! バッタアウト! チェンジ!』

 三球三振。勝負の軍配は龍示に上がった。

(シンカー……だと……!?)

 とんでもない悔しさがマグマのように湧きあがっていく。初見の球でなければ。球種がもっと分かっている状況であったなら。情けないと分かっていても、言い訳がましい負け惜しみの念が渦巻いていく。そんな明嗣に、

「ふっ」

「っ!」

 龍示は腹の立つ笑みを明嗣に向かって残して、ベンチへと帰っていった。

「あの糞野郎……! おもしれーじゃねーか……!」

 もう一度対戦してこの屈辱を晴らしてやらなければ気が済まない。あの腹の立つ笑い顔を自分のバットで泣き顔に変えてやりたい。明嗣は次の打席を心待ちにしつつ、ベンチへと戻った。


***


「ナイスピー、龍示」

「……おう」

 ベンチで桜が声をかけてくれたが、龍示の顔色は芳しくない。

 すると岬が、

「散々カッコつけといて点取られてやんの。ぷぷっ」

「(グサッ!)」

 岬の言葉に龍示は分かりやすく狼狽した。正直、イチローのホームスチールは痛い。超痛い。試合が振り出しに戻るという意味合いは両チームで全然違う。龍示チームの方が圧倒的に不利な状況である。

「さっきも言っただろ? ピンチなんざ叩き潰せばそれで終わりだ。要はこっちが点取ればいいだけの話だ」

「本音は?」

「…………胃と腸がキュルキュルする」

「ヘタレ」

「うるせぇ! 負けた場合が場合だろうが!」

 マウンド上での(たん)()はただの強がりだった。

 正直なところ、この勝負の行方はジャンケンに委ねることになる確率が高いと龍示は思う。しかし、自分の未来を運に任せるなど酔狂な真似はしたくない。自分で発案しといてなんだが。そのためにも、

「みんな、聞いてくれ」

「「「「……?」」」」

 龍示の呼びかけに、メンバーの視線が集まる。

「見ての通り、試合の状況は正直厳しい。攻撃面は経験者組に任せろって啖呵切っておいてなんだが、ご覧の有様だ。初回のあれ以来ヒット一本も打ててない」

「「「「………………」」」」

 経験者組である、沖田、桜、千郷の三人が申し訳無さそうに表情を崩す。

「三つ子、和、武山。点を取るために、おまえらの力を貸してくれ」

 龍示の言葉に、初心者組は困惑した。

「力を貸したいのは山々なんだけど……どうやって? あんな球、打てる気がしないっていうか……」

 和の言う通り、実際、あの影人の球を素人がヒットにできるとは到底思えない。例え、どんな策を弄しようとも、だ。

「簡単に言うと、俺の真似をしてくれ。とにかく球数を投げさせて、ピッチャーを消耗させて欲しい」

 ヒットを打つことはできなくとも、消耗させることはできる。それが龍示の言いたいことだった。

 しかし、そんな龍示の要求に、和が口を開く。

「それ終盤からやり始めることじゃなくない?」

 続いて三つ子も、

「「「……そういう指示があるなら序盤から言って欲しかったんだけど……?」」」

「………………」

「「「「………………」」」」

 和の言う通り、敵の体力削りなど試合の終盤に差しかかったタイミングでやるようなことではない。アホ丸出しもいいところだ。

「……ま、まぁまぁ! 『十里の道を行く者は九里をもって半ばとせよ』って言葉もあるじゃん? ほら、そう考えれば七回も序盤っていうか」

「「「終盤でしょ」」」

「う、うるせぇ! じゃあ逆に聞くけど? 他に何かできることありますか!? 無いだろ? 俺だってあんな球ヒットにできる気しないし!」

そこへ、スコアシートを記録していた沙希が口を開く。

「あの……宇多先輩の球数、六回が終わった時点で一〇五球です。球数けっこう多いですし、そろそろ宇多先輩のピッチングが乱れてもおかしくないと思います。消耗に力を注ぐよりは失投を狙っていった方が良くないですか?」

 指示を出すまでもなく、影人の球数はすでにけっこういっていた。桜と違って、影人は三振メインでアウトを取ってきた。つまりは一人の打者につき、最低三球以上は投げないといけないわけだ。ちなみに、桜の場合はゴロでアウトを取るのがメインだったので、球数は影人より大分少ない。

「いえ、その数字は当てにならないです。鷺咲さん」

「え……?」

「高校球児のチーム相手に投げる一〇五球と、大半が素人で構成されてるチームに投げる一〇五球は全然違います。どっちが楽かは言うまでもありませんよね」

「! 盲点でした……!」

「というわけだ。これからは意識して多くの球を投げさせるようにして欲しい。勝負をしかけられるチャンスは後一回だけだ。その時のために、今は少しでもピッチャーの気力と体力を削いでおきたい。この役目、引き受けてくれるか?」

「「「「だからそれ序盤に言ってよ!」」」」

 初心者組の全員がツッコんだ。序盤からそういう行動に出ていたら、もっと早いタイミングで影人の投球を乱すことができたはずだ。

 これ以上、龍示の間抜けを責めても不毛なので、和が話を進める。

「で、兄さん。消耗させるためには、具体的にどうすればいいの?」

「まず、ツーストライクになるまでは絶対にバットを振らないでくれ。打つぞって気配だけ出して欲しい」

「どうやってそんな気配出すの?」

「一球投げ終わるごとに打席の外で素振りをする、とかな」

 なるほど、と初心者組。

「ツーストライクになったらとにかくバットに当てて粘ることだけを意識してくれ。作戦は以上だ。質問あるか?」

 はいはい、と手を上げる和。

「打ち気を見せるならわざと空振りした方が手っ取り早くない?」

「ボール球まで振る可能性が出てくるから却下。他には?」

 初心者組は首を横に振って問題無いことをアピール。

「よし。この回、誰からだっけ?」

 スコアシートの係である沙希が答える。

「五番の三男君からです。ちょうど初心者組から始まる打線です」

「ありがとうございます。よしっ! 気合入れていけぇ! 捨て駒どもぉ!」

「「「「誰が捨て駒!?」」」」

 しかし、役割的には捨て駒そのものなのであまり強い反論はできない。だからといって不満が生じないかという問題は全然別の話だが。

 案の定、三男は、いっそこんな役目を放棄してやろうかと言わんばかりの、やる気無さげな足取りで打席へと向かっていった。

「…………大切なチームメイトを堂々と捨て駒呼ばわりする兄さん、マジパネェっす」


***


 七回の表。打者は五番の三男。

『ボール!』

 カウントは一ストライク、二ボール。

 影人は違和感を覚える。

(ちっ……ボール球を見送るようになってきやがった……。前まではストライクだろうがボールだろうがなりふり構わずブンブン振ってくれたってのに……)

 前の打席と比べて今回の打席は明らかに慎重だ。こんな戦い方ができるというのなら、なぜ最初からそうしてこなかったのかと疑問に思うところではあるが、厄介なことには代わりない。

(素人相手に体力使うわけにはいかねぇ……。ここは軽めに投げても大丈夫だろ……)

 四球目、影人は気持ち軽めのストレートを投げ、

『ストライク!』

 二ー二と三男を追い込んだ。

 ボール球を勝手に振ってくれなくなったのは面倒だが、所詮、相手は素人。軽めの球でも豪速球の働きをしてくれるため、ストライクを取ることが容易であることは変わりない。一応、前と違ってある程度のコントロールを意識しなければならなくなったのは認めるが。

「ふぅ……」

 五球目。影人は体力温存のために、先ほどと同じ軽いストレートを投げる。

 カン!

「なに……!?」

 三男の金属バットがこの試合で初めて音を鳴らした。

『ファール!』

 打球はバックネットへ飛んでいく。

(…………目が慣れてきやがったか……。面倒だ……)

 影人は三男を忌々しげに見てから、額の汗を(そで)で拭う。

 あまり手を抜き過ぎればカットで逃げられ、結果的に余計に苦労するハメになる。なので、六球目は、

「これで終わりだ」

 インコースを抉る、鋭い球。

「うわっ!?」

 三男は体にぶつかると錯覚して体を仰け反らせるが、球は三男の意に反してストライクゾーンへと軌道を急転換する。

『ストライク! バッターアウト!』

 影人の一番の決め球。スライダーだ。間違っても素人が打てるような球ではない。

(力を入れるのはツーストライクからでいい。そっちの思惑通りにいくと思うなよ?)

 影人は龍示の術中にハマってたまるか、と省エネを心掛けるが、

 カッキィイン!

「「「「!?」」」」

 六番の一男への二球目。甘いコースに入った緩いストレートを完璧にとらえられてしまう。

 鋭い打球は三遊間を真っ二つに割っていく。龍示チーム、通算で二個目のヒットだ。

「「「「やったぁああ!」」」」

 龍示チームのベンチが湧く。

「やるじゃねぇかぁ! 一男ぉ! おまえセンスあるぞ!」

「すごいすごいすごいですっ! 宇多先輩からヒット打っちゃうなんてすごいですっ!」

「ナイスバッティング! 凄く良い判断だったよ! 作戦が全てじゃないから!」

「モブキャラから這い上がる日も近いですよ!」

 対して、

「「「「………………」」」」

 野球部の守備陣の間に唖然とした空気が流れる。

(軽めに投げすぎたか……? いや、それよりも……)

 影人の脳裏に嫌な予感がよぎる。素人にヒットを打たれたことなど今は気にしている場合ではない。この予感が正しいものなのか、それを確かめるためにも次の打席に集中しなければ、と影人は自身を戒める。

 七番の二男に対する初球。

『ボール!』

「……!」

 そして二球目。

『ボール!』

「!」

 予感が確信に変わった。

(制球が……乱れてきやがった……!)

 先ほどの一男への球も、あそこまで甘いコースに投げるつもりはなかった。かといって、ヒットにされたことが予想外であったことには変わりないが。

(集中しろ! 点を取ってからの流れをここで絶つわけにはいかねぇんだ!)

 影人はそれ以降、省エネの方針を切り捨て、全力でアウトを取りにいった。下手に楽をしようとすれば余計に疲れるハメになる。少しの時間を全力でいった方が結果的には楽だ。

 影人の力投もあって、この回、ヒットを打った一男は塁を進むことなく、龍示チームの攻撃は終了した。

 とはいえ、制球の乱れは如実に現れ、意図せずにストライクを外す回数が増えていった。この回、影人が投げた球は実に一八球。通算で一二二球となった。


***


 七回の裏。

「桜。次からまたピッチャー頼む。俺もう無理だから」

「限界早っ! え? 本当に言ってるの?」

「投げる余力はあるけど、完璧に抑えられる余力は微妙なところだ。綱渡り状態の俺より、おまえの方が確実だろ?」

「……分かった。じゃあ、この試合はもう無理?」

「あと相手できて一人ってとこだな。どうしても危ない場面になったら、また俺がいく」

「オッケー」

 投手のバトンは再び桜に回る。

 野球部チームの攻撃は五番の一功。

「龍クン愛してるっ!」

『ストライク! バッターアウト!』

 六番椛(かば)(とり)(えい)()(モブキャラ)。

「俺の股間のキャンディをしゃぶりやがれ! 藤田龍示!」

 カン!

ボテボテのショートゴロ。

「沖田ぁ!」

「任せて!」

 お手本のように綺麗な動作で捕球し、ファーストの和に送球。

『アウト!』

 七番西(にし)(けん)()(モブ)。

「テクノブレイクッ!」

 カン!

「三男ぉ!」

「了解っ!」

 打球はサード正面。すっかり初心者らしさが抜けた守備を見せる三男。

『アウト!』

 あっという間に三者凡退。チェンジだ。

「ふぅ……」

 桜はホッとするように息をついた。

 下位打線相手とはいえ、自分の役割をきちんとこなすあたりはさすがだ。

「ナイスピー、深山さん。この調子ならペースを崩さずに最後までイケそうだね」

 沖田が桜の健闘を称える。

「うん。ピッチングはね。だけど、勝つためには――」

「次の攻撃……だね。九番の武山先生から始まる最後のチャンス。藤田君がこれまで通りフォアボールで出塁してくれたら三番の深山さんにも打席が回ってくる」

「…………プレッシャーだなぁ……」

 点を守らなければならない上に、点を取りにいかなければならないとは役割が少し重すぎやしないか、と桜は思う。もちろん、投げだすつもりなど毛頭無いが。むしろ頼まれてもこの役目を譲ってなるものか。

「この試合、勝とうね!」

「うん! 勝とう!」


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