第五章 弱小。いざ、決戦
第五章 弱小。いざ、決戦
龍示達は試合までの日、毎日朝から晩まで練習に明け暮れる。
一男、二男、三男のポジションはそれぞれ、ライト、センター、サードとなった。
三つ子は運動神経が優れているだけあって、上達が早かった。
ライトの一男、センターの二男は簡単なフライなら絶対に取りこぼすことは無いし、送球も逸れることなく、ちゃんとした場所に投げることもできるようになっていた。その上、カバーの仕方も多少の粗は残しつつも、できるようになっている。
サードの三男も、強烈な打球が飛んできても臆することなく向かっていけるし、バントの処理も必死な練習の末、覚えることができた。
三つ子の練習の成果は上出来すぎると言っても良い程、素晴らしいものだった。
和も幼い頃から龍示とキャッチボールしているだけあって、捕球は上手だった。初めの頃、三男が投げていたショートバウンドの送球も難なくキャッチしてみせるのだから、大したものだ。龍示もここまで和ができるとは思っていなかったので、お小遣いをあげて褒めてやった。
もう一人の初心者、武山はというと、微妙の一言に尽きた。簡単なフライは取れるのだが、ちょっと難しいけど取ってくれというレベルの球はあまり取れない。送球も逸れがちだし、『初心者なんだろうな』というのが伝わってくるプレーぶりだった。これではある程度の報酬の減額を覚悟しておかなくてはならない。
そんなこんなで約束の日から二週間。野球部と龍示の尻の貞操を賭けた試合の日がやってきた。
グラウンドには龍示の陣営がすでにグローブをつけてウォーミングアップを開始しているのだが、野球部の到着はまだだった。試合の時間は一二時。現在は一一時半なので問題は無いのだが。
龍示は一旦ウォーミングアップを切り上げて、メンバーをグラウンドのベンチに呼び集めてミーティングを行う。
「皆、今まで良く頑張ってくれた。このクソ暑い毎日、文句一つ言わずに練習に取り組んでくれたこと、本当に感謝する。ありがとう」
龍示の素直な感謝の言葉に、メンバーは戸惑うように笑った。
龍示はメンバー一人一人、順に言葉をかけていく。
「三つ子。おまえらの上達の早さにはぶっちゃけ驚いた。今日の試合、練習通りの調子で頼む。おまえらが今日の守備のキーマンならぬキーメンだ」
「「「藤田君……」」」
三つ子はなぜか頬を赤く染めて龍示を見返した。ちょっと危ない空気が感じられるが、龍示は次のメンバーに視線を移していたので、それに気づくことはなかった。
「鷺咲さん、いいメンバー見つけてくれてありがとうございました。おかげで、ちゃんとした野球ができそうです」
「はいっ。ありがとうございます」
「和。兄のピンチに力を貸してくれてありがとうな。おまえが優しい妹で良かった」
「……あ、当たり前だよ。なんか……かゆい……」
和はプイとそっぽを向いて、恥ずかしさをごまかすように言った。その顔は少し赤い。
「沖田。おまえの活躍、今日の試合でも期待してる」
「うんっ。任せて」
「千郷。いろいろ嫌なこと言ったのに、こうして最後まで付き合ってくれて、本当にありがとう。それと、すまなかった」
「……べ、別に、いいです。なんか……調子狂っちゃいます……」
「武山。貴重な休み、こんなガキの小競り合いに割かせて悪かった。本当に感謝してる」
「お、おう……。おまえからそんな言葉が聞けるなんて、こっちも夢にも思ってなかった」
「桜。……おまえにはいつも助けられてばっかりだな」
「龍示……」
「俺だっておまえの力になりたいってのに、おまえは俺を一度だって頼ってくれないよな。俺にはそれが悲しくてたまらなかった。悲しくて、辛くて、寂しくて、憎かった。俺はおまえを好きと同じくらい憎く思ってること、この際、言っておく」
「この際に言わないでくれる!? 試合前にそんなこと聞いちゃったら、あたし試合中ずっと龍示のことでモヤモヤしながら投げないと駄目じゃん!」
言ってることがリアルなだけに冗談と聞き流すことができない桜だった。
龍示は龍示で桜のツッコミを聞き流し、
「皆。今日の試合、一緒に勝とうぜ……!」
「「「「おぉーっ!」」」」
「無視しないでよ! 龍示、さっきの言葉、本気? 本当にあたしのこと嫌いになったの? ねぇ、待ってよ……! ねぇってばぁ!」
***
一一時四五分。野球部が到着。
龍示チームの面々は野球部チームの方へ視線を向けてみる。
野球部の面々はちゃんとユニフォームを着用し、野球道具を背負っている。野球部員としては当たり前のはずの格好なのだが、何とも言えない違和感があった。簡単に言えば似合っていない。そして、何と言っても特筆すべきところは、
『く、くくぁかかか……』
『ききっきゃぁかかぁ……!』
餓死寸前の人間がごちそうを目の前にした時のような眼を、野球部の全員が龍示に向けていた。実際にヨダレが垂れている者も何人かいる。
「ひぃ!?」
龍示の背筋に悪寒が走り、龍示は女の子の様な悲鳴を上げてしまった。
未だかつて、あんな恐ろしい野球チームがあっただろうか。いや、ない。もっと言えば、この野球部はどんなプロ野球チームを敵に回すよりもタチが悪い。
形容しがたい妙な迫力。勝利への底無しの飢え。何をしでかすか分からない不気味さ。人間としての一線を越えてしまっているようなイッちゃった眼。どれを取っても恐ろしい。
「あの龍示が泣いたって聞いた時は半信半疑だったけど……今になって納得……。あの人達……人間じゃない……!」
「みんなアクセラレータみたいな眼ぇしてるもんね。あんな人達に襲われたら兄さんの人格も崩壊するよ」
桜や和だけでなく、他のメンバーも野球部のオーラにあてられ、完全に委縮してしまっている。
「おいおい……あの程度の連中にびびってんじゃねえぞ、おまえら」
「いや、兄さん『ひぃ!?』ってびびってたじゃん。オカマみたいな声で悲鳴上げてたじゃん」
和のツッコミにメンバーはコクコクと無言で頷く。
「オカマじゃねえよ! そこはせめて女の子って言ってくれよ!」
「龍示……そういう願望があったの……? 女の子になりたかったの……?」
「俺が女になったらモンスターの出来上がりじゃねえか馬鹿野郎」
野球部を遠巻きに見て龍示達がビクビクしているところへ、
「よぉ。久しぶりだな。藤田」
野球部の一人、金髪のイケメン木原明嗣がこちらにやってきて龍示に挨拶を交わしてきた。そして、訝しげに桜、和、沖田、千郷の女子を見て、
「もしかして、この女子達、メンバーか? つか、なんで教員までいんだよ……」
「鷺咲さん以外の全員が試合の出場メンバーです」
「……他校の経験者は混じってねえだろうな?」
「千郷は他校ですけど、野球経験者じゃなくてソフト経験者なんで問題ありません」
「ルールスレスレじゃねぇか……」
とはいえ、女子の経験者一人程度のことでグチグチ言うつもりは明嗣には無いらしく、追及することはなかった。
「それじゃあ全員集まったことだし、予定より早めに始めようぜ。五分後でいいか?」
「いいですけど……アップとかいいんですか?」
「学校来る前に済ませてある。プレー前の時だけで十分だ。それじゃあな」
明嗣はこの場を後にし、野球部のメンバーをつれて龍示達とは逆方向のグラウンドのベンチへと向かっていった。
明嗣と試合の簡単な話を済ませた龍示は、委縮しきったメンバーをもう一度呼び集め、再びミーティングを行う。
「おまえら、恐いか?」
「「「「(コクリ)」」」」
全員が同時に頷いた。
龍示は天を仰ぎたい気持ちに駆られた。委縮しながらまともな野球などできるはずもない。未経験者の多いチームなら尚更だ。なんとかしてメンタルを落ち着かせてやりたいところだが、龍示は良い考えが浮かんでこない。
すると、龍示の意思をくみ取るように、和が口を開く。
「みんな、落ち着いてください。あの人達は確かに恐くて不気味ですけど、これからするのはただの野球です。別に殺し合いをするとか、そういう物騒な展開にはどう転んでもなりません」
「「「「…………!」」」」
確かに。敵対するといっても、あくまで野球だ。ちゃんとルールに則っている限り、野球部の連中はおかしな真似をしてくることは無いはずだ。
「それに、みんなも見たはずです。野球部の人達の標的は兄さんただ一人。他の人達なんて眼中に無かったでしょう? つまり、アタシ達が変なことをされる危険は無いはずです」
中でも女子は特に危険が無いはずだ。なにせ、野球部の連中は全員ゲイ。女子が性的なイタズラをされる可能性は皆無と言っていい。龍示以外の男子メンバーは少し心配かもしれないが、先ほどの様子では、野球部のメンバーは龍示以外の男子にはほとんど興味を示していなかった。本当に危険なのは龍示、ただ一人だ。
「それに、試合で負けても酷い目に遭わされるのは兄さんだけです。分かりますか? アタシ達は背負うべきリスクが皆無なんですよ」
「「「「……!」」」」
リスクが無いということはつまり、恐れることが無いということだ。
「……一応、野球部復活という私と藤田君の悲願もかかってるんですけどね……」
沙希が苦笑して小声でツッコミを入れた。
「とにかく、です。助っ人組はリスクも無いのにビクビクするのも馬鹿らしいと思いませんか?」
和の言葉に、桜は頷く。
「和の言う通りだね。みんな、気楽にいこう! サクッと勝って、サクッと帰ろう!」
「「「「おう!」」」」
***
そして試合の時間がやってきた。
審判は龍示があらかじめ依頼しておいた派遣審判員が行う。審判一人あたりの額は高校生の身としては高いはずなのだが、龍示には膨大な謎の資金があるため、全部一人で負担したのだった。
『整列!』
審判の掛け声で、両チームが向かい合うように並んで整列。
「……こっち見すぎだっつーの……」
野球部員全員の飢えた獣のような視線が龍示へと集中する。居心地が悪くて仕方ない。
『礼!』
「「「「お願いします!」」」」
スポーツマンらしい大きな声で礼をして、両チームのメンバーはベンチの方へと下がって行く。
龍示と明嗣はその場に残り、
「藤田。先攻と後攻、どっちがいい?」
「……先攻で」
「いーぜ。それでいこう」
明嗣は余裕を感じさせるような笑みを浮かべると、先攻と後攻を審判に告げて、ベンチへと戻っていった。
「………………」
龍示は明嗣が戻って行くのを少し呆けて見た後、自身もメンバーの集まるベンチへと戻った。
「俺らが先攻になった。一応、オーダーの紙、ここにやっとくから。忘れたやつは確認しといてくれ」
龍示はオーダーを書いておいた紙をベンチの端っこに置いた。
「そういや、俺って何番だったかな……」
武山がベンチを立って移動し、龍示の置いた紙に目を通していく。
一番セカンド藤田龍示。
二番ショート沖田宗時。
三番ピッチャー深山桜。
四番キャッチャー井上千郷。
五番サード茂分三男。
六番センター茂分一男。
七番ライト茂分二男。
八番ファースト藤田和。
九番レフト片玉。
「おい、レフト片玉ってなんだよ。レフト片玉って摘出されちゃった方なんだけど。健在してるのはライト片玉の方なんだけど」
「先生……ボク達男だけの時なら構わないんですけど……一応、この場には女子もいるんで、そういう発言は控えてくれますか?」
「す、すまん! 沖田」
幸い、女子メンバーの耳に武山の下品な言葉は届かなかったようで、武山はホッと息をついた。危うく、教師としての威厳を損なってしまうところだった。すでに無いものを損なうという言い方もおかしいかもしれないが。
「うぅ~……なんか緊張してきちゃったぁ……」
そう口にしたのは和だ。
「和ちゃん、さっきは自分で気楽にいこうって言ってたじゃないですか」
「そうなんですけど……。でも、やっぱ試合ってなると独特の緊張感ってものがあるんですよね。バスケの試合の時もそうなんですけど、こればっかりはいつまでたっても慣れる気がしないっていうか……」
「……なんとなく分かります。実際に試合に出ない私ですら凄い緊張してるんだから、出る人の緊張はきっと凄いんでしょうね」
和と沙希の会話を聞いていた周りのメンバーにも、緊張が伝染したようで、表情が若干強ばっていく。
「大丈夫ですよ、鷺咲さん。俺が一発でかいのかまして、みんなの緊張を吹っ飛ばしてきますから」
龍示は親指を立てて、ニッと笑って言った。
「……兄さん、下ネタ?」
「下ネタじゃねえよ!」
龍示が普段からどれだけ下品な発言をしているのか窺い知れる和の発言だった。
「……じゃあ、行ってきます」
「はい! 頑張ってきてください!」
龍示は沙希の笑顔に送られて、バッターボックスの側へと向かう。
グラウンドでは野球部チームが守備練習で球を回していた。
「………………」
龍示は黙って野球部の様子を見てみる。
(……やっぱ素人に毛の生えたレベルだな)
内野手のほとんどが、球を受け取ってから投げるまでの一連の動作にぎこちなさが感じられる。まだ、目立ったミスこそ見られないものの、いつミスをしてもおかしくないような、それくらいのレベルの低さだった。
そして最後に投球練習。
ピッチャーは耳にピアスをビッシリと付けたヤンキー風のイケメン、宇多影人。グラブを左につけているので右投手だ。
そして、その球を受けるキャッチャーは金髪イケメンの木原明嗣。
影人は明嗣から球を受け取ると、ちらりと龍示に視線を寄こした。
(……なんだ……?)
龍示は影人の視線を受け、意識を影人に向けた。
「ふぅ……」
影人は静かに体内の空気を吐きだして、ゆっくりと、そして大きく振りかぶる。
無駄に力の入っていない、流れるような投球動作。体重、全身の筋肉、ありとあらゆる影人の持つエネルギーが右の腕へと集まっていき、そして、その莫大なエネルギーをもってして、腕を振り抜く。
「「「「!」」」」
ズバァアアン! と、痛烈な破裂音がグラウンドに木霊した。
一体何が起こったのか、この場にいるほとんどの者は理解できなかった。その証拠に『なんか凄い音したけどなんなの?』と言いたいように、キョロキョロと辺りを見回している者が何人もいる。
「練習のときよりも良い球投げるじゃねーか。影人」
明嗣は愉快に笑って、影人に球を投げ返した。
ベンチでたまたま影人の様子を見ていた桜と沖田も呆然と口を開けていた。
「速すぎ……でしょ……」
「…………だね」
速い。その一言に尽きる。
しかし、ベンチの者よりも間近で見ていた龍示の感想はそれだけじゃない。球の伸びが半端ではないのだ。あまりの伸び具合に、球が浮き上がっているのではないかと錯覚するほどに。
「………………」
龍示は無言で自分のベンチへと戻っていき、そして、沙希の目の前へとやってきた。
「あの、鷺咲さん? 聞いてた話とだいぶ違うんですが……?」
話では一回に一〇点も取られるようなヘボピッチャーが相手だったはずだ。
龍示は沙希の胸ぐらを掴み上げて尋ねた。
「ふ、藤田君!?」
沙希は悲鳴にも似た驚愕の声を上げた。
龍示の眼がとんでもなく恐い。ふとしたはずみで殺しにかかってくるのではないかというくらいに。
沙希は肉食獣に包囲された子ウサギのようにブルブルと震えて怯える。
「ちょっと龍示!? あんたなにヒロインの胸ぐら掴んでんの!?」
「しゃあねぇだろうがぁあ! 負けたら三年間あいつらの性奴隷なんだぞ!? 分かってんのか!? 理性なんて簡単に……」
そこで龍示は気づく。今、自分が沙希に何をしているのかということに。
「うぉおお! 理性飛んでとんでもないことしちゃったよ! すみません! 鷺咲さん! 本当にすみません!」
龍示はバッと沙希の胸ぐらを掴んでいた手を放し、高速で土下座をした。
「あの……沙希? 本当にごめんね。龍示のやつ、ひどく錯乱してるみたいで」
なぜか桜まで一緒に沙希に謝った。
「い、いえ……」
「ただ、龍示もさ、とんでもないリスクを抱えてるじゃん? それも人生が終了するレベルの。だから、正気じゃなくなるのも分からないでもないっていうか……。できれば嫌わないであげてほしいんだ。龍示のこと」
龍示をフォローしてくれる桜。龍示は仏様を拝む様な視線を桜に向けた。
「も、もちろんです。藤田君のことを嫌うことなんて絶対にありえませんから」
沙希は突然のことに驚き戸惑ったという部分が大きいようで、龍示に対してマイナスな感情は持ち合わせていないようだった。
「鷺咲さん……本当にありがとうございます。こんなひどいことした俺を許してくれるなんて……」
「いえいえ。私だって宇多先輩があんな凄い球を投げるなんて今初めて知ったばかりで……。藤田君が動揺しちゃったのも分かるっていうか……」
ズバァアアン!
「「「「!」」」」
マウンドで投球練習を続けている影人を、龍示チームのメンバーが息を飲んでその様子に釘付けになっていた。もちろん、青白い顔で。
「おまえら聞け」
「「「「……?」」」」
メンバーの視線が龍示に集まる。
「まず、初心者組。おまえらは練習通りの働きだけしてくれ。攻撃については一切気にしないでいい。……あんなん普通に打てねえから」
バッティングマシーンが投げる速球ならば、まだ微かだが望みはある。
しかし、今回の相手は人間なのだ。それはつまり、機械のように無造作に放たれる球とは違い、打たせまいと工夫を凝らされた球が放たれてくるということ。運動神経が良いというだけでは打つのは相当難しい。
「沖田と桜。それと千郷」
「「「?」」」
「点は俺らだけで取るぞ。チャンスは多分この初回だけだ。向こうのエンジンが本格的にかかってきてからじゃ、点を取るのはほぼ不可能だろうからな」
沖田は言いにくそうに口を開く。
「……でもさ、エンジンかかってない今でも凄く手強い相手だと思うんだけど?」
「おまえが思ってるほど分の悪い勝負でもないぞ。少なくとも、俺は確実に一塁に出る」
龍示は当然のように断言した。龍示のバッティングは練習ではあまり芳しくなかったのだが、なぜだかそれを言及する者はいなかった。なぜだか、龍示の言う通りになってしまうような気にさせられるのだ。
「二番の沖田が俺を二塁に送って、桜が還す。千郷は……正直厳しい。桜の後だと女子油断補正が消える可能性が高いからな。まぁ、流れとしてはこんな感じで。なんか異論あるか?」
沖田、桜、千郷の三人は首を横に振って、龍示の意見に賛同の意を示した。
問題が無いことを確認した龍示は改めて言う。
「儂に刃向かう者は皆、死罪と心得よ!」
いきなりこいつは何を言ってるんだ、といった具合に、周りにいた者は皆、ポカンとなった。
「清盛のネタ言っても多分伝わんないから!」
桜はそうツッコむが、ツッコめるということは桜には伝わっているようだった。
それを龍示は嬉しく思い、途端に饒舌になる。
「個人的なことを言えば、清盛は『視聴率が良い=作品の質が良い』という関係性を真っ向から否定できる素晴らしい作品だったと思うな。俺は。そもそも、悪に染まっていく主人公というのが斬新だし、何よりキャラが格好良いし。現代人には無い独特の魅力があるんだよな。それだけじゃねえ。人間の強さ、弱さ、優しさ、醜さ。理想の実現の為に、理想とは真逆の行動を取ってしまう人間ならではの矛盾。世の不条理、世の栄枯盛衰。これらの複雑な在り方が繊細に、且つ巧みに描かれている。死亡フラグが若干露骨すぎたんじゃねえかっていう部分もあるものの、それを差し引いてもなお、最高に素晴らしい作品だったと思うぜ。やっぱこの作品で一番のポイントっつったら、それぞれの立場の人間が考える、武士の在り方についてだよな。おもしろいのは同じ武士でも、考えはてんでバラバラなんだよ。故に――」
「バッターボックス行きなよ」
「はい」
龍示は大河話を中断し、桜の言う通りにおとなしく打席へと向かっていった。その背中が妙に小さく見えるのは気のせいだろうか。
「あ、ヤベ。バット忘れた」
龍示はバットを取りにベンチへ戻った。
「……藤田君……大丈夫なんでしょうか……?」
沙希は不安の入り混じった顔でポツリと呟いた。
「大丈夫ですよ、鷺咲さん」
龍示はエセスポーツマンの様な爽やかを気取った胡散臭い笑顔で言った。
「ちょっくら必殺技でケチョンケチョンにしてくるんで。応援よろしくお願いします」
「は、はいっ! 頑張ってください! 藤田君!」
龍示は沙希の応援にだらしなく頬を緩ませてから打席へと向かった。
「よぉ、藤田。さっきからベンチでこそこそと何話してたんだ?」
キャッチャーの明嗣が龍示に声をかけてきた。
「……別に。優秀な奴隷が手に入りそうだねってはしゃいでただけです」
「ふっ……そーかい。うちの連中も魅力的な性奴隷が手に入るってんで、相当気合入ってるぜ」
「……顔見りゃ分かります」
グラウンドを見渡してみると、守備に入っている全員のメンバーは未だにギラギラした眼で龍示を見ていた。
龍示は顔を歪めて、視線を外した。そしてポツリと呟く。
「親御さんが見たら相当悲しむでしょうね。今まで一生懸命手塩にかけて育ててきたっていうのに、当の息子があんな変態に育っちゃったわけですから」
「……返す言葉も無ぇ」
「自分も人のこと言えないっすけどね」
ベクトルは違えど、龍示も立派な変態なのだ。そこはちゃんと自覚しているようだが、救いがあるのか無いのか微妙なところだ。
「……そろそろ始めましょうか。新しい野球部誕生のための茶番を」
「……言うじゃねーか」
明嗣は面白そうに笑みを浮かべて答えた。
『プレーボール!』
審判からプレーがかかった。
龍示と沙希にとっては、『野球部』としての初めての第一打席だ。
龍示はチラリと沙希に視線を向けてみると、
「藤田君~! 頑張れ~!」
沙希はこちらに向かって懸命に声援を送っていた。
「…………ふっ」
龍示は薄く笑ってそれに答える。嬉しさ半分、恥ずかしさ半分で、ほんの少しむず痒く、そのむず痒さが妙に心地良かった。
龍示はバットを構えて、マウンドの影人を見据えた。龍示の高校野球で初めての第一打席が始まる。
***
(こいつが……藤田龍示……! 紛れもない本物だ……!)
ピッチャーの影人はバッターボックスの龍示を見据えた。
影人はこの時を心待ちにしていた。なにせ、自分が野球を始めたきっかけとなった人物が、自分が長年画面越しから憧れ続けていた人物が目の前にいるのだ。
影人の龍示への憧れは相当大きいものだった。龍示の出た試合の映像を動画サイトで見つけては目に穴が開くくくらいに、何度も何度も見まくったし、人のいない場所を見つけては、龍示の投球フォームを真似る練習をしたりもした。龍示の活躍が記された新聞記事の切り抜きを集めたり、挙句の果てには龍示のポスターを作ったりなんかもした。傍から見れば黒歴史と呼びそうなエピソードだが、そんなことなど一切気にならないくらいに、影人は龍示に憧れていた。否、今も憧れ続けている。
そして自分は今、敵として、あの藤田龍示と対峙しているのだ。かつて失っていた野球への情熱が、嫌でも膨れ上がっていくのを影人は感じる。
影人は改めて打者の龍示に注意を向ける。
(強打者が持つ独特の空気は感じられない……)
強打者が持つ独特の空気、すなわち、どんな球を投げても打たれてしまうと錯覚してしまうような空気。それが龍示からは全くといっていいほど感じられない。
龍示のバッティングは練習を見た限りでは並以下だった。野球経験者からすれば、よほどのことが無い限り、龍示が影人の球を打てるとは思えないだろう。しかし、影人は違う。
(が、あいつが並以下で終わるような打者とはどうしても思えない……)
影人は見たのだ。龍示がプロの一流と呼ばれる選手を圧倒してしまう映像を。
その時、龍示の投げた球は一四〇キロオーバーのストレートのみ。小学生の球にしてはもの凄い速さではあるが、プロの世界ではというと、そうでもない。一四〇キロオーバーの球を投げる投手など、数えきれないくらいにいるし、それ単体では大した武器とも呼べるものではない。だというのに、プロの、それも一流と呼ばれる選手達は龍示の球に手も足も出なかったのだ。誰一人として、龍示の投げる球をバットに当てることのできた選手はいなかった。
例えば、一四〇キロオーバーの球を狙ったところに寸分の狂いも無く球を投げることのできる精密機械じみた制球力のある投手がいたとしよう。この仮定だけでも十分に現実離れしたものではあるが、果たしてそれだけで一流のプロの打者のバットを一球もかすらせずに打ちとることができるかと問われれば答えは否だ。
ならば、それをあっさりとやってのけてしまった藤田龍示という男は何なのか。現実離れした仮定を上回る力とは何であるのか。
影人は思う。この勝負の結果を説明できる者は誰一人としていないだろうと。すなわち、それは人智を超えているということ。そのような人智を超えた男が、投手ができなくなった程度のことで並以下の存在にまで堕ちたなどと断言できるはずもない。
(まぁ……オレのやることは変わらねぇか……。オレの全力をぶつけるだけだ……!)
影人はキャッチャーの明嗣のサインを窺う。
(インコースのストレート……)
自分の意思をくみ取ってくれたかのような明嗣の要求に、影人は頷いて応じる。
影人は大きく振りかぶって投球モーションに入る。
(見せてみろ……藤田龍示……! おまえの可能性を……!)
全ての力を右腕に込め、思い切り腕を振り抜く。
すると龍示は、
(初球セーフティ!?)
ヒッティングからバントの構えに切り替えた。いわゆる、セーフティバントというやつだ。
完全に意表を突かれた影人と野手は、影人が球を投げ終えると同時に、すぐさま前へとダッシュしてバントの処理に備える。が、
『ストライク!』
龍示はバットを引いて影人の球を見送った。
「……ふっ」
龍示が意地の悪い笑みを影人に向けてきた。普通ならイラッとくるところだが、
「(キュン!)」
影人はときめいてしまった。赤く染まっているであろう顔を見られまいと、プイとソッポを向いてごまかす。長年、画面越しに憧れていた人から、からかわれたのだ。Mっ気が無くとも喜んでしまう。
そんな影人を他所に、明嗣が龍示に声をかける。
「今のはイケたんじゃねーのか? なんでバットひいたんだよ?」
「あんな速い球バントできるわけないじゃないですか」
まるで、影人の球には全く手も足も出ないような言い方だった。
「……やっぱバッティングは並以下ってわけか……」
そう口にした明嗣の声からは、どこか冷めたような色が窺えた。
「そんなことしなくても、もっと確実に塁に出れる方法がありますしね」
「……!」
どうやら諦めていたわけではないらしい。
影人も影人で、龍示の気の無い言葉など関係無しに、龍示への警戒を怠るような真似は一切しない。
続いて第二球。影人は再び、力の入ったストレートをインコースの低めに投げた。
すると再び、
(またか……!)
龍示はセーフティバントの構えを取った。
守備側は、一回目程の不意をつかれることはなく、フィールディングの反応が先ほどよりも断然良い。よっぽどうまい場所に転がされない限り、確実にアウトにできるはずだ。
しかし、そんな懸命に前進していく野手を小馬鹿にするように、龍示は再びバットを引いた。
『ストライク!』
これでカウントはツーストライクノーボール。龍示が完全に追い込まれた形になる。
***
龍示チームのベンチの間に動揺が走る。
「あわわわ……藤田君……追い込まれちゃいました……!」
沙希は心配そうに龍示を見た。そんな沙希に、桜が口を開く。
「大丈夫だよ、沙希」
「え……?」
「龍示はできないことをできるって口にするようなやつじゃないから」
そんな桜の言葉に、和がおずおずと言う。
「……でも、この前兄さん、アタシと長距離走で勝負する時、自信満々に勝つって言ってボロ負けしてたよ?」
そういえば、和と二人で遊んだときに、そんな話を聞いたような気がする。桜は慌てて違う言葉を探す。
「……こと野球に関して龍示が負けたことは一度だって――」
「バッティングセンターで桜ちゃんに負けてたじゃん」
龍示がまともに打ち返せていなかった球を、桜がガンガン打ち返していたのはついこの前の出来事だ。
「……龍示がああいう不敵な顔してる時は――」
「手痛いしっぺ返しに遭ってるよね。ここ最近」
確か、ゲイ集団に出会う前、龍示はあんな顔をして『野球部を立て直して鷺咲さんに褒めてもらうんだ』とほざいていたような気がする。
「……む、昔から龍示はここぞって場面にはめっぽう強いんだよ」
「期末テスト(ここぞって場面)で赤点取ったじゃん。補習行ったのもそのせいだし」
「………………」
「………………」
「………………」
桜のフォローが追いつかない。
「もしかして……龍示ってけっこう可哀想な人だったり……する……?」
和の発言を聞いていると、なぜだかそう感じてしまう。
沙希の前で桜にバッティングで負けるという醜態をさらし、沙希の笑顔のためにと野球部に入ってみれば、一八歳未満の人には見せられないゲイのラブシーンを見せつけられ、その上、体を弄りまわされるはめに。そして、現在は自分の貞操までかけてゲイと対峙している。とどめに、敵チームにおける影人という秘密兵器のおかげで、勝つのが絶望的という最悪な状況。
自分から危険な世界に首を突っ込んだのだから自業自得だ、と片付けることもできるのだろうが、もう少し報われることがあってもいいのではないか。桜はそう思う。
「兄さんは人間なんだよ。桜ちゃんが思ってるように、都合良くスーパーマンなれるような人なんかじゃない。辛いことがあったら傷つくし、嫌なことがあったら憂鬱にだってなる。できることがあれば、できないことだってある。どんなに昔が凄かったとしても、三年間もだらけてたら、そりゃあヘタれもするよ。だから、あんまり期待を押しつけないであげて」
「和……」
桜は和の言葉にハッとなった。自分だって和と同じように龍示のことを誰よりも近くからずっと見てきたはずなのに、どうしてそのことに気付けなかったのか。そもそも、龍示が他人の期待に応えられずに傷ついていたのは、この前バッティングセンターの件で分かったことではないか。それなのに、自分はまた同じ間違いを繰り返そうとしていたのか。また、無責任な期待を龍示に背負わせてしまっていたのか。桜はそう考えて、自己嫌悪に陥った。
「だから、さ。兄さんがアウトになってベンチに戻ってきたときに、どうやって優しく声をかけてあげるか一緒に考えようよ」
「それは余計に龍示が惨めじゃない!?」
「最初から信用してないっていうのも、それはそれで可哀想です……」
「そうかなぁ……?」
和は複雑そうに顔をしかめた。信用しすぎるのも悪い気がするし、桜と沙希が言うように全く信用しないというのも可哀想な気もする。
少しの間があって、桜は口を開く。
「…………一応……練習しとく……?」
「……ですね。変な空気になってもあれですし……」
「はいはーい。じゃあアタシ、アウトになった兄さんの役やる」
「オッケー」
「了解です」
龍示は敵からは警戒され、味方からは信用されていないという変な板挟みに遭っていた。
***
「何やってんだ……? あいつら……」
龍示はベンチを怪訝そうに見た。
「ツーナッシングだってのに、ベンチの様子気にしてる余裕あんのかよ?」
キャッチャーの明嗣が呆れたように龍示に言った。打席にいる時に集中力を乱すなど論外だ。しかし、
「ありますよ。逆に、もし先輩が俺に話しかける余裕を感じているなら、もう少し気を引き締めた方がいいですよ」
「なんでおれが注意される側!?」
明嗣はそう文句を口にしながらも、龍示の言葉に思う所があるのか、仕切り直すように構えを取り直した。
(……分かんねーやつだ……)
この龍示の自信はどこからくるものなのだろうか。前に龍示の練習を見た限りでは、影人の球など到底打てるとは思えない。
(……考えても仕方ねーか……。どんな小細工を企んでいようが次で終わりだ……!)
明嗣は影人にサインを出す。要求した球は、影人の最高の決め球。
影人は薄く笑みを浮かべてコクリと頷く。そして、大きく振りかぶって渾身の力を込めて腕を振り抜く。
アウトコースよりのストライクゾーンに向かって矢のように鋭く速い真っすぐな球。
((!?))
異変。
明嗣と影人の目が驚きで見開かれた。
龍示がバッティングの構えを解いたのだ。
それを合図とするように、影人の球の軌道が鋭く変化し、ストライクゾーンの外へと逃げていく。高速スライダーだ。
ミットが叩きつけられる音が響いた後、
『ボール』
審判の宣告。
「本当……良いピッチャーですね……。伸びのあるストレートにキレのある変化球……その上、コントロールも良いって……。普通に超名門レベルじゃないですか……」
ストライクからボールに逃げていく変化球。空振りを誘う、いわゆる釣り球だ。ピッチングの基本ともされているが、とても一朝一夕でできるようになるものではない。その上、影人の高速スライダーはストレートとほとんど見分けがつかない。どちらかと気づいた時にはもう修正などきかないのだ。
しかし、
(こいつ……どういう神経してんだよ……)
明嗣は不思議でしょうがなかった。龍示はスイングの気配など全く見せずにバットを引いたのだ。ストライクゾーンに投げられた球だというのに。
(影人のスライダーは初見のはずだ……。なのに……なんで……?)
どんなに選球眼が良かろうと、初見で、ましてや相手がどんな球を投げるのかも知らない状態で、見極められるほど影人の球はヤワではない。
龍示はこちらが一球外してくるという思考を読み取ったのだろうか。
しかし、思考は読み取ったとしても影人の手元が狂えば意図に反してストライクゾーンに入ってしまってもおかしくないくらいにきわどい球だ。あっさり見送るには危険すぎる。
説明がつかない。それこそ、龍示があらかじめ未来を見通すことのできる超能力でも持っているのなら話は別だが。
(もう一回別の釣り球で様子を見てみるか……)
今度はインコースの高めに外れるストレート。
しかし――
((……!))
龍示は再び途中でバットを引いて見送った。もちろん、判定はボール。
一度ならず、二度までも。きわどい球だというのに、バットがピクリとも振られる気配が無かった。
(こいつ……釣り球が一切通用しねーってことかよ……?)
もはや見極められているというレベルではない。あらかじめ結果を知っているというレベルでなければ、こんな芸当はできない。
(搦め手が通用しねーなら……正攻法しかない……か)
しかし、明嗣はすぐに簡単な答えに行きつく。
(つーか、最初から正攻法で良かったじゃねーか……。練習を見た限りじゃ、こいつの打撃は全然だったんだ。影人程の力のある球をヒットにできる技術は無いに等しいはず)
龍示の神がかった選球眼の良さは予想外だったが、バッティングの下手さは前にこの目でちゃんと見ている。龍示に対して一番有効なのは正攻法だ。逆に、変に気を配った配給は影人のペースを崩しかねない。
練習で駄目だったからといって油断してはならないと警戒した結果が、龍示のペースにハマらされていたことに明嗣は気づかされた。
正攻法と決まったならば、球を低めに集めてゴロを打たせてアウトにするまでだ。
影人は振りかぶって渾身のストレートを低めに投げた。
球はストライクゾーンに向かっている。今度こそ、見送ることはできない。
龍示は当然バットを振る。それも、緩いスピードで。
カン。
球はバットに当たって一塁線のファールゾーンへ。
「「「「……!?」」」」
結果からすれば、ただのファール。しかし、敵味方の全員が驚愕の色に染まっていた。
(なんで、あんなに緩いスイングで、オレの球が当てられたんだ……!?)
それだけではない。
(スイングの開始が異常に早かった……! つーか、影人が投げる前からスイングしてなかったか……!?)
龍示はドヤ顔で影人に視線を向けた。
「必殺カットです」
カット。きわどい球をファールにすることだ。
「俺がバッティング下手なのは、バットコントロールが極端に下手だからです。普通に振ったら狙ったとこにバットがいかないんですよ。でも、こうやってゆっくり振れば、イメージした軌道とあんまりズレが出なくて済むんですよね。まぁ、こんなスイングじゃカットか内野ゴロにするぐらいしかできませんけど」
龍示はそう言うが、イメージ通りのスイングができるというだけでは球をバットに当てることはできない。配球を読む相手との駆け引き、球のタイミングの取り方など、重要な点はいくつもある。
もし、それらの重要な点が龍示にとって重要でないならば。重要視する以前にクリアできている問題なのだとしたら。
「……おまえ……影人がどんな球投げるのか分かるのか……?」
自分でも何を言っているのだろう、と明嗣は思う。しかし、呆れるような言葉でも呆れることはできなかった。そうとしか考えられないのだ。きわどいボール球を何の迷いも無く見送るのも納得できるし、高速スライダーとストレートの区別の理由にも納得がいく。
とはいえ、聞いてどうする。まさか『はい』という言葉でも返ってくるというのだろうか。そんな明嗣の馬鹿らしい問に、龍示は答える。
「はい。あくまで人間限定、ですけどね。機械はどんな球を投げるかは分かってもどこに投げてくるかは分からないです」
「「……!」」
冗談を言っているようには聞こえなかった。しかし、馬鹿だと一蹴することもできなかった。アホみたいな理屈ではあるが、そうでなければ神がかった選球眼の良さに説明がつかない。
するとサードの方から能天気な声が聞こえてきた。筋骨隆々のオネェ、一功だ。
「アホォハハハ! 龍クンったらおバカさ~ん♪ 超ウケるんですけど~アンド超カワイイんですけど~♪ アホォハハハ! タマんないわぁ~♪ 後でお顔をナメナメしてあげるわ~♪ アホォハハハ!」
一功は大きな体をクネらせながらケタケタと笑った。ちょっとしたホラーだ。
「……なんだよ……あの気持ち悪い笑い方……」
龍示も人のことを言えた義理ではない。
しかし、明嗣の頭にはそんなやりとりなど頭に入っていなかった。
(何を投げるか分かる……か。なら……もう一回、初見の球を試してみるか)
明嗣は影人にサインを送る。
影人は頷き、投球モーションに入る。そのモーションの途中、龍示はポツリと呟く。
「カーブ……」
「「!?」」
ありえない。握りなど見えるはずもないし、初見なのにクセなど見極められるはずもない。
影人は今さら球種など変えることもできない。明嗣のサイン通りのカーブを投げた。
龍示はバットを引いて、
『ボール!』
カウントはこれでツースリー。
明嗣は確信する。
(こっちの配球の意図が読まれてるってセンは消えた……。要求したのはストライクになるカーブ……)
しかし、実際に来たのはボールになるカーブ。
(こいつが、こっちの考えに合わせてるとしたら、さっきみたいカットしようとバットを振るはずだ……)
しかし、実際はボールだったため、龍示はバットを引いた。
(こいつ……マジで予知能力でもあんのかよ……?)
それも、精度は相当高い。サインを出しているキャッチャーの明嗣よりも、影人の球を把握しているのだから。
ボール球を龍示が振ってくる確率はほぼ無いと考えていいだろう。もし、投げようものなら、その瞬間に龍示の出塁を許してしまうことになるのだから。
明嗣はストライクになる球のみを影人に要求する。
影人は明嗣に従って球を投げていくが、
「カット」
カン。
結果はファール。龍示のスイングは例の超スロースイングだ。
(……! かまわねー……! どんどん投げてこい……!)
明嗣はしつこく何度もストライクを要求し、影人も全力で龍示を打ちとりにいくが、
「カット」
カン。
その球の全てをことごとくファールにしてみせるのだった。
***
その頃、龍示チームのベンチは微妙な空気の中にあった。
武山がポツリと呟く。
「なんか……見ててつまんないな……」
「「「「……!」」」」
ベンチメンバーの本音が武山の口から飛び出し、メンバーの肩がビクリと震えた。
しかし、すかさず沖田がフォローに回る。
「そ、そんなことないですって。頑張ってる藤田君に失礼ですよ」
「いや、でも、ヒットを打つ確率は皆無なわけだろう? カンカンカンカンとファールで粘るだけの打者なんて見ててどこが面白いんだ?」
ギャラリーの立場からしてみれば真っ当な意見だ。選手である武山がギャラリーの立場になっていることはどうかと思うが。
こんな見ていてイライラするような勝負、龍示の立場からすると沙希の反応が気になるところだ。嫌がられていないだろうか。実際にイライラさせていないだろうか、と、不安は尽きないはずだ。
そして、肝心の沙希はというと――携帯をいじっていた。
「沙希ぃ!? 退屈なのは分かるけど携帯はやめよう!? 一応、龍示は沙希のために頑張ってるんだから!」
「ご、ごめんなさい! 岬から連絡が来たものでつい!」
沙希は慌てて携帯をポケットにしまった。
「あ、ごめんごめん! それじゃ仕方ないね。岬さん、なんて?」
「もう少ししたら試合を見に来るそうです。飲み物いるか聞かれたんで、その返信をしてました」
「そっか。一応、岬さんも野球部のマネージャーだったもんね」
ここ二週間の練習でほとんど顔を出さなかったので忘れてしまいがちだが。
「それより……藤田君ってやっぱり凄い人なんですね……」
「ふふっ、そうだね。嫌がらせをさせたら右に出る者はいないかも」
「そうなんですか……?」
沙希は龍示が嫌がらせをする場面を直接はあまり見ていないので首をひねった。
「そういえば藤田君……バッティングセンターの時、空振りはほとんどしてなかったような……もしかしたら一回もしてなくないですか?」
「そうだったっけ……?」
桜はうまく思い出せずに首を傾げた。ゲイに襲われてトランス状態に陥った時を除けばそうだったかもしれない。
「空振りをしていないってことは……一応はタイミングが合ってるってことですよね?」
「そうだね」
つまりは、龍示はマシーンの球に全く手も足も出ない状態ではなかったということだ。ヒット性のあたりが出なかったことを考えると、結果としては手も足も出なかったことになるのかもしれないが。
「兄さん、アタシ信じてた! 野球で兄さんが負けるはすないって!」
「あんたは率先して龍示の負けた時のリハーサルやってたでしょうが!」
和はそれはもう楽しそうにやっていた。影人に打ちとられた龍示をノリノリで演じていた。打ちとられた時の言い訳のバリエーションを考えてはニヤニヤしていた。現金な妹だ。これで、ふとした拍子に龍示が打ちとられてしまった場合、どんな反応をしてくれるのだろう。
「というか、三つ子。おまえら、セリフ少なくなってないか? 大丈夫か?」
武山がどんな気を遣ったのか、おとなしくしていた三つ子に声をかけた。
「「「僕達は所詮、出オチのキャラですから……」」」
三つ子の瞳が三人同時に曇り始める。
「「「一番インパクトのある場面といったら最初の自己紹介のときと、腕のタトゥーを見せたときだけ……。もう僕達のネタの在庫は終了です……。生い立ちとは逆に、中身の個性は全然無いから、金輪際、僕達が目立つ場面は出てこないでしょうね……」」」
その上、試合で目立つことは難しい。三つ子が自分達の仕事である守備を完璧にこなしたところで、目立つという結果にはならないだろう。影人の球を打つのが一番手っ取り早く目立てるのだろうが、素人である三つ子には難しい。
それが分かっているのか、武山は『試合で目立てばいい』とは言わなかった。
「ま、まぁ、その……なんだ。常に三人同時に喋るところとかは、なかなかシュールだと思うぞ、うん」
「「「……片玉っていう設定だけでのうのうと生きていける先生には分からないでしょうね。僕達の苦しみなんて……」」」
「そんな設定をアテに生きてきた覚えはねぇよ! おまえら後期の数学の成績にFつけてやるから!」
「「「先生……うちの学校一〇段階評価ですから、最低成績はFじゃなくて一です」」」
「そうだったね!」
***
龍示への球数が一〇球を超えた頃、明嗣の考えは次第に変わっていった。
(こいつ……空振りする気配が全く無い……。さっきからキワどいボールばっかだってのに……)
「カット」
カン。
「カット」
カン。
「カットカットカット」
カン。
龍示のバットは未だ空を切っておらず、ネチネチと性質の悪い女子のような嫌がらせを続けていた。そんな龍示のやり方に、
「ちょっとぉ~龍ク~ン。いい~加減にしなさいよぉ~? おとなしく三振しちゃいなさいってぇ~」
「そうだそうだ! おとなしくその尻を俺らに差し出せぇ!」
守備側のメンバーから不満の声が上がり始める。さすがにしつこすぎる。
「………………」
それを目の当たりにした龍示から、ニッと笑みがこぼれた。
明嗣は龍示の笑みに気づいてハッとなる。
(味方の集中力が切れ始めてる……!)
正直、野球部の技術は拙い。それでも、凄まじいまでの龍示への飢えが、超人的な集中力を生みだし、技術面をカバーできる状態までになっていたのだ。
もし、集中が切れてしまったら、守備の場面でいつミスをしてしまうか分からない。さすがに影人も、一球も内野、外野に飛ばさずに全員を打ち取ることは厳しい。そのため、味方のミスの無い守備は、勝つ上で必要不可欠なのだ。
(つーか、先はまだ長いんだ。こいつ一人に球数を重ねるわけにはいかねー。根負けしたみたいで癪だが……)
明嗣はとうとう腰を上げて左バッターボックスの所でミットを構えた。
「「「「!」」」」
敬遠だ。
影人の眉がピクリと動いた。
影人はプレートから足を外して、明嗣を睨む。誰がどう見ても不満な様子だ。
「………………」
それでも、明嗣は立ったまま動かない。敬遠は絶対に譲らないつもりだ。
影人と明嗣の無言の争いはしばしの間続き、
「ちっ……」
結局、影人が折れる形となった。影人は明嗣の構えた場所に向かって球を投げる。
敬遠だというのに、影人の球にはスピードがのっていて、明嗣のミットに思い切りぶつかっていった。
『ボール! フォアボール!』
計一六球。龍示は勝負をモノにした。
***
「ふぅ……」
龍示は額の汗をぬぐって、バットを外に放り投げた。
「お……」
龍示の視線がマウンド上の影人とぶつかる。
「ふっ」
龍示は影人に対して勝ち誇るように笑みを浮かべてから、一塁へと向かった。
「!」
影人は慌てて龍示から視線を外して俯いた。帽子の影で分かり辛いが、その顔は少し赤い。
「おい」
明嗣はペシンと影人の頭を叩いた。
「ときめいてんじゃねーぞ。ツンデレヤンキー」
「だ、誰がツンデレヤンキーだコラ! つか、ときめいてねぇし!」
「顔、赤いぜ?」
「うぐっ……」
明嗣はヤレヤレと溜息をついた。
今は勝負の時なのだ。敵にときめいている場合ではない。
明嗣の無言の追及を前に、影人はポツリポツリと言い訳を口にしていく。
「だ、だってよ……しゃあねぇだろうが……。おまえだって俺があいつにどれだけ憧れてたかは知ってるだろ?」
「……だな。おまえの部屋を見た時、おれ超引いたもん」
「!」
影人は『しまった』というように表情を歪めた。
「部屋のあらゆる場所が藤田龍示のグッズでいっぱいだったもんな。しかも、ほとんどが自作っていう……」
「やめろ! 言うな!」
明嗣の脳内に、影人の部屋の有様が思い起こされる。龍示が使っているのと同じ、グローブとスパイク。写真を引き伸ばして作ったポスター。写真を使用して作った下敷きと団扇。そしてステッカー。影人の部屋は、そこかしこに藤田龍示に関する物が飾られており、藤田龍示の顔が害虫のように湧いていたのだった。
明嗣が初めて影人の部屋に入った時、明嗣は人の狂気というものを感じてしまった。
「つーか、試合の話をしていいか?」
「いや、いいに決まってるだろ。試合中だぞ」
試合中に雑談をする方がまずいに決まっている。
明嗣は頭を切り替えて影人に話を切り出す。
「……今回の試合、あいつと勝負する時は球数に制限をつける。一〇球だ。一〇球以内に打ち取れなかったら歩かす」
「!」
「おまえ以外にピッチャーはいねーんだ。あいつのやり方に付き合ってたらおまえが途中で潰れるのは明白。そーなったら終わりだ。分かるな?」
「……あぁ」
わざわざ龍示との勝負にこだわって勝率を下げることには何の意味も無い。明嗣は影人が自分の意思を汲み取ってくれたことに安堵した。
「まあ、他のやつは藤田みたいにはいかねーだろ。サクサク打ち取っていこーぜ」
「……おう」
明嗣は影人の肩をポンと叩くと、踵を返して戻っていった。
***
龍示がフォアボールで出塁。続いて二番、沖田の出番だ。
(……沖田……)
龍示はバッターボックスに向かっている沖田に視線を向けると、偶然にも沖田の視線とぶつかった。互いにアイコンタクトで気持ちをぶつけ合う。
(…………こっからが本番だ……! 頼むぞ、沖田……!)
(……任せて……!)
沖田は気丈に笑ってみせて、龍示の視線に答えた。そして、打席に入る。
龍示が沖田に出した指示は送りバント。龍示を二塁に進めて、沖田の次の打者である桜のヒットで一点を取る手はずだ。
送りバントというと、成功して当たり前というようなイメージがつきやすいのだが――
(まぁ、無理だろうけどな……)
龍示はそう思った。
沖田は自分のバッティングには自信が無いようなことを言っていた。しかし、実際に目の当たりにした限りでは、言うほど酷いものではなかった。もしかしたら龍示よりも上かもしれない。しかし、あくまで中学レベル。高校の名門レベル(?)の影人の球を、そうやすやすとバントできるとは思えない。
「沖田君~! 頑張ってくださ~い!」
「気負わないようにね~!」
ベンチの方から仲間の声援が聞こえてくる。
なんとなくだが、龍示の時よりも声援の数が多いような気がする。人徳の差なのかもしれない。
「お願いします」
打席の前で礼儀正しく頭をペコリと下げて、沖田は打席へと入った。そして、早々にバントの構えを取り、一塁の龍示のサインを確認する。
「「「「……!」」」」
その構えを目にした野手達がピクリと反応する。キャッチャーの明嗣も沖田の様子を慎重に窺いながら、影人にサインを出す。
影人はサインに頷くと、一塁ランナーの龍示を警戒しながら、投球のタイミングを選んでいく。
「……っ」
影人は牽制球無しで、キャッチャーに向かって投球を開始する。ほんの少し粗が目立つクイックモーション。
放たれた球は沖田の胸元を抉るような鋭いストレート。
(!? 球のノビが凄……!)
沖田は影人の球の迫力を前に、バットを引くことを忘れ――
「しまっ――」
キン!
まるで、球はバットに向かって襲いかかるように衝突し、そして緩やかな放物線を描いて影人のもとへと飛んでいく。
ピッチャーへの小フライ。
送りバントを予定していたら最悪のケースだ。ランナーである龍示が二塁に飛び出していた場合、影人がフライを取って一塁に送球すればダブルプレーとなってしまう。
影人はニッと笑って無慈悲にも小フライを取った。
『アウト!』
アウトの宣告。二塁に飛び出しているであろう龍示が一塁に戻ってくる前に、影人は早々に一塁へ送球しようとするが、
「……!」
龍示は二塁になど走っておらず、すでに一塁ベースに足をつけていた。
結果はどうあれ、これでワンナウト一塁。
***
アウトになった沖田はネクストバッターズサークルにいる桜の方へと足を運んだ。
「ごめん、深山さん……」
「ドンマイドンマイ。ダブられなかっただけでも良かったよ。サインミスが逆にラッキーだったね」
「ううん。サインミスじゃないよ。初球に送りバントのサインは出てなかった」
「え……? じゃあなんでバントしたの?」
「無理矢理させられたって感じだった……。ボールがバットに向かって飛び込んでくるような感じで……。大リーグボール一号みたいな……。分かる?」
「あぁ、あれね。巨人の星の」
大リーグボール一号とは野球マンガ『巨人の星』に出てくる投手の必殺技の球だ。ストライクゾーンではなく、打者の構えているバットを狙って投げる魔球だ。打者はスイングできぬままバットに球が衝突し、内野ゴロ、もしくは内野フライにしてしまうという必殺技だ。
もちろん、さっきの影人の球はそこまでのものではないが、あくまで沖田のニュアンスとしての例えだ。
「球のノビ凄いよ。気をつけてね」
「オッケー。任せて」
桜は頼もしい笑顔を浮かべ、沖田に応えた。
***
ワンナウト一塁。バッターは桜。
桜は打席の前で軽くお辞儀をしてから、打席へと入った。
「桜ぁああ!」
一塁ランナーの龍示がこちらに向かって声を張り上げてきた。
桜はそれに目で応える。
(分かってるよ。任せて)
桜がそう心の中で言うと、龍示は軽く笑みを浮かべてみせた。
なんだか、自分は龍示にえらく信頼されているな、と桜は感じた。
思えば、こうして龍示と肩を並べて野球の試合をしたのは随分と久しぶりだ。しかし、今とあのときとではかなり感覚が違う。
それもそのはず。自分が頑張らなくても龍示の力だけで試合に勝ててしまった昔とは違うのだ。昔とは違って、今の自分は龍示に必要とされている。それがなんだか妙にくすぐったくて、ほんの少し気恥ずかしくて、そして嬉しかった。
「ふぅ……」
桜は深く息をつき、バットを構えて影人を見据える。
(勝負……!)
***
明嗣と影人は龍示チームのオーダーを疑問に思っていた。なぜ、三番という大事な打順を女子なんぞに任せてしまうのか。
構えを見れば、経験者であることは分かる。油断していれば、ひょっとしたらということもあるかもしれないだろう。しかし、言ってしまえばそれだけだ。油断しなければどうってことはないのだから。
(女子だからって気を抜くんじゃねーぞ、影人。ちょっとえげつない球かもしんねーけど……)
明嗣はインコースのストレートを要求。女子相手だというのに容赦が無い。
影人はサインに頷く。明嗣の言いたいことは配球で伝わった。要は油断などもっての他。全力で畳みかけろということだ。
影人は投球動作に入る。すると、
「「「「走ったぁああ!」」」」
チームメイトが龍示の盗塁を知らせた。しかし、
((……スタートが遅い……!))
明嗣と影人は同時に思った。
不意をつかれたとはいえ、このタイミングなら確実にアウトだ。龍示の盗塁は自殺行為も甚だしい。
龍示の走るタイミングが遅かったせいでウエストに切り替えることはできなかったが、桜がバットに球を当てない限りは、龍示のアウトはもらったも同然だ。明嗣と影人の頭にそう考えがよぎりかけた時、
「!?」
明嗣は見てしまった。桜の『待ってました』と言わんばかりの極上の笑みを。
桜は渾身の力をバットに込めて、影人の球に喰らいつく。
「しまっ――」
影人の球は金属バットの真芯に衝突し、
「いっけぇえええ!」
カッキィイーン!
バットが甲高く豪快な金属音を鳴らし、打球はグングンとセンターに向かって伸びていく。
龍示と桜はダイヤモンドを猛然とダッシュしていく。
「初球エンドラン!?」
龍示の盗塁はこのエンドランのためだ。
しかし、エンドランのセオリーは球を転がすこととなっている。ランナーが飛び出してしまうため、ライナーでアウトにされればダブルプレーがほぼ確実になってしまうためだ。フライになっても、野手に捕球されるかどうか際どい場面になれば、ランナーは足を止めざるを得ない。そうなれば、あらかじめランナーを走らせる意味が無くなってしまうからだ。
しかし、それでも桜は遠くへ飛ばした。
(こいつ……点を取りにきやがった……!)
そう。全ては点を取るため。龍示がホームに還るための十分な時間を稼ぐためだ。
龍示はすでに二塁を蹴って三塁へ。
外野は若干浅めに守っていたため、普通に考えれば長打コースは確実の当たりだ。これならば龍示はホームに還るかもしれない。誰もがそう思っていた。しかし、
「センター(ここ)を誰の庭と心得る……? 魔の道を統べる我の庭ぞ……!」
銀髪眼帯中二病男、イチローが桜の打球を追う。まるで、この打球をヒットにさせる気など毛頭も無いといった感じだ。口で言うだけあって、
「「「「速い!?」」」」
速い。ただ、ひたすらに速い。イチローは短距離走専門のアスリートも顔負けの化物じみた速度でグングンと打球との距離を縮めていく。
桜の打球は遠くへと飛んだものの、高さもそれなりにあって、地に落ちるまで時間がかかっているようだ。
「人間風情が……! 我の力を見くびるなぁああ!」
イチローは更に加速していく。
長打コース確実かと思えた当たりは、いつの間にか『ひょっとしたら……』と思ってしまうくらいのものとなっていた。
「龍示! マズイよ! 捕られるかも!」
桜は絶賛爆走中の龍示に向かって叫んだ。
「もう遅ぇえ! 今更戻ったところでどうにもなんねぇだろうがぁ!」
龍示はあと少しで三塁にたどりつこうかという位置にいた。今更戻ったところでダブルプレーは免れない。ならば一縷の望みを賭けてホームを目指した方がいいというものだ。なんにせよ、龍示は一刻も早く球が地面に落ちることを願うだけだ。しかし、
「残念だったな! 我が契約者よ! 我は落下点に入ったぞ!」
「「「「!」」」」
桜の打球があと少しで地面に落ちようかというところへ、イチローがとうとう落下点にたどりつき、捕球態勢に入る。
万事休すだ。
龍示のベンチのメンバーに落胆の色が走った。影人の不意を突き、点を取れるチャンスなど、もうほとんどやってこないだろう。ここで点が取れなかったら勝負に勝つ確率はほぼ無いに等しい。
イチローは龍示チームをどん底に突き落とすかのように、無慈悲にもその打球を――
「あっ――」
パスッ。ポロ。
はじいて落とした。眼帯のせいで遠近感がうまくつかめなかったのかもしれない。
「「「「………………」」」」
ヒットだ。
「「眼帯外しとけぇええぇえええええええ!」」
キャッチャーの明嗣がイチローに向かってツッコんだ。
「先制点もらったぁああ!」
龍示は三塁を蹴ってホームへ。
イチローはすかさず球を拾って、
「させぬぞぉお!」
豪快なフォームで送球する。
「「「「!」」」」
イチローから放たれた球は中継を介さず、ダイレクトにホームへ向かっていく。その球は、とんでもないスピードでレーザービームのように地面と水平に進んでいくかのようだった。凄まじい肩力だ。
しかし、
『セーフ!』
いささかタイミングが遅すぎた。どんなに凄い肩をしていようと、龍示をアウトにできるタイミングではない。龍示は余裕でホームベースに足をつけることができた。
桜は二塁でストップ。
一対〇。龍示チームの先制点だ。
***
龍示は息を弾ませ、しんどそうにしながらも、嗜虐的な笑みを浮かべて明嗣に絡む。
「……『初球は見てくるだろう。だったら見せ球を要求する意味は無い。初球からカウントをとって一気に全力で畳みかけてやろう。力のある球をインコースに投げて打ち気を削いでやる』」
「! エスパーかおまえ……」
明嗣は半ば呆れるように龍示を見た。もう、この男が何をしようと驚きはしないといった感じだ。
「相手が女子だから油断しないように、って意識したらこういう考えになるだろうなって思っただけです」
「………………」
「ですけど、俺に言わせればその発想自体が油断そのものです」
「……どういうことだ?」
「その発想の根底にあるのは『女子が男子の球を初球から振りにくるわけがない』ってことですから」
「!」
確かにそうかもしれない。
しかし、女子が慣れないであろう男子の球を初球から振ってくるなど誰が思うだろうか。女子の打者相手に初球を外せば、打者にほんの少しの余裕を与えてしまうと考えるのはおかしくはないはずだ。結果、龍示と桜につけこまれてしまったわけだが。油断しないよう意識したために生じてしまった無意識の油断といったところか。
「つーか、あのセンター何者なんですか? あの打球に追いつくとかあり得ないですよ……。それにあの肩……。センターだけじゃない。ピッチャーのレベルも高い。それに、たぶんあなたも……。ここの野球部はただの弱小ってわけじゃなさそうですね」
「………………」
「まぁ、なんにせよ、この試合は勝たせてもらいますから」
そう言い残すと、龍示はベンチへと去っていった。
***
先制点を取ることに成功した龍示チームだが、なおもチャンスは続く。ワンナウト二塁で打者は四番の千郷。
しかし、点を許してしまったことで完全に本気になった影人の球を打てるわけもなく、千郷と五番の三男は立て続けに三振に打ち取られた。龍示チームの初回は一点のみの結果で終わった。
それでも、攻撃が終わった後の龍示チームのベンチでの盛り上がりは凄かった。
「すごいです! 桜ちゃん! 超カッコよかったですっ! どうしてそんなにカッコいいんですか!?」
特に沙希は試合に勝ったかのように大はしゃぎ。影人からヒットを打った桜に感激していた。
「あははっ。あたしに惚れてヤケドするなよ~?」
「えへへっ! もう惚れてますっ!」
そんなキャッキャウフフしている沙希と桜を龍示は離れたところから羨ましそうに眺めていた。そこへ、ポンと自分の肩に手を置かれる感覚を覚えた。
「……?」
視線を向けてみると、そこには妹の和の姿があった。
「兄さん。沙希先輩、桜ちゃんに惚れてるって。兄さんのこと、あんま眼中に無いみたいだね」
「(ギリギリギリギリ!)全然? 全く気にしてないけどはぁ?(キュィイイン!)」
「兄さん歯軋り! 激しすぎて音が『キュィイイン!』ってなってる! 歯を削ってる時のドリルみたいな音になってる!」
龍示の桜に対する嫉妬は相当大きい。龍示はそれが態度に出ないように冷静になるよう努めた。
「アタシ、口からそんな音出す人間初めて見たよ……」
和は呆けるように言ったが、ふと違和感に気づく。
「……てか、『キュィイイン!』ってドリルが回転する時の音だよね? 歯の削れる音って『ガガガガ』だよね? いろいろおかしくない?」
「まぁ……なんだ……歯が回転してたんだよ……」
「なにそれ凄い!」
***
一方、野球部チームのベンチは龍示チームとは対照的に苛立たしげな空気の中にあった。
「ちょっとカゲちん~? あんたなに打たれてんのよ~!」
「ふざけんじゃねぇぞ宇多ぁ。この試合がどんだけ大事か分かってんのか? あぁ?」
野球部のメンバーは影人の周りを囲んでネチネチと責めたてていた。
「……ちっ。うるせぇ。分かってる」
影人は苛立たしげに舌打ちをしてシッシと追い払う。
「はぁ~!? あたいはね、お尻に龍クンのマグナムをお尻に突き立ててもらうために必死なの! ほんと分かってんの~?」
「そうだそうだ! 俺なんかなぁ、この日のために、ち○こミルク二週間溜めこんできたんだぞ!? もし試合に負けてこのパトスが行き場を失ったら責任取ってくれんのかよ!?」
「それは知るか馬鹿!」
野球部のメンバーは影人の失点が気に食わない様子だった。まぁ、女子にタイムリーヒットを打たれてしまったのだから気持ちは分からないでもないのだが。下品な発言は控えてほしい。
「そこらへんにしとけよ」
集団から少し離れていたキャッチャーの明嗣が制止の声をかけた。
明嗣に言われたメンバーは納得がいかない様子だったが、影人への不満の声を一時的に止める。
「影人は何も悪くねー。ありゃ打った側を褒めるべきだ。並の女子じゃねーよ。あいつは」
明嗣が言うのなら、きっとそうなのだろう。野球に詳しくないメンバーは一応の形で明嗣の言葉を受け入れる。
「…………けどよぉ……」
それでも納得ができないメンバーがちらほら。
「狼狽えるな……。愚民共……」
そんなメンバーにイチローが口を開いた。
「たかだか一点くらいで取り乱しすぎだ……。この程度の戦況、我の力をもってすれば簡単に覆せる……。一番打者は我だ……。黙って見ていろ……。我が……勝たせてやる……!」
有無を言わさぬ強気な口調。中二病の馬鹿と知っていても頼もしさを感じさせられる。しかし、
「元はといえばイッチーのエラーが原因じゃない! あんたふざけんじゃないわよ!?」
「殺すぞ中二病! あぁ!?」
メンバーの怒りの炎に油をそそぐ結果となってしまった。
そんな中、龍示チームは浮足立った雰囲気の中、守備の準備を始める。龍示チームのメンバーはそれぞれ所定の守備位置へとついていく。
「お、敵さん練習始めるぞ」
内野の面々はそこそこ慣れた感じでキャッチボールをしていく。野球部チームよりも捕球と送球の流れがほんの少しスムーズだ。
そして、マウンドにいる人物を目にして野球部のメンバーは面を喰らった表情となった。
「おいおい……あの女が投げんのかよ……!?」
先ほどのヒットの立役者である桜だ。
メンバーの大半は龍示が投げられないのは知っていたが、まさかその役割を女子に任せるとは思いもしなかった。
果たして桜はどんな球を投げるのか。野球部メンバーの視線がマウンドの桜に集まる。
桜はほんの少し緊張した面持ちで投球練習を始める。
「投げるぞ……!」
お手本のように綺麗で無駄の無いフォーム。桜は思い切り腕を振り抜く。
スパァアン!
「「「「……!」」」」
女子とは思えないくらいに勢いのある球をストライクゾーンを射抜いた。もちろん、影人程ではないものの、かなり速い。
野球部の面々も、仲間であるはずの龍示チームの面々も驚いたように桜を見ていた。
「おれの言った通り、やっぱ、ただの女子ってわけじゃなさそうだな……」
明嗣が興味深そうに呟いた。
さっきのヒットは影人の油断、もしくはただのマグレと片付けることができたかもしれない。しかし、あの球を見てしまえば、そんな桜を侮るような考えは抜け落ちていく。
「ちょっとちょっとちょっと……! アッキー、大丈夫なの……!? あの子、けっこう凄くない? 勝てるの?」
それどころか、不安の色が濃くなっていく。
「確かに凄いっちゃ凄いが……。それでもやっぱ女子だな。おれの敵じゃない。すぐに取り返すさ」
「「「「……!」」」」
明嗣の言葉に、メンバーの顔から一切の不安が消し飛んだ。
「っしゃぁ! 頼んだぜ、明嗣! あの女をぶっ飛ばせ!」
「さっすが木原! 心強い!」
「おう。任せろ」
「………………」
イチローは明嗣との扱いの差を釈然としないように見てから打席へと向かった。
野球部の反撃が幕を開ける。
***
桜の投球練習が終わると、龍示はマウンドに寄っていって桜に声をかける。
「桜。これで完封すれば俺らの勝ちだ」
「いや……簡単に言わないでよ……。やるだけやってみるけどさ……」
桜は苦笑して答えた。相手は腐っても野球部。完封はそんなに簡単ではない。
「安心しろ。本当に危なくなったら俺が代わる」
「え……?」
龍示は肩を壊して投手はできなくなったはずだ。そんな桜の疑問に龍示は答える。
「……昔みたいな無茶はできなくても、軽く投げる程度なら大丈夫だ。さすがに全部の回は無理だけど……。とにかく、自信が無くなった時は俺を頼れ」
「いや……頼れって言われても……」
「確かに昔みたいな球は投げれなくなったが……それでも誰であろうと抑えてみせる」
このアホみたいな自信は一体どこからくるものなのか、桜は少し呆れそうになったが、試合前に龍示に言われた言葉が頭によぎった。
『おまえは俺を一度だって頼ってくれないよな』
「………………」
軽く投げた程度でどんな打者でも本当に抑えてみせるとは正直思えない。普段なら、ただの馬鹿みたいな強がりと片付けるところだが――
「……あたしが危なくなったら……助けてくれる……?」
桜の言葉に、龍示が目を見開いた。そして、笑みを浮かべて言う。
「……おう。任せろ。つーか、危なくなるのはおまえじゃなくて俺の肛門だからな」
「また下品なこと言う……」
桜は呆れたように溜息をついた。そして、今さらながらだが、改めて龍示に言う。
「全く……無茶な勝負を引き受けたもんだよ……」
龍示は気まずそうに目を逸らして頭をポリポリとかく。
「……巻きこんで悪かったよ」
「……ううん」
桜は首を横に振って、気にしていないことを伝える。謝罪の言葉など、見当違いだ。久しぶりにワクワクできる場面に出くわすことができたのだ。それに――
「あたしは龍示のパートナーみたいなもんなんだから。こういう逆境は一緒に乗り越えていこう。ね?」
「! ……お、おう」
龍示は言葉を短く切ると、照れ臭そうにプイと顔を背けて自分の守備位置、セカンドへと戻っていった。
「……ふふっ」
性格が歪んでいるくせに照れ屋なところが昔から変わっていないことに気づいて、桜の口から自然と笑みがこぼれた。龍示との会話で良い具合に肩の力が抜けた気がする。
「さて……」
そんな龍示の信頼に応えるべく、桜は意識を切り替える。
打席の側には、すでに打者である銀髪眼帯中二病のイチローが素振りをしており、臨戦態勢に入っていた。スイングからすると左打者だ。
(さっきのセンターの人だ……)
イチローには長打確実の当たりをアウトにしかけた程の人間離れした能力を見せつけられている。バッティングの方は目にしていないため実力は定かではないが、不気味なことこの上無い打者だった。
「……おい」
「?」
打者のイチローがこちらに向かって声をかけてきた。
「先ほどの打席は見事であった。まずは褒めてつかわす……」
「は、はぁ……」
アホ丸出しのイチローの口調に、桜はどう答えていいのか分からない。
「うぬに一つ聞いておく。先ほどから我が契約者と随分と親しげなようだが……まさか恋仲などということはあるまいな?」
「……契約者って……龍示のことですか?」
桜の問いにイチローはコクリと頷いて肯定する。
「……龍示とは……そんなんじゃありません……。……よく周りからは誤解されますけど」
「ほう……ならばよい。いずれにせよ、今後うぬには契約者と深く関わることを禁ずる。この儀式が終わったとき、やつは我の所有物となるのだから」
「……?」
今後、龍示とは関わるなと言われているのだろうか。桜はイチローの一方的で意味不明な言い分にカチンときた。
「やつと我は契約によって生まれし深い因果の力で引かれ合っているのだ。今はまだ人間としての理性が働いて抵抗を続けているようだが……この儀式を成功に導くことでそれも断ち切られる。そのためにも、うぬはここで我が叩き潰す。せいぜい、足掻いてみせろ」
相変わらず、何を言っているのか分からない。しかし、桜は一つだけ分かったことがある。どうやら自分はイチローに喧嘩を売られたらしい。
「……龍示とはそんな仲じゃないですけど……それでも、龍示はあたしの大事な人です。龍示がこの試合に勝ちたいってことであたしを頼ってくれたのなら、あたしはそれに全力で応えるだけです。あなたには負けません」
桜の強い眼差しに、イチローは不敵な笑みを浮かべて応えた。
『プレー!』
審判がイチローと桜の勝負の幕を開ける。
しかし、桜は勝負のこと以前に気になることが一つ。
(……あんな眼帯つけてボールなんて見えるのかな……?)
左打者で右目が見えないということは致命的だ。遠近感が掴めないのもそうだが、死角の範囲が段違いに広い。
その桜の疑問もキャッチャーの千郷も同じく感じているようで、千郷はインコースに食い込んでいくスライダーを要求してきた。右目が見えない左バッターにとっては死角に飛び込んでくるかのような球に感じるはずだ。
しかし、意図的にインコースを投げさせるイチローの罠というセンもある。桜が投げた瞬間に思い切り体を開けば目で捉えることは可能だ。
「………………」
どれだけ考えても、結局は出た所勝負。桜はそう結論付けて、千郷の要求に頷く。
桜はゆっくりと振りかぶって、
「っ!」
コントロールに意識を割いて投げた。
球はうまい具合にど真ん中へと向かっていく。しかし、イチローがスイングを開始したと同時に球は軌道を変え、イチローのインコースを抉るように進み、バットが空を切った。
気持ちの良いミットの音が響き、
『ストライク!』
内角いっぱいの絶妙なストライク。
「「「「おぉ……!」」」」
これにはこの場の野球経験者の顔が驚きに染まった。しかし、誰よりも、めちゃめちゃ驚いている人間が一人。
「球が……消えた……!?」
((やっぱ見えてなかったんかいっ!))
イチローだ。本当に球が消えたと勘違いしているようで、目がこれ以上無いくらいに大きく見開かれていた。
「うぬ……消える魔球の使い手か……?」
「ば、バニ……?」
うまく聞き取れなかった。というか、イチローの相手が面倒臭い。
野球部ベンチからは『眼帯外せバカ!』みたいな野次が飛んでいるが、イチローの耳には届いていない。球が消えたことで頭がいっぱいのようだ。
まぁ、見えてないならいいか、と桜と千郷は同じ球を投げ込んでいくことに決定。結果、
『ストライク! バッターアウト!』
イチローはあっけなく三球三振に終わった。
「「…………………」」
警戒していたのが馬鹿みたいと、桜と千郷は顔を見合わせて呆けた。
「……まさか、人間界でうぬのような者に出くわすとはな……。しかし、覚えておけ。最後に勝つのは我だ」
イチローは捨て台詞を残してベンチへと戻る。
『真面目にやれボケぇえ!』
『死ねオラァ! 眼帯外せバカ! 死ね!』
「「「「………………」」」」
敵チームのベンチが騒がしいが、気を取られてはいけない。次の打者は松村来栖。ギョロリとした目が特徴の、馬とニワトリとカメレオンを足して三で割ったような顔をした男だ。
「人間の外見の説明じゃなくね!? 完全に化物の生態の説明じゃねえか!」
「「「「…………?」」」」
突然、大声を上げた松村来栖に、全員がキョトンとした顔になった。
「あれ……? 俺、何言ってんだ……? あれ……なんかごめん」
松村は気を取り直して右の打席に入り、構えた。見たところ、素人臭さは感じられない。
「………………」
千郷からのサインは外に外れるカーブ。相手の実力が分からないため、様子見といったところだ。
桜は振りかぶって投げる。
「……っ!」
松村は初球から思い切りの良いスイングを見せてくるが、バットは空を切る。
『ストライク!』
「………………」
今ので分かった。打者は素人に毛の生えたレベルだ。タイミングに合わせて振るだけ。変化球に対応するようなスイングがまるでできていない。桜と千郷はホッと息をつく。男子が相手ということで多少の不安があったが、良い意味で肩の力が抜けた気がする。他の打者は分からないが、この試合でイチローと松村にヒットを打たれるようなことはないはず、と桜は考えた。
しかし、二球目。
「いけ!」
カキン! と松村のバットが桜の変化球を捕らえ、金属音が響いた。
((当てた!?))
桜と千郷は同時に面食らった。
「うぉっしゃぁあ!」
松村は桜の球をバットに当てれた喜びに震えながら一塁に向かってダッシュしていく。
打球は地面をバウンドして三遊間を抜けるか否かの良い当たり。野球部ベンチの空気が期待の色に染まるが、
「いかせない……!」
沖田がそれを横っ跳びでキャッチした。
「「「「なにぃい!?」」」」
「っ!」
沖田は間髪入れずに上体を軽く起こし、バランスの悪い状態でファーストの和に送球。
沖田から放たれた球は矢のように鋭く、和の構えたミットへと寸分違わぬ所を射抜く。
『アウトぉお!』
塁審がテンションマックスでアウトのジェスチャー。
「「「「うぉおおおおお!」」」」
沖田のファインプレーに、龍示チームは歓喜の声、野球部チームからは悲鳴が木霊した。
「やるじゃねぇか沖田ぁ! 今のをアウトにできるとは、さすがは俺が見込んだだけあるな!」
セカンドの龍示が沖田の側へとやってきて背中をポンと叩いて称賛する。
「あ、ありがと……! バッティングで足引っ張っちゃったけど……ちゃんと藤田君の力になれたかな……?」
「当然だ! サンキュな、沖田! 助かった!」
「えへへっ。やったっ」
沖田は照れたように顔を赤く染め、はにかむように笑った。龍示に褒められて嬉しさが込み上げている。
その様子を見て桜は視線を彷徨わせるが、龍示が守備の定位置に戻ったところで、沖田に声をかける。
「沖田君、ありがとう。助かった」
沖田は『いえいえ』と気さくに笑って答えた。そして、桜に言う。
「変化球を中心に組み立ててるみたいだけど……ストレートより球速が劣るから素人さんにはタイミングが合わせやすいんじゃないかな? 今みたいにマグレで衝突ってこともありえるから……もう少し速球を混ぜてもいいかもね。深山さんのストレート、十分速いし」
「オッケ。助言ありがとう」
沖田の助言はもっともだが、しかし、
「さっきの借りは返させてもらうぜ……。桜とやら」
「………………」
続く三番打者は影人。野球経験者であることはピッチングからして明らか。投手だからとて、打撃の面でも油断はできない。そのため、どうしても直球を投げるのが躊躇われる。
肝心の千郷のサインは、
(インコースに外すストレート……)
千郷も影人を警戒しているようで、さっきの二人のように初球からカウントを取りにいく真似はしない。
桜はサインに頷いて、振りかぶって投げる。
(しまっ……甘く入った……!)
桜の投げた直球はボールゾーンではなく、甘いストライクゾーンに向かって伸びていく。
「っ!」
それを見逃す影人ではない。影人は桜の直球を引っ張るように捉えた。
甲高い金属音が鳴り響き、球は沖田の頭上を越え、レフト前にポトリと落ちた。
影人は余裕で一塁に到着。野球部チーム初めてのヒットとなった。
『よくやった宇多ぁ! ナイスバッティング!』
野球部ベンチからの声援を影人は無視して、桜の方へと向き直る。
「俺が打たれた球と同じ球だったな。もっとも、そっちの場合はコントロールミスってとこか?」
「……お察しの通りです。借り、返されちゃいましたね」
「はっ、何言ってんだ。こっちはまだ点取ってねぇっつぅの。借りはまだ返し終わってねぇ」
「そこまで返される覚えは無いです。ヒットは許しても、点まで許す気はさらさらありませんから」
「……そうかい。だったら、せいぜい次のバッターには気をつけろ」
「……?」
桜は打席の方へと視線を向けると、そこには金髪イケメンキャッチャーの木原明嗣が準備していた。
「………………」
影人に言われずとも、明嗣こそ一番警戒すべき打者であることは桜も分かっていた。あの影人のキャッチャーが務まる程の選手ということはもちろんだが、一挙手一投足の動作のが全てがサマになっており、並の選手でないことが嫌でも伝わってくるのだ。
影人は忠告を続ける。
「……木原明嗣。自称『悲劇の天才打者』だ」
「自称!?」
なんか話が一気に胡散臭くなってきた。
「オレとあいつは中学が一緒でな。周りからは名門って呼ばれてる野球部で、県で優勝したのは一度や二度じゃないくらいに強いところだった」
名門野球部出身。影人と明嗣の実力に納得がいった。
「中でも、あいつは特別で、入学してすぐに四番を任せられるほどの実力の持ち主だったんだ」
「天才打者ってことは分かったんですけど……なんで悲劇なんですか?」
「……公式戦に一度も出たことがないんだ」
「……え?」
故障。桜の頭にその言葉がよぎった。
桜は故障の悲惨さというものを身をもって知っている。故障一つで人生の在り方を一八〇度変えて生きなければならなくなった人間を誰よりも近い場所で見続けてきたから。
しかし、影人の口から出てきた言葉は全然ベクトルが違うもので、
「公式戦の日が近づくと、決まって近しい親戚の人が亡くなってな。毎度葬式に出席しなくちゃならないってんで試合には一回も出れなかったんだ」
「悲劇っていうかお気の毒ですよね!? お気の毒な天才打者ですよね!?」
「自称なんだからオレにツッコむな」
「ていうか、そんなことが三年続けば親戚もビビりますよね!? 『おい! もうすぐ公式戦だぞ! 次は誰が死ぬんだ!?』みたいに!」
「いや、親戚が死んだパターンは三~四回だけだったかな……? 他の理由は……いろいろあって忘れた」
「親戚死んだのは五回だ。他は結婚式、食中毒、インフルエンザとかだ。とにかく、公式戦のタイミングでは何かしらの不運に見舞われてな。気がつけば一回も出れずに三年すぎちまった」
打席に入った明嗣が影人の説明を引き継いだ。
というか、その話が本当だとするならば、不憫すぎる。なんのために野球の練習をしていたのか分からないではないか。桜はそう思って、
「……織田無道に除霊してもらった方がいいんじゃないですか?」
「懐かしい名前出すな、おい! つーか、あの人インチキな上に一回警察に捕まってたろ? なんでそんな坊さんに除霊してもらわなくちゃいけねーんだよ」
ちなみに、ウィキペディアによると織田無道は自称『織田信長の子孫』とほざいていたらしい。他にも、性欲が盛んだと公言していたなどと、織田無道のウィキペディアにロクなエピソードがのっていなかった。
桜は妙なエピソード(織田無道ではなく明嗣の方)に気を取られてしまったが、そろそろ集中しなおさなくてはいけない。
「さて……。そろそろ真剣にいきましょーかね……」
明嗣がバットを構える。
「っ!」
途端に、明嗣の纏っていた空気が一変する。
(この人……! 違う……!)
威圧感とも、気迫とも違う。敵意を向けられているわけでもない。
しかし、桜はどうしていいか分からなくなった。どこに投げても打たれてしまうような気がしてならない。強打者と対戦することは今までに度々あったが、こんなことを感じたのは初めての経験だった。
「桜」
セカンドから龍示の声。
「歩かせろ。そのセンパイ、ヤベぇから。一発あるぞ」
「…………でも……」
「際どいボール球だけで逃げようって考えるなよ?」
龍示は桜の考えていたことを先回りして言ってきた。
「ほんの少しストライクゾーンから外れたとこにいっても、多分平気で打ってくるぞ。そうなれば俺の肛門は言わずもがな、だ」
「だから下品なこと言わないでよ! 深刻な問題なのは分かるけど!」
下品な発言はさておき、龍示の言葉を全く無視するわけにはいかない。明嗣が危ない打者であることは明白なのだ。長打を打たれて点を取られてしまう可能性も無いわけではない。しかし、
「オレはどっちでもいいぜ。点取るつもりだったけど、ただで得点圏にランナーが進むならそれはそれでいいしな」
そうなのだ。敬遠すればツーアウト一・二塁。一打同点のリスクを高めてしまうことになる。
明嗣の長打と次の打者のヒットを天秤にかけた場合、どちらの方を警戒すべきなのか。龍示は前者を警戒するように言ってきたわけだが。
桜が出した答えは、
「ごめん、千郷。立って」
「! そんな……」
敬遠だ。
「…………あぁ、もう……」
千郷は躊躇いを見せながらも、仕方無いといった感じで立ち上がった。
その時、明嗣が軽く舌打ちをしたのを、桜は見逃さなかった。明嗣本人は点を取る自信があったということに、桜は気づく。
『フォアボール!』
明嗣はバットを放り投げて一塁へ向かう。
これでツーアウト一・二塁。
敬遠の策を成功と呼べるものにするためには、次の打者をなんとしえも抑えなくてはいけない。その肝心の次の打者はというと、
「ちょっとぉ~ナメたマネしてくれんじゃないのよぉ~♪ ぜ~ったいホームラン打ってやるんだから♪ 覚悟しなさ~い♪」
筋骨隆々の大柄オネエ、豊田一功だ。
(この人もこの人でちょっと危ないかも……。完全に体が格闘家だもん……)
ゴルフクラブでも振るかのような度を超したアッパースイング。素振りを見る限りでは素人丸出しなのだが、しかし、あのガタイだ。何かのマグレでバットに当たってしまうと想像するとゾッとする。マグレで松村にいいあたりを打たれたことが思った以上に尾を引いていることに、桜は気づく。
「桜」
「?」
そんな桜の不安を読み取ったかのタイミングで、再び龍示が声をかけてきた。
「決して諦めるな。自分の感覚を信じろ!」
「よその名言を我が物顔で言わないでくれる!?」
ふざけている場合ではない。桜は千郷の方へと意識を割く。
(やっぱセオリー通りに高めか……)
アッパースイングは低めに対応しやすいメリットとは逆に、高めの球をさばきにくいというデメリットを抱えている。とはいえ高めはホームランになりやすい危険もあるが、素人に毛の生えたレベルのブレたスイングでは無いも同然だろう。
「いっけぇ~♪」
カキン!
「「「「!」」」」
バットに当てられたことで驚いたものの、打球は平凡なレフトフライ。しかし、高さが半端ではない。一功のパワーは本物だということを思い知らされる。
野球部ベンチから溜息がこぼれる中、龍示チームの面々は戦々恐々としていた。
なにせ、レフトを守っているのはこの男。
「ミスしたら罰金五万……ミスしたら罰金五万……」
野球のド素人である武山だ。武山はフラフラと頼りない足取りで落下点周辺をウロウロとしていた。超失敗しそうだ。
「取れぇえ武山ぁあ! 落としたらぶっ殺すぞぉお!」
「平凡なフライです! 落ち着いてください!」
「ま、まか、任せろ! 取るから! 取ればいいんだろ?」
武山がプレッシャーで押し潰れされそうになっている中、ランナーである影人はすでにホームに還っており、明嗣も三塁を回っているところだった。
もし、武山が取りこぼせば、影人の分の一点が入り、明嗣のホームインもほぼ確実なので、計二点入ることになってしまう。つまり、逆転されてしまうわけだ。そうなれば、龍示チームは影人から最低でも二点を取らなければ勝てないわけだが、それは正直無理難題な話だ。要するに、ここで武山が取りこぼしてしまえば龍示チームの負けが決定してしまうと言っていい。
試合の命運を分ける打球はグングンと地上に向かって降りてくる。
龍示チームの想いを一身に背負った武山は、グラブを構え、
「あっ、まぶしっ――」
パスッ。ポロッ。
「「「「!?」」」」
打球は武山のグラブからポロリとこぼれ、
「大丈夫!」
こういった事態を予測してカバーに来ていたサードの三男がこぼれ球を地面に落ちる前にダイビングキャッチ。超ファインプレーだ。
『アウト!』
スリーアウトチェンジ。龍示チームはなんとかピンチを乗り切った。
桜と千郷は深くホッと息をつく。武山が球を弾いた時は心臓が止まる思いだったが、三男のファインプレーに感謝だ。
チームメイト達が三男に駆け寄り、称賛の言葉をかけていく中、龍示は一人、一目散に武山の側へとダッシュしていく。そして、
「せいっ!」
「ぐぉあ!?」
武山に足払い。そして、龍示は流れる様な動作で、みっともなく地面に転がった武山の両足首を掴んで武山の股を強引に開いた。
「やめっ! いきなりなにすんだ!?」
「『なにすんだ』は……こっちのセリフじゃボケぇえ!」
龍示は武山の股間にスパイクの足を置き、思い切り電気アンマをお見舞いしてやった。
「ひぎゃぁあ!? や、やめろぉお! 痛い痛い痛い! 潰れるっ! もう片方も潰れるからぁあ! うぁあああ!」
「うるせぇボケぇえ! 『あっ、まぶしっ――』じゃねぇんだよぉお! どんだけヒヤヒヤさせてんだテメェはよぉお!」
「あばばばば! ごめんなさい! 本当にごめんなさいぃい! お願いだからもうやめて! ひぎががが!」
龍示の足は電動ミシンの針の如く上下に振動し、武山のシンボルを踏み抜いていく。
「こっちは人生が賭かってんだよ! おまえの『あっ、まぶし――』で俺の人生終わるとこだったんだぞ!? 分かってんのか、あぁ!?」
「しゃばばばば! わ、わ、分かります、す、すびばせん! お許しください龍示様ぁあ! ひぇぶらばば!」
「藤田君やりすぎだから! 気持ちは分かるけど、この辺でやめてあげて! ね?」
側に駆け寄ってきた沖田が、龍示に必死にやめるよう説得してきた。
「…………沖田がそう言うなら……」
龍示は渋々、武山のジュニアからスパイクを離し、武山を解放してやった。
「はぁ、はぁ……助がった……」
武山は酷く憔悴していた。体はグラウンドの土まみれ。目は充血し、口からはヨダレをダラダラと垂らし、奇怪な呼吸音を鳴らして地面を転がっていた。
武山は痛む股間を両手でさすりながら、ゾンビの様にヨロヨロと立ち上がり、救世主である沖田の側へやってきて、
「あ……あでぃがとう……沖田ぁあ……くふっ……」
武山は作り笑顔を完璧に失敗。狂気に満ちた性犯罪者のような笑顔で沖田に礼を言った。
「うぁあああ! こ、こっち来ないでくださいっ!」
沖田は武山にビビり、脱兎の如くベンチへと逃げていった。
「………………」
武山は自分を救ってくれた恩人の恐がりように呆然とした。
「……鏡、見てみるか?」
「見たくないわぁあ!」
***
二回の表。龍示チームの攻撃。
打者は六番の茂分一男。
「フタエノキワミ、アッー!」
『ストライクバッタアウト!』
七番茂分二男。
「ガトチュゼロスタァイル!」
『ストライクバッタアウト!』
八番武山。
「………………」
『ストライクバッタアウト!』
スリーアウトチエンジ。
***
「おまえら、打てないのは分かるけど……だからって、ふざけすぎだろ」
「「ふざけてないよ。キャラ付けを必死に頑張った」」
「そんなんいいから! つーか伝わんねーよ! るろ剣の海外吹き替え版のネタだろ!? そんなん知ってるやついねーよ!」
「「……そうだね。やっぱ実物じゃないと笑えないよね。武山先生の無言の内に三振ってボケには敵わなかった……」」
「俺はボケたつもりないんだが!?」
龍示は困ったように息をついた。
「おまえら、目立ちたいならプレーで目立てるように頑張れよ。現に三男はさっき目立ってただろうが」
「「………………」」
そういえば、同時に喋る人数も三人から二人に変わっていた。自分達はいつも三人で一人の形を取っていたのに、三男の姿が見当たらない。
一男と二男は訝しく思って三男の姿を探してみると、
「「…………!」」
三男は他のメンバーから先ほどのファインプレーを未だに称賛され続けているところで、照れたように笑って嬉しそうな様子だった。
「「三男め……! 一人だけ調子に乗って……!」」
これでは三男だけ頭が一個抜けているような気がして、酷く気に喰わない。
「いやいや、三男のプレーは見事だった。普通、ツーアウトであんな凡フライだったらカバーになんていかねえよ。無能な味方である武山に対する不信感が生みだした最高のファインプレーだ」
「それのどこが最高のファインプレーだ!? 味方から全く信用されてないことを思い知らされた俺の気持ちは最悪だ!」
気持ちは分からないでもないが、現に信用を裏切った武山が言って良いセリフではない。
龍示はスルーして話を続ける。
「それに引き換え、キャラ付けに必死になってふざけたおまえらはどうだ? 周りから扱い辛く思われて放置されているこの現実をどう受け止める?」
「「僕達そんな風に思われてたの!?」」
「確かに……藤田の言う通り、試合中に突然外人の真似したら誰だって困惑するだろう……」
「「……!」」
困惑するどころか変人のレッテルすら貼られかねない。否、すでに貼られているかもしれない。
「悔しいだろうが、この玉の言う通りだ。この失敗はプレーで取り返していこうぜ」
「「藤田君……」」
「玉って言うなぁあ! せめて人間の扱いをしてくれよ! 片玉って呼んでもいいから、せめて人として扱ってくれよ!」
武山は涙目で龍示に訴えるが、三人はスルー。玉が何か喋っているが知ったことではないといった感じだ。
「そろそろ行こう。あんま、あいつらを待たせるわけにはいかないしな」
龍示はグラウンドの方へ目配せした。
グラウンドにはすでに、龍示達以外のメンバー全員が守備位置につこうとしている。
「「了解! 練習の成果、その目に見せてあげる!」」
***
二回の裏。野球部チームの攻撃。打者は六番の椛鳥永路(モブ)からだ。
桜は初回に大きなピンチを乗り越えたこともあって、ピッチングに余裕がでてきた。コントロールも冴え渡って、良い場所に良い球がことごとく決まっていく。
『ストライク! バッタアウト!』
六番の椛島を三振。
「三男ぉ! いったぞぉ!」
「分かってる!」
七番の西賢二(モブキャラ)をサードゴロ。
「龍示っ!」
「おう! ちゃんと捕れよ、和!」
「カモン兄さん!」
八番の田野真伍(モブキャラ)をセカンドゴロに打ち取り、この回、桜は三者凡退に打ち取ってみせた。