第三章 弱小。消えることのないトラウマ
第三章 弱小。消えることのないトラウマ
翌日。
「今日で補習は終わりだ。二人とも、よく頑張ったな」
武山が龍示と沙希に労いの言葉をかけた。
本日をもって、補習は終わりだ。
「ありがとうございます。武山先生」
沙希は肩の荷が下りたとでも言うように、ホッと嬉しそうに息をついた。
「……くっ」
対して、龍示のご機嫌は斜め。沙希の可愛い制服姿を拝める時間が減ってしまうのだ。当然、一緒にいられる時間も減る。練習中はあまりお喋りもできないだろうし、できるとしたら、練習の始まりと終わりのわずかな時間だ。これでは沙希ともっと親しくなることは難しい。
(鷺咲さんとお喋りできる時間が無くなっちまう……。部活帰りにどっか誘うか……? けど断られたらどうしよう……。昨日幻滅されたばっかだし……断られたら立ち直れねぇよ……)
「藤田。部活の方はどうだ? ちゃんと一生懸命やってるか?」
「……ああ。やってますよ。道はめちゃめちゃ険しいっすけど……」
「おまえが弱音!? どうした!? おまえ本当に藤田龍示か!? 薬か!? 変な薬に手を出したんじゃないのか!?」
「なんで俺を疑う時いつもドラッグ方面なんだよ……」
しかし、武山の言うことはもっともだ。沙希と出会ってからというもの、龍示は情緒不安定になってばかりだ。
「藤田君、昨日のバッティングセンターで全然打てなかったこと、まだ気にしてるんですか?」
沙希はまだカサブタにもなっていない龍示の傷を躊躇いも無くえぐった。
「気にしてるか怪しいんだったら聞かないでもらえます!?」
そこで沙希の顔がハッとなって、申し訳なさそうに謝った。
「! ヤベっ……ま、まぁ気にしてないからいいんですけどね! あっはっは! 昨日はあれ、本気出してなかっただけですから!」
「……本気じゃなかったら、そんなに手はボロボロにならないと思います」
「うっ……」
昨日、皮がズタボロに破けて血を流していた龍示の両方の手は包帯でグルグル巻きになっている。
「藤田君。私は藤田君が一生懸命なのは誰よりも分かっているつもりです。だから焦らないで、もっと自分を大事にしてあげてください」
「……はい」
沙希は分かっていない。龍示が他の高校球児と比べて、どれほどの遅れを取っているのか。その上、この学校の野球部はまともに練習などしない弱小。他の選手にはほとんど期待できない状態なのだ。試合で勝ちあがっていくとなると、龍示は一人でチームの全員を引っ張っていけるくらいの実力を要求されるのだ。この状況を突きつけられておいて、焦るなと言われても無茶な話だ。
「ああぁあ!」
しかし、忘れていた大きな問題が一つ。
突然叫んだ龍示に沙希は尋ねる。
「ど、どうしたんですか!?」
「練習してる部員……俺だけだ……!」
龍示がチームを引っ張っていく実力がどうのという以前に、そのチームすらできていないことに今更ながら気づいた。
「本当です……! 野球は九人いないとできないのに……! 藤田君一人で頑張っても仕方無いです……!」
武山は呆れたように、
「おまえら馬鹿か? ……そうだ、馬鹿だから補習に来ているんだったな。悪い」
「ちっ……。鷺咲さん。これからの時間、部員の説得にも使いましょう。部員を携帯で呼び出すとかできますか?」
「はい、知ってます。でも、呼び出しても素直に来てくれるかどうか……」
「まぁ細かい策についてはこれから考えるとしておきましょう。それより、グラウンドが使える内は練習したいんで、そろそろ行きませんか?」
「そうですね」
龍示と沙希は教室を後にし、練習の準備へと向かった。
***
龍示は外で着替えを済ませ、沙希の持ってきた鍵で体育倉庫の鍵を開けると荷物一式をしまった。そして、沙希が部室へ着替えに行っている内に、一足先に柔軟に励む。
「ん……」
体を伸ばした拍子に強い筋肉痛が走り、龍示は声を漏らした。筋肉痛は練習を始めてからほぼ毎日だったのだが、今日は一段と痛みが強い。
「すみません。遅れました」
しばらくして着替えを済ませた沙希がやってくる。
「いえいえ。急がなくても大丈夫ですよ」
暇を持て余した沙希は龍示を真似て一緒に柔軟を始める。
「それより、他の部員の件はどうしましょう……? 藤田君」
「……正直、難しいですね。一学期のとき鷺咲さんがどんなに頼んでも耳を傾けてもくれなかったって話でしたよね? なら、正攻法はまず通用しないでしょうね」
「それに、無理矢理に練習してもらうっていうのも駄目ですしね。やる気を出してもらった上で練習に励んでもらわないと」
「それはちょっと高望みしすぎです。鷺咲さん」
「え?」
「そう簡単にやる気を出してくれる連中がいたら、一学期の鷺咲さんの説得に応じていたと思いますから」
「……確かに、そうかもしれません」
「とりあえあずは部員達に練習に来なくちゃいけない理由を作ることを目的に考えましょう。やる気を出してもらうのはそれからです」
「なるほど。現実的ですね」
沙希は龍示の言葉に納得した。
とりあえずはグラウンドに顔を出してもらうことが第一。練習への取り組み方は後回しということだ。となると、
「それで、練習に来てもらうための具体的な作戦っていうのは……?」
「すんません。無いです。なんで、それをこれから一緒に考えましょう」
「はい。でも、藤田君は練習の時は練習に専念してください。藤田君の足を引っ張っちゃうみたいですから……」
「……分かりました」
しかし、そんな二人の第一の目標はすんなりと達成されてしまうこととなる。
龍示が柔軟を切り上げ、ランニングのスタート地点へ向かおうとしたところへ、ガヤガヤと遠くの方から騒がしい声がしだした。
「「……?」」
龍示と沙希は怪訝な顔で声のする方へ視線を向けると、制服姿の男集団がこちらの方に向かって歩いてくるのが見えた。
そして、その男集団を率いるかのように先頭を歩いているのは、
「岬……?」
沙希の双子の妹である岬だった。
集団とこちらとの距離が縮まってくにつれ、個々の顔が段々とはっきりしていく。
「それに、野球部の人達……!」
野球部の部員が大勢集まってグラウンドに何の用だというのか。練習をするなとでも脅しにきたのだろうか。
龍示はただならぬ雰囲気を感じ取り、ランニングの開始を中止して沙希の近くへと戻り、野球部集団と沙希との間に入った。
「……何の用っすか?」
龍示と沙希は野球部の面々を警戒して様子を窺う。すると、野球部員の間でポツリポツリと言葉が漏れているのが聞き取れた。
「うほっ。いい男」
「やだ……すっごいイケメン……!」
「可愛い顔……してやがる……!」
「それに……引き締まった逞しい体……!」
「なんて綺麗なケツのラインしてんだ……!」
部員達の顔は飢えた肉食獣のそれと化していて、ごちそうを前にしたかのようにニヤニヤと笑みを浮かべ始めた。標的となっている対象はもちろん龍示。
「!?」
彼らの爛れた欲望を向けられた龍示は、か弱い小動物のようにビクンと跳ね、一歩後ずさった。
岬がヤレヤレといった感じで口を開く。
「新入部員が入ったってことが今日になって広く知られたみたいでね。皆でこいつの顔を見に行こうって話になったワケ。分かった? 姉さん」
「そ……そうなんだ……」
こうして『グラウンドに顔を出してもらう』という第一の関門を突破したというわけなのだが、部員達の様子が何か変だ。
どうしたものか、と、沙希と龍示が悩んでいるところに、野球部員の一人が龍示の前へとやって来た。
彼の特徴を短くまとめるのならば、『大柄の筋肉質な男』だ。
「!?」
龍示は怯えたように同じ距離だけ後ずさって安全な間合いをキープする。
大柄な男は龍示に親しげな笑みを浮かべて声をかける。
「そぉ~んなに恐がらなくても大丈夫よぉ~♪ あたい、豊田一功♪ みんなからは『イッコウ』って呼ばれてるの♪ よろしくね? 龍クン」
「龍……クン……?」
龍示の背中に何とも言えないゾクゾクとしたものが走った。
事態はそれにとどまらず、一功に続いて、他の部員が一人、また一人と龍示を取り囲むように群がっていく。
「お、おれ、松村来栖! よろしくなっ!」
「おい、抜け駆けすんじゃねぇ! 俺は――」
「押さないでよっ! 僕だってちゃんと挨拶したいのに!」
あっという間にゲイに包囲されてしまう龍示。
「ひぃいいっ!?」
龍示は、全身という全身に鳥肌が立った。恐ろしい。ゾンビにでも囲まれたかのような壮大な恐ろしさに、龍示は泣きそうになった。
(冗談じゃねぇえ! こいつら本当なんなんだよ!? 超恐ぇよ!)
沙希は果敢にも龍示とゲイの間に割って入り、
「皆ぁ! やめてくださいっ!」
「鷺咲さん!?」
叫ぶようにして龍示に群がるゲイ達を押し返そうとするが、全然ビクともしない。
「鷺咲さん! 無茶しないでください! 怪我しますから!」
龍示は沙希の身を案じて叫ぶが、沙希はそれを聞き入れない。
そこへ、
「やめぬかぁあああ!」
一際大きい怒号が轟いた。その場にいた全員の視線が声の主の方へとむかう。
「……あまり騒ぐでない。そやつが怯えているだろう」
声の主の姿は異様だった。浮世離れした銀色の髪に、右目についた黒い眼帯。フィクションでしか見ないような格好だ。
鈴本一郎。通称『イチロー』だ。彼の言葉にゲイ集団はハッとなって、龍示から離れて距離をとった。
「大丈夫か……?」
イチローはゲイ集団と入れ替わるようにして龍示の前へとやってきて尋ねた。
「あ、ありがとうございます……。本当に助かりました……」
この人、見た目は異様で不審者丸出しだが、案外良い人なのかもしれない。
イチローは薄く笑みを浮かべて答える。
「恐がらせてしまったな……。悪かった……。しかし、もう大丈夫だ……」
「だと……いいんですけど……」
「……うぬはまだ不安か……?」
「そりゃあ……はい……」
あんな恐ろしい経験をしておいて平気でいられる男などいるのだろうか。
「ならば……少しの間じっとしているがよい……」
「は、はぁ……?」
龍示はイチローに言われた言葉の意味が分からず呆けた。――呆けてしまった。
「!」
気がつけば、目を閉じたイチローの顔が間近に迫っており、
チュッ。
「!?」
龍示の頬に、しっとりと濡れた柔らかい何かが触れる感触。
そして、ゆっくりと離れていくイチローの顔。その顔はうっすらと赤く染まっていた。
何が起こったのか飲み込めていない龍示に、イチローは語りかける。
「こ、これで契約は成立だ……。これで我とうぬは「死ね」」
イチローが何かを言い終える前に、龍示はイチローの顔面を殴り飛ばした。
「うぎゃああ! 痛ぁああ! 痛いぃい!」
イチローはキャラを忘れて地面に叩き落とされた羽虫のようにのたうち回る。
龍示はイチローに背を向け、無言で体育倉庫へと向かい、
「………………」
金属バットを片手に出てきた。
殺す。龍示は、ただそれだけの意思を宿したサイボーグと化し、地面で転がっているイチローへと追い打ちをしかける。
当然、そんな龍示をゲイ集団は止めに入る。
「それはやりすぎよぉ! 本当にイッチー死んじゃうからぁ!」
「そうだそうだぁ!」
「気持ちは分かるけど抑えて!」
そんな言葉、知ったことか。
「ぐぬぬっ! 殺す! あいつだけは殺してやる! 放せオラぁあ!」
龍示は憤怒の形相でイチローを殺そうと歩みを進めようとするが、ゲイ集団が龍示を羽交い絞めにしているため、それは叶わない。
「やめろって! グフフ……」
「そうよそうよ! へへへ……」
「どけぇええ! 放せぇええ!」
「くふふ……」
龍示を羽交い絞めにしている集団の様子が何やらおかしい。
「おぉおおい!? 本当、放せぇえ! なんかケツに硬いの当たってんだけど!? なんかケツに硬いの当たってるって! マジで放せぇえ!」
しかし、ゲイ集団は譲らない。
「絶対に放さないんだから! ぐふふ……なにこの筋肉……超エロいんですけどぉ……」
「そうだそうだぁあ! このケツの弾力……たまんねぇ……」
ゲイ集団は龍示を羽交い絞めにしつつ、龍示の体を卑猥な手つきでまさぐって堪能していた。
「マジで頼むからぁあ! 本当何もしないから放せぇえ! お願いだからぁあ! ひぎぃっ!?」
「藤田君!? 藤田君!」
外から龍示を心配する沙希の叫び声。しかし、龍示はそれに応える余裕など無かった。返事の代わりに、
「アッー!」
龍示の阿鼻叫喚の絶叫が木霊した。
***
その日の夜。藤田家にて。
「ちょっとぉ~? 龍示、夕飯だってさっきから言ってるじゃない。返事くらいしなさいよ」
龍示の母は閉ざされたドア越しに、部屋にいるであろう龍示に言うが、いくら呼んでも返事は返ってこない。仕方ないので、母は龍示を放って食卓へと向かった。
「兄さんどうだった?」
先に席についていた和が母に向かって尋ねた。
「知らない。返事すらしないんだもん。一体どうしたっていうのかしら……」
「泣きながら帰ってきたと思ったらすぐに浴室でシャワー浴びて、その後部屋に籠ったきりだもんね。一体なにがあったのやら……」
***
その頃、鷺咲家にて。
「姉さーん? 夕飯だって、さっきから言ってんじゃん。聞こえてないの?」
岬は『さき』とプレートのついたドアを乱雑にノックしながら言った。
部屋にいる沙希に声は届いているはずなのだが、返事は無い。
「ちっ……入るからね……?」
岬は本人の許可を得ず、遠慮無く部屋に入った。
部屋の中は明かりが点いておらず、真っ暗。
岬は目を凝らして見てみると、沙希がベッドでうずくまっているのが分かった。
「姉さん?」
「私……藤田君になんて謝れば……。私のせいで……。私のせいで……! うぅ……ひっぐ……」
「はぁ? ちょっ、なに泣いてんの? 意味分かんないんですけど?」
岬は困ったように頬をかいて言った。
「私……絶対に藤田君に嫌われちゃったよぉ……うぇえ~ん! うぇえ~ん!」
「やったじゃん」
「やったじゃないよバカぁあ! 藤田君がこのままやめちゃったら……私……どうしたらいいの……!? 藤田君に嫌われたら……私……恐いよ……!」
「……ちっ。意味分かんない。なんで姉さんが嫌われなくちゃいけないわけ? あいつだって野球部がそういう場所って承知の上で入ってきたんじゃないの? 姉さんが負い目感じる必要なんてないじゃん」
「あるよ! 藤田君があんな酷い目に遭ってるのに、私、何もできなかったんだよ!? 藤田君は私のためにあんなに頑張ってくれてるのに……私は……!」
「あいつが頑張ってる? 馬鹿じゃん?」
「!」
「あいつ、姉さんのこと下衆な目でしか見てないよ。姉さんは気づいてないみたいだけどね。あいつは姉さんを自分の物にしようと画策してるだけ。姉さんのためなんかじゃない。自分の欲望に素直なだけのクズだっつーの」
「勝手なこと言わないでよ! 藤田君はそんな人じゃないもん!」
「呆れた……。まだそんなこと言えるんだ。今までそう言って、姉さんの言う通りになったことあった? 無いでしょ?」
「藤田君は違う!」
「姉さん、いつもそうだよ。言い寄ってくる男どもを簡単に信用する。そんで最後には男に理不尽なキレ方されて姉さんが傷ついて終わり。あいつも今回の件で、変な理由つけて姉さんにつっかかってくるだろうけど、気にしちゃ駄目だよ? クズの言うことに耳を傾けてたらキリが無いんだから」
確かに、岬の言った通りになったことは何度もあった。自分に近寄ってくる男の気持ちをくみ取ることができなかった結果、相手を怒らせてしまったことは一度や二度ではない。
「そんなの……無理だよ」
岬は男の言い分を理不尽と言うが、沙希はそうは思えない。自分に非があるのに気にせずにいられないのだ。
「ごめん……。出てって。岬」
「はいはい。夕飯は?」
「……いらない。気が向いたら食べる」
「あっそ」
岬は不機嫌そうに鼻を鳴らして沙希の部屋を後にした。
***
翌日。
桜は自室で夏休みの課題に取り組んでいた。
チラリと時計を見てみると、時刻は昼の二時に差しかかっていた。
「ふぅ……。けっこう、はかどったな。ちょっと休憩……」
桜は側に置いてあるマグカップに口をつけ、喉を潤す。カップを置くと、長時間座ったことで凝り固まった体を、伸びをしてほぐしていく。
♪♪♪
「?」
携帯の着信だ。桜は携帯に手を伸ばしてディスプレイを確認してみる。和からの着信だ。
桜は通話のボタンを押す。
「もしもし?」
『あ、桜ちゃん? 今、時間大丈夫?』
「うん。平気だよ。なに?」
和は『えっとね……』と言葉を選ぶようにポツリと口を開く。
『昨日から兄さんの様子がおかしいの』
「? それ、いつもじゃない?」
『いつもよりもおかしいの! 冗談言ってる場合じゃないんだよ!』
和はそれなりに切迫していたようで、桜は冗談を言ったことを謝って、ちゃんと和の話に耳を傾ける。
『なんかね? 昨日、学校から泣きながら家に帰ってきたんだよ。それでずっと部屋に籠ったままで』
「え……!?」
桜は耳を疑った。
「ちょっと待って! 龍示泣いたの!?」
殺人狂が笑顔でボランティアに取り組んでいるところを目撃したような衝撃を、桜は受けた。
『うん。あ、そういえば、兄さんが泣いてるとこって珍しいね』
「ていうか、あたし一回も見たことないんだけど……。それで? 今、龍示はどうしてるの? まだ部屋に籠ったままなの?」
『ううん。今日になったら一転して平然と何も無かったかのように振る舞ってるんだよ』
浅く考えれば龍示の問題は解決したように思えるが。桜は一縷の望みをかけて和に尋ねる。
「それ、吹っ切れたってことじゃなくて?」
『違う。兄さん、目が死んで能面みたいな顔になってる』
「Oh……」
桜は手で顔を覆って欧米人のようなジェスチャーで嘆いた。
野球部で何かあったということは、
『たぶん、兄さんがおかしくなった原因に例のゲイ集団が絡んでるんじゃないかって思ってるんだけど……』
「……だね」
最悪、龍示の貞操が奪われてしまっていることを視野に入れておかなければならない。
『でも、どうしていいか分からないんだよ。何があったのか聞くのもマズいと思うし』
「変に掘り返すようなこと聞いて発狂されても困るしね。それで今、和は静観してるってわけだね?」
『うん。静観っていうか、お手上げ状態だね。それで桜ちゃんがなんとかしてくれないかなぁって。桜ちゃん、兄さんの扱い上手でしょ?』
「龍示を犬や猿みたいに言わないでよ……」
差し詰め、桜は優秀な龍示のブリーダーといったところか。
『お願い、桜ちゃん。助けて。報酬は、はずむよ?』
「? なに? 報酬って」
『えぇっと……アタシ今、スーパーで買ったお弁当食べてるんだけど、それについてる醤油あげる』
「全然はずんでないから! っと、話戻すけど、和はあたしにどうして欲しいの?」
『さっき言った通りだよ。兄さんのことを助けてほしい』
「あの……そのために具体的に何をすればいいか聞いてるんだけど……」
『えっと……それは桜ちゃんが考えて』
「まさかの丸投げ!?」
『だって……あ、そうだ。アタシまだ中二だから! 人生経験が桜ちゃんと違って浅いから! ここは一つ、先輩のお手並みを拝見しておこうかと』
「今考えたろ」
ああ、もう、と桜は髪をクシャクシャとして、
「それで? 龍示、今家?」
『ううん。自主練するって言ってバッティングセンター行った』
「……分かった。今行く」
『アタシもついてく。桜ちゃんの家の前で待ってるね』
「了解」
桜は電話を切って、部屋着を着替え、出かける準備をする。
「どうか……龍示の貞操が無事でありますように……」
***
桜と和はバッティングセンターに到着。
「いた……!」
二人はすぐに龍示の姿を見つけることができた。昨日と同じ、一四〇キロのコーナーだ。
二人は龍示に気づかれないよう、そっと近づいていく。
「…………ブツブツ」
龍示は何やら呟きながらバッティングに没頭している。
「目標をセンターに入れてスイッチ……(カキーン!)……目標をセンターに入れてスイッチ……(カキーン!)……目標をセンターに入れてスイッチ……(カキーン!)」
昨日と違い、龍示は一四〇キロの速球をバンバン打ち返していた。しかし、
「本当に目が死んでる……! あれはヤバい……! いろんな意味で……!」
龍示の目には生気が宿っておらず、まるで死人がバットを振るっているかのようで、なんかシュールだった。
「でしょ? あんな兄さんと一緒に暮らしてたら二日でチアノーゼだよ」
「ノイローゼね」
チアノーゼは皮膚や粘膜が青紫色である状態を意味する。
「……ていうか、あれ、あたしの手に負えないと思うんだけど……。あんな病んでる人間相手にしたくないんだけど……」
「それでも桜ちゃんしか頼れないんだよ! 兄さんをなんとかできるのは桜ちゃんだけなんだよ!」
「うぅ……」
病んだ人間と対峙するのは恐いが、それと同じくらいに龍示のことが心配でもあり、力にもなりたいとは思う。桜はどうしたものか、と龍示を救う策を考えるが、
「あれぇ……桜じゃんかぁ……それに和まで……どうしたぁ……?」
「「!」」
龍示が二人に気づき、不気味な作り笑いを浮かべて声をかけてきた。
「りゅ、龍示……」
「へへへ……見てくれよ桜ぁ……。俺……結構打ち返せるようになったんだぜぇ……? (ボスッ)クフェフェ……。これで鷺咲さんに褒めてもらえるぜぇ……(ボスッ)」
(打ち返せてない! 龍示今打ち返せてないからね!?)
(駄目だ……! 兄さんの意識が朦朧としている……!)
武山がこの場にいたら龍示が変な薬に手を出していないか心配しそうだ。
球切れでピッチングマシーンが作動しなくなっても、龍示は朦朧とした様子でバットをスイングし続け、普通の人には見えない球を打ち続けた。
「あれ……球切れじゃねぇか……。コイン入れなきゃ……」
龍示はもう一度ピッチングマシーンを作動させようとコインを投入口に伸ばすが、
「龍示っ!」
「んあぁ……?」
「ちょ、ちょっと休憩しない!?」
「あぁ……いいけど……」
龍示は砂漠でさまよっている人のようなフラフラと頼りない足取りでピッチングマシーンを後にする。
とりあえず、知らずの内に体力が限界近くなっている龍示の保護には成功したわけだが、桜と和はなんの作戦も持ち合わせちゃいなかった。
和は静観を決め込み、桜に全てを託す。
(とりあえず、男と野球部の話題は禁句。今は心にゆとりを持ってもらうことが大事……!)
桜が策をあれこれ考えていると、
「……あ、そうだ!」
和が突然、ポンと手を鳴らして口を開いた。
「アタシ、これから予定があったんだ! それじゃあね! 二人とも!」
そう言い残して返事を待たずにこの場を去って行った。
(和ぁあ!? ちょっ、このタイミングでまさかのバックれ!?)
取り残された二人は、
「………………」
「………………」
気まずい沈黙が訪れた。
桜はこんな龍示を相手にするのは初めてのことで、そわそわと視線をさまよわせる。すると、龍示の両手に異変を見つけた。
「ちょっと龍示っ! 手!」
「……?」
龍示の両手にグルグル巻かれていた包帯は赤黒く変色して擦り切れ、今もポタポタと血が滴っていた。
「ちょっと待ってて! 救急箱借りてくるから!」
こういう客が怪我をする可能性を孕んでいる施設には、手当をする物が常備されているはずだ。
桜は受付で事情を話すと、係員の人はすんなりと救急箱を貸してくれ、龍示の所へ一緒に来てくれた。
係員の人は龍示の両手の惨状を見て顔をしかめる。
「手当はあたしがしておくので大丈夫です。救急箱を貸してくれてありがとうございます」
「は、はぁ……よろしくお願いします……」
係員はこの場にいなくても大丈夫なのかといった具合に迷ったが、桜の言うことに従い素直に持ち場に戻った。
「こっち座って、龍示」
「……あぁ」
桜は龍示の血でボタボタの包帯を解いていく。桜の腕や手が龍示の血で汚れていくが、桜は気にした様子も見せずに黙々と手当をしていく。
「……こんなになるまで……バカじゃないの?」
「……お、おう……」
桜は龍示の手に消毒液を垂らしてガーゼで拭いていく。傷口の消毒を終えると、新しいガーゼを傷口の大きさに合わせて切って、それを傷口に当ててテープで固定。最後に包帯をグルグルと巻いていく。
「……龍示にはやっぱり、あたしがついてないと駄目だね……」
「……ふっ、今更だな」
龍示は呆れたように薄く笑って答えた。
「………………」
「………………」
再び、二人の間で沈黙が訪れた。しかし今度は気まずい沈黙ではない。長い間、龍示と桜のお互いが一緒に感じてきた『お互いが側にいるのが当たり前』という、心地良い静寂だ。
「よし。完璧」
桜は手当を終えた龍示の手をポンと叩いて言った。
血はまだ止まっておらず、新しく取り換えた包帯も早速赤く染まっていく。
「……ありがとな。桜」
「……いいよ。龍示」
桜は、へへっ、と笑って誤魔化した。
「それより、しばらくバット握るのは禁止だよ?」
「はいはい。気をつけます」
「そう言って、あたしの知らない所でバット使うんでしょ?」
「さすがだな。俺のことは何でも知ってる」
「馬鹿! 本当、駄目だからね? それと、後でちゃんと病院に行くこと。いい?」
桜は念を押すように言うと龍示は渋々と頷いた。
(あれ……? そういえば龍示、ちょっと正気に戻った……?)
とはいえ、まだ少し元気が無い。ふとした拍子でいつ、またダークサイドに落ちるかどうか分からない。桜は龍示の心にもう少しの余裕を取り戻してあげたいと思い、そのために考えを巡らせる。そこへ、
「いた」
第三者の声。
視線を向けると、そこには沙希にそっくりなショートヘアの美少女がいた。
岬だ。
「なんだよ『いた』って……。俺になんか用か?」
龍示は苦々しく顔を歪めて岬に尋ねるが、岬はそれを無視してスマホをいじって電話をかける。
「もしもし、姉さん? いた。バッティングセンター」
岬はそう告げると通話を切って龍示を嘲笑するように、
「今日、部活じゃなかったっけ? やっぱ昨日で懲りた? ふふっ」
「おまえ、カサブタにもなってない傷口に塩酸ぶっかけるようなこと言うなよ……。もうちょっと気ぃ遣ってくれてもいいんじゃねえの?」
「は? ウザ。なんであんたみたいなヤツに同情しなくちゃいけないの?」
「だよな。おまえ、俺が酷い目に遭ってるってのに外で爆笑してたもんな。ちゃんと聞こえてたんだからな? 俺」
岬はぷぷっ、と吹き出して、
「最高に笑えたわ。ムービー撮っといたんだけど見る?」
「見たいわけねえだろうが! 鬼か!? おまえ鬼か!」
「つか、あのくらいでなに? 貞操奪われたわけでもないのに」
「『あれ』があのくらいだと……!?」
龍示の中でフツフツと怒りが湧いてくるのが伝わる。あの地獄が『あのくらい』なはずないだろう、と。龍示の怒りは活火山のマグマの如く膨れ上がり、そして爆発する。
「おまえに分かるか!? 毛むくじゃらの手で乳首をコリコリと直にいじられた俺の気持ちが! おまえに分かるか!? 男臭い吐息を耳にかけられてベロベロと舐められた俺の――うぷっ!」
「龍示! ビニール袋!」
桜は咄嗟にビニール袋を龍示に渡す。
「オェエロロロロ! ゲボロロロロ! おぇえぇ! げぇえぇ!」
龍示は胃の中のものをビニール袋にぶちまけた。
「はぁ……はぁ……」
一応、ある程度出し切ったようで、龍示は少し苦しそうに息をついた。
「龍示、水」
「……サンキュ」
龍示はペットボトルの水を受け取り、それの中身を喉に流し込む。
少し落ち着いたところで、龍示は吐瀉物の入った袋を岬に差し出す。
「いる?」
「『いる?』じゃねえわ!」
***
沙希はバッティングセンターを目指して走っていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
沙希は学校で龍示に昨日の件を謝りたかったのだが、部活の時間になっても龍示は現れなかった。あれだけのことがあってすぐに学校に来れるはずがないと分かっていても、もしかしたら、という考えを沙希は捨てきれないで、それから二時間近く校門の前で待ち続けていた。
そこへ、野球部の覗きのために同じく登校していた岬と遭遇。岬は沙希の事情を知ると、覗きを中断して龍示を探しに行くと申し出てくれた。
沙希はその申し出をありがたく受け入れ、自身も外に出て岬と二手に分かれて龍示の捜索を開始。
それから三〇分程して岬から龍示がバッテイングセンターにいるとの連絡が来て、こうして走っているというわけだ。
「はぁっ……はぁっ……。……? ……あれ……?」
沙希は向かいの歩道に見覚えのある顔を発見した。車道に車が無いことを確認してから、走って横断歩道を渡り、
「和ちゃん」
「? あ、沙希先輩」
和は沙希に気づくと、軽く会釈して挨拶してきた。
「沙希先輩、なんか急いでました? そんなに汗かいちゃって」
「あ、いや。ちょっと藤田君の所へ……」
和は沙希の用件を聞くと、少し言い辛そうに口を開く。
「えっと……今、兄さんに関わるのはちょっとやめといた方がいいと思いますよ……?」
「!」
沙希の胸がズキンと痛んだ。分かっていたこととはいえ、実際に聞くと、想像よりもショックは大きい。
「やっぱり怒って……?」
「怒ってるっていうよりは、人格が変わってしまったというか……。昨日、よっぽど酷いことがあったみたいですね?」
「! ……はい」
和の試すような言葉が沙希の胸に突き刺さる。
「……ごめんなさい。意地の悪い言い方でしたね。沙希先輩に当たっても仕方無いのに……」
「いえ。間違ってませんよ。和ちゃんは。……すみません」
「……謝らないでください。どうせ沙希先輩は何も悪くなくてお門違いの責任を感じてるだけでしょうから。それじゃあ、アタシ、そろそろ帰りますね? 見たいドラマの再放送があるんで」
「……そうですか。それじゃあ、また」
沙希は和に別れを告げると再びバッティングセンターを目指して走っていった。
***
「そういや、おまえ、俺になんか用か? 俺のこと探してたみたいだけど」
龍示は岬がここに来た理由を尋ねた。
「姉さんがあんたのこと探してたから手伝ってやったの。姉さん、あんたに電話繋がんないって言って凄い心配してたんだから」
「あ……」
龍示は今日一日、携帯電話を携帯していなかったことに今更ながら気づいた。
「で、実際に見つかったらなに? 心配してる姉さん放っておいて他の女とお気楽にデート? 随分といい御身分ね」
「いや、デートじゃねえから」
「全然説得力無いんですけど? てことは何? 昨日の件で、もう姉さんに見切りつけたんだ。あれだけエラそうなことばっか言っておいて。そりゃそうか。あんたクズだもんね?」
「………………」
龍示は唖然として岬を見た。『こいつ、言い過ぎじゃね?』と目が語っている。昨日、強烈なトラウマを植えつけられて傷心中の人間に、ここまでの口が聞ける人間がいるとは思わなかった。ムカつくとか、そういうのを通り越して、なぜだか清々(すがすが)しく感じてしまい、笑みがこぼれそうになった。
しかし、桜は違った。
「……黙れ」
「……は?」
桜の怒りを孕んだ声に、岬は眉根を寄せた。
「あんま馬鹿みたいなこと言わないでくれる?」
桜はそう言って、ゴミ袋から龍示の血だらけの包帯を取り出し、岬の目の前の床にそれを叩きつけた。
「なにこれ……? グロっ……! 血……?」
気色悪そうに表情を歪める岬に、桜は言う。
「それ全部、龍示が沙希のために流した血だよ」
「は……? いきなり何言って……」
「沙希、甲子園に行くのが夢なんだって? 馬鹿みたいだよね。現に周りの人から馬鹿にされてたんだっけ? そりゃそうだよ。うちみたいな学校の野球部が甲子園だなんて。岬さんだってそう思ってるでしょ? 無謀だって」
「……そんなこと……」
「ないって言えないでしょ? 言ったら皮肉になっちゃうもんね。馬鹿にもできないくらいに馬鹿げた夢だよ。岬さんも内心でそう思ってるんじゃないの? 別に、岬さんを責めてるとかじゃないの。岬さんは普通だもん」
「……は? い、意味分かんないし……」
岬は桜から目を逸らした。
桜にはそんな岬の態度が癇に障る。
「あんたは他人の無謀な夢のために、ここまでボロボロになれんのかって言ってんの!」
桜は我を忘れて怒鳴った。
「!」
「傍観者の分際でエラそうな口聞いてんのは岬さんの方でしょ? ましてや、その程度の人が龍示をクズ呼ばわりとか……あんまり、ふざけたこと言わないでよ……! 龍示は! 岬さんが簡単に語っていいような軽い人間じゃない! 誰かのために、自我を忘れて、ここまで一生懸命になれる凄い人なんだから! 龍示を馬鹿にしたら絶対に許さないから!」
「っ」
龍示は居心地が悪そうに頭をかいて、
「桜、やめてくれ。なんか痒い。俺、そんな立派な人間じゃねえし。つーか、目立つ」
「! ご、ごめん……」
桜はハッとなって怒りを引っ込めた。その拍子に、この場の状況に周囲の目を引いていることに気づく。
「けど、ありがとうな。自分のために怒ってくれるやつがいるってのは……なんか、こう……嬉しいもんだな……」
「……うん」
「それと岬」
岬は声をかけられるとビクッと身を震わせた。桜の怒鳴り声に完全に委縮させられてしまったようだ。意外と打たれ弱い性格なのかもしれない。
「な……なに……?」
「桜の言ったことは気にすんな。おまえの言ったことはまるっきり的外れってわけじゃねえしな。つーか、むしろ桜の言ってることの方が的外れな気がするし」
桜は恥ずかしそうに『おい』と龍示の肩を軽く叩いた。その顔は少し赤く染まっている。思いの外恥ずかしい言葉を口走っていたことに気づいたらしい。
「おまえはただ、鷺咲さんの心配してただけだろ? 大事な家族なんだ。悪い男にひっかからないように気を張ってたんだろ? 桜はああ言ったけど、俺はおまえが鷺咲さんのために頑張ってたこと、分かってるから」
「っ」
岬はそれきり、何も言わなくなって顔を俯けた。その表情はよく見えないが、きっと深刻に落ち込んでいることはないはずだ。
岬は悪くない。それがちゃんと伝わっていればいいのだが、と龍示は苦笑した。
***
岬は龍示の言葉に戸惑っていた。他人から自分の頑張りを認められることなんて、今まで生きてきて一度も無かったから。
「………………」
こんな時、どう言葉を返したらいいのだろう。こうやって優しい言葉をかけてもらった時、自分は何をすべきなのだろう、と頭を悩ませていると、龍示が再び声をかけてくる。
「今まで俺のために鷺咲さんの貞操を守ってくれたこと、感謝するぜ」
蹴ろう。
「ゴフェアァ!?」
龍示の腹に渾身の蹴りをくれてやると、龍示の体はいとも簡単に吹っ飛んで床を転げ回った。
「あんたにあげるために守ってたわけじゃないから! 調子のんな! 死ね!」
これ以上、こんなふざけた男に付き合ってられるか、と、岬はこの場を早足で去った。
***
「か……かはっ……! み……みぞ入った……! 死ぬ……!」
龍示は殺虫剤をかけられた虫のようにのたうち回り、桜に助けを求めた。
桜は呆れたように、岬が立ち去るのを黙って見送った。
「もうちょっとマシな照れ隠しはなかったの? 龍示」
「……やかましい」
龍示は痛む腹を押さえて、ゆっくりと起き上がる。
「…………はぁ」
桜は憂いげに溜息をついた。
怒りに身を任せて岬を恐がらせてしまった。その上、あんなに恥ずかしい言葉を躊躇いも無くベラベラと。これから岬と顔を合わせた時、どんな顔をしていいか分からない。
とりあえずは、
「帰ろうぜ」
「……うん」
二人はバッティングセンターを出ようと、出口を目指す。すると、
「藤田君っ!」
「「?」」
岬と入れ違うように、苦しそうに肩で息をしている沙希が現れた。
「ど、どうしたんですか?」
龍示は沙希の尋常でない様子に戸惑い、おずおずと尋ねた。顔色を窺おうにも、沙希は膝に手をついて顔を俯けているため、顔はよく見えない。
沙希は顔をバッと上げて龍示の方へと向き直り、
「……ごめんな……さい……!」
深く頭を下げて、震える声音で謝罪してきた。
「……え?」
「ちょっ……沙希!? 泣いてんの!?」
沙希は戸惑う二人などおかましいなしに、涙でしゃくり声をあげながら言う。
「ごめんなさい! 藤田君……本当にごめんなさい!」
「あの……意味が分かんないんですけど……? なんで謝られてるんですか? 俺」
龍示には沙希に謝られる覚えなど全く無かった。
「え……?」
沙希は予想外の龍示の反応に真っ赤に泣き腫らした顔をポカンとさせたが、
「だ、だって! 私、昨日、何もできませんでした! 藤田君が泣きながら助けを求めてたのに!」
昨日、自分がゲイ集団に襲われたことで謝っているらしい、と龍示は理解した。そうしたら余計に沙希が謝る理由が分からなくなった。
「いやいや、普通に考えてください、鷺咲さん。いいですか? 逆に、あれをどうにかできる女子がいたとしたら、そいつは間違いなくブスです」
「だからなに!?」
会話になっていない。
龍示の支離滅裂な言葉と桜のツッコミを無視して、沙希は自分を責め続ける。
「昨日みたいなことが起こるなんて、最初から考えれば分かっていたことなのに! 私の注意力が足りないせいで! なのにどうして……」
そんなに平気そうなのか。あるいは平気を装っているのか。心に酷い傷を負って余裕など無いはずなのに、なぜ沙希を気遣うような視線を向けてくるのか。なぜ沙希を責めるようなことをしないのか。そういう疑問を沙希から向けられているような気がした。
逆に龍示は、
「あの……なんでそう自分を責めるんですか? 悪いのは全部あのゲイ軍団なのに」
意味が分からない。沙希がそこまで負い目を感じるのか、全く分からない。まさか、裏でゲイ集団を手引きするような真似をしたとでも言うのか。龍示は一抹の不安を覚えた。
「なんでって……私がもっとしっかりしてたらこんなことには!」
どうやら龍示の不安は的外れだったようだ。結局、沙希は感じる必要の無い負い目を感じていたらしい。
「ちっ……」
龍示は珍しく、沙希の前だというのに苛立たしげな顔になる。正直、沙希に非なんて全く無いというのに、沙希に謝られても挨拶に困る。そして何より面倒臭い。
「あのな、鷺咲さんには何の責任もねぇんだよ。これ以上鷺咲さんを責めるようなこと言ってみろ。殺すぞ、桜。ああん?」
「……なんであたし? あたし何も言ってないんだけど?」
龍示は桜に向かって言った。沙希本人に強く言える勇気は無いのだ。
桜がヤレヤレと溜息をついて、
「沙希。龍示の言う通り、自分を責める必要なんてどこにも無いよ。それに、龍示だって身に覚えの無いことでしつこく謝られても面倒なだけだろうしね」
龍示の言いたいことを代弁してくれた。
「桜ちゃん……」
沙希はどうしていいか分からないというような、子供のように縋る顔で桜を見た。謝るのが駄目というのなら、自分は何をしにここへきたのか、自分は何をすべきなのか。沙希は必死に考える。そこへ、
「そういえば、俺、昼飯まだだったなぁ……」
龍示は白々しい口調で言った。
「「……?」」
沙希と桜は真意が分からず、龍示の言葉を待つ。
「でも、一人で食べるのもなんだか寂しいしなぁ……。昨日酷い目に遭ったことだし、そうだなぁ……。美少女とご飯を一緒にできたら元気なんてすぐに戻るんだけどなぁ……」
龍示はわざとらしく沙希にチラチラと不審者の如き視線を送る。
沙希と桜は龍示の言ったことに得心がいった。桜なんか呆れている。
「ま、任せてください!」
沙希は龍示の元気が出るならば、と、かなりやる気だ。そして、バッと桜に頭を下げて、
「桜ちゃん! 藤田君と昼ご飯を一緒してください! お願いします!」
沙希は龍示のアイコンタクトの意味を履き違えた。
「「……は?」」
「えっと……あの、鷺咲さん……?」
「あ、そうだ……! 丸投げする感じで桜ちゃんの逃げ道を塞いで……ふふっ……我ながら完璧です……!」
沙希は『よし』と頷いて、
「それじゃあ、桜ちゃん! お願いします!」
そのまま逃げるように笑顔でこの場を立ち去った。
「………………」
「………………」
龍示と桜は呆然とその様子を見送った。
そして龍示はポツリと呟く。
「……俺、ラブコメのヒロインの気持ちが分かったわ」
「鈍感主人公のやつね……。ちなみにどんな気持ち?」
「今、誰でもいいからぶっ殺して気分をスカッとさせたい」
「ラブコメのヒロインそんなこと考えてないから!」